第28話 知性の進化

 私が嫌悪するのは知性を間違って使い、思い込みや先入観にとらわれ真実を見失う者たちだ。

 それらが誤解を呼び、不和を呼び、争いを生む。

 わかり合わせたいのだよ、私は。

 人類は知性を正しく持ち、進化しなくてはならない。

 そうしなければ、大いなる世界へ旅立っても、新たな火種を生むことになる。

 一つの主義が別の主義とぶつかる。新たな主張が主義を生み、既存の主義とぶつかりあう。

 そうして火種は広がっていく。

 人から闘争本能を奪わない限り、争いはなくならない。

 いやその闘争本能すらも抑え込む人の心を信じる。平和を望む心を。


 ふと、犬星を見やる。

 目の下にクマを作り、紗菜を支えている。どうやら紗菜も疲弊しているらしい。

「良かった。二人とも無事で」

「うん」

 犬星が嬉しそうに目を細める。

 なんで嬉しそうなんだ。

 その目はやめてくれ。期待されるほどの人間じゃない。そんな心持ちじゃない。

 二人になら、僕の命を差し出せる。そう思ったから、会いにきたのだ。

 会えば、僕は頑張らなくていいと思ったからだ。

 もう生きる意味もない。そう思っていた。

 だからやめてくれ。これ以上、期待を押しつけないでほしい。

「八神くんなら任せられる」

 犬星がそういって手を伸ばしてくる。

 違う。

 僕はそんなにいい存在じゃない。

 僕は悪だ。罪悪だ。

 すべてを間違った方に解釈していた。

 兄の言葉も、もう違う。

 心配するというのは労力のいること。だからみんなの気持ちが分かる気がする。

 僕も犬星のことを心配することしかできなかった。

 震災の中で、他人の心配しかできないのは実感だ。それが分かるのは不幸な証拠なのかもしれない。

 ――地球の引力に魂を惹かれたもの。

 今なら分かる気がする。

 成長をやめ、人としての死を迎えた者たち。

 人は進化しなくてはならない。世代ごとに意思が変わってしまえば、泣き寝入りしてきたことになる。

 僕らはまだまだ発展途上の生き物なのだ。

 より良くなるには進化するべきなのだ。知性を正しく持ち、進化しなくてはならない。

「少し変わったみたい? どうしたの?」

 あの神様と出会うと僕の気持ちが鈍る。いや、気持ちが入れ替わると言った方が正しいのか。

「やっぱり、あたしを殺すの?」

 紗菜が小さな声で訊ねてくる。

 それを聴いていた後ろの父と兄がざわめく。

「いや、殺さない。もう罰は受けた。僕はもう……」

 言葉に詰まると、紗菜は喜びもしない。

 なんで殺さないの、と言いたげな顔で見やる。

 生きて未来を切り開け。そう願い伝える。

 それぞれの立場にならなければ分からないこともある。となれば、紗菜の視点からも世界を変えて欲しい。それが切実な思いだ。

 でも、その半分も伝わらなかったのか、紗菜は悲しげに目を伏せるばかりだ。

「もしかして、ニュースになっていたのはお前のせいか?」

 訊ねる兄の視線が痛い。

 すでに知れていること。

「まあ」

 それしか応えられなかった。

「こいつ! 育ててやった恩を忘れて!」

 父が怒り、拳を振り上げる。

「待って!」

 間に紗菜が入り込み、手を広げる。

 振り下ろした拳を引っ込めない。

 紗菜の頬が激しく打ち付けられ、倒れこむのと同時に僕が支える。

「やめて」

「だってこいつのせいで!」

 父にも何かあったのか、怒りを露わにしている。

 兄は後ろで父を押さえ込んでいる。

「輝星が悪いわけじゃない。父さんも自分の立場を受け入れろよ」

 兄が珍しく父に反抗している。

 怒りをまだ露わにしている父が周囲の目に気がつき、大人しくなる。

 僕は兄と父から離れ、紗菜と犬星を引き連れる。

 医療班に紗菜を見てもらう。

 頬の腫れが目立つが、診てもらう余裕はないらしい。

 湿布を引っ張り出してきて、貼る。

「これで我慢してくれ」

「うん」

 短く答える紗菜。

 それもこれも分かっていたような顔をしている。

 父がああじゃ、当分戻れないな。

 僕はすっと目を細める。

 なんであんな父と兄のために頑張ってきたんだろ。

 今まで家事を文句一つ言わずに手伝ってきた。

 それもこれも、母を捨てた父が悪いんじゃないか。

 僕はお母さんが病気を治して、また一緒に暮らせると思っていた。

 病気じゃなかったなら、きっといい母親だっただろうに。

 それも知らずに裁判所は安直な応えを出した。

 確かに病気の時の母は異常だった。

 兄も悩まされていた。

 それは分かっている。

 だが、そんな母親と向き合いもせずに一人別居を決め込んだ父は、まさしくけつをまくって逃げ出したのだ。

 だから兄も僕も居場所を失った。崩壊した家庭を立て直すこともできない。

 だが、そんな中でも兄は明るかった。

 自ら水を運んだり、食事を確保したりしていた。やや自分勝手なところはあるが、兄の気持ちを理解していられるのも、僕の役目かもしれない。最も近い位置にいるのだから。

 僕たち兄弟は。

 それでもなお生きている。

 なぜだ。

 僕は生きる意味を見いだそうとしている。それを見た兄も何かを得たのかも知れない。

 分からない。

 兄の考えは分からない。でももうべそを掻く様子はない。

 この震災が彼を変えたのなら、それだけは救いかもしれない。

 救いなんてないと思っていたが、少しは変わったらしい。

 子どもっぽい父のことは兄に任せ、僕は紗菜と犬星を見やる。

 二人とも疲労はしているが、体調面での問題はほとんどない。

 震災の被害は大きく、スマホも使えない。

 備蓄である白米や乾パンなどで飢えをしのぐ。

 できることも少なく、様々な物資が不足している。

 中でも赤ちゃん用のおむつやミルク、離乳食など。

 大人もお米は小さなおにぎりくらい。

 各家庭も、冷蔵庫が止まり、冷凍食品や肉類を食べるしかない。キャンプ用のガスバーナーやガスコンロで焼いて食べるのだった。

 小学校では未だに帰る家もなく、体育館や教室で段ボールを広げて眠る。

 たまには歩いていないとエコノミー症候群になりかねない。

 ただ、町中を歩いていると、顔にハンカチをかぶせてあった遺体があったりする。

 帰る家を失った魂がここにもある。

 人らしい死に方も許されず、死を迎えた。

 人が人らしい生き死にを迎えなければならない。

 それが地球を食い潰し、宇宙にはけ口を求めてきた人類にとっての希望。あるいは責務。

 過去を過去のもとし、何も学ばない人類を責める。

 人のあり方というものを示す必要がある。

 自然環境と向き合うこともできずに。

 僕たちはなんて過ちを犯してきたのだろう。

 すべての過ちに報いるために。

 世界を変える、変えてみせるさ。

 人が人らしく生き死にを迎えられるように。

 そんな生き様が今の人には必要なのだ。

 冠婚葬祭。

 人を人たらしめるもの。

 ただ死ぬのではなく、看取られて。

 そうであって欲しいと望むのは僕のエゴか。それとも希望的観測か。

 どちらにせよ。僕はまだその望みに届いていない。

 改めて思い知った。

 僕は無力だ。

 まだ人を報いるに足りない。

 救いたい。でもどうやって?

 分からない。

 でもまだやるべきことがある。

 僕はどうしたらいい?

「あたし生きていくのつらい」

 嘆く紗菜。

「甘えるんじゃない。生きる方が闘いだ」

 紗菜の両目から流れ落ちる涙。

 大声を上げ、泣き叫ぶ。

 悲しいのだ。

 マスコミにこってり絞られたのだろう。

 心が疲弊している。

 ネットの書き込みもあるのだろう。

 周囲の人々から奇異の目で見られたかもしれない。

 いずれにせよ紗菜は窮地にいる。

 そんな彼女を救えるのは僕だけかもしれない。

 でも――。

 犬星を見やる。

 彼女に一言。

「犬星さん。紗菜さんを頼みます」

「! 八神くんは?」

 そこに僕がいないことを暗に告げたのだが、一発で分かるとは思いもしなかった。

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