其の十六

『わたしは』


 私は目を覚ます。目の前には笑顔の太宰がいる。

 いつも通りの癖毛にいつも通りの丸眼鏡を掛けていて、相変わらず胡散臭い。


「……すみません、寝てました?」

「ああ、びっくりするくらい寝ていたよ。今までの警戒心が嘘みたいだ」

「今でも全然警戒してますけどね。あなたのような人間は……とくに」

「おっとこれは手厳しい」


 身体を起こし、私はぼやけた視界で周りを観察する。そこはいつも通りの大学、その図書館。

 確か先輩方の卒論の閲覧を行うために、ここへ来たはずだったのだが。

 作業途中で寝てしまったのか?

 状況を把握しようとしている私を見て、太宰はピアスを揺らしながら私に言う。


「机の上で死んだように倒れていたもんだから、ちょっと運んでしまったよ」


 自分がどこに寝転がっているのか、私が首をゆっくりと動かすと、どうやら長椅子の上で太宰の太ももを枕に寝ていたらしい。


「うわ……」

「うわって、失礼だなぁ」


 私は慌てて、太宰から離れる。この人、最近なんだか距離が近い。何度も拒絶しているはずなのに、段々と距離を縮められている気がしてならない。

 この人に心を許したつもりはないのだが……。

 そう考えながら、私は太宰の傍に置かれていた荷物を手に取り、太宰の元から離れる。


「では私はこれで」

「今度ちゃんとした寝床で寝なよ? お嬢さん」


 なんか後ろから余計な声が聞こえてきたが、私は気にせず歩き続ける。こんなのにいちいち反応していたら時間が足りなくなる。

 今日は何のバイトが入っていたっけ? 今日は何を勉強したんだっけ。

 私は霞みがかっている頭を必死に動かし考え続ける。何度もやるべきことが現れては消え、また現れては消えていく。今日は何をするんだっけ?

 ふと私は自分の行動をスケジュール帳に記載していることを思い出し、慌てて鞄の中からスケジュール帳を出す。そこには汚い字で『夜。バイト』と書かれている。

 そうだ、今日は夜バイトの日だ。シフトにもそんなことを書いた気がする。

 今日は大規模な社会人の飲み会があったはず、そのための仕込みを■なくては■■■ない■■■■■■……




 私は震え出したスマートフォンへ目を向ける。残りのバッテリーが20%未満になっているのを見てから、通知を確認する。

 そこには母親からのメッセージが。

 開きたくない、開きたくないが、今日だけで50回はポケットの中でスマートフォンが震えている。

 いちいち通知を確認するのも、いい加減億劫になってきた。

 私は家の中で開けっ放しになっていた窓を閉じ、薄汚れたフローリングの上へ座る。遠くにクッションが見えたが、取りに行く気力はなかった。

 メッセージアプリを開き、母親からの文面を眺め、私は肺が空っぽになるまでため息を吐き出した。

 そこに書いてあったのは、自分勝手な主張ばかり。

 途中から私が返信してこなかったことに対しての文句が混じり始めていたが、おおむね父親の愚痴と悪口だった。


『恵里衣? お父さんってば最近加齢臭がきつくて、生理的に無理になったの。恵里衣もそう感じたことない? お母さん、本当に無理になっているの』

『恵里衣、ちょっと聞いてよ。今日お父さんってば、食べ終わった食器を水に浸けなかったの! 信じられる!? ご飯粒がこびりついて、落ちなかったのよ!?』

『インターネットで調べたんだけど、匂いが生理的に無理なのって、相性最悪みたい。お母さんどうしたほうが良いかな? 恵里衣もお父さんが気持ち悪いわよね? 家を出る前は散々喧嘩していたし!』

『恵里衣! 見ているんでしょ!? 既読をつけずにメッセージを読む方法があるってこと知っているんだから! インターネットで調べたのよ!?』

『ちゃんと返事しなさいよ』

『(スタンプ)』

『(スタンプ)』

『(スタンプ)』

『(スタンプ)』『(スタンプ)』『(スタンプ)』『(スタンプ)』『(スタンプ)』『(スタンプ)』


 そこまで確認して私はスマートフォンから目を逸らす。

 家を出た後でも面倒なのかこの人は。

 私はそう思いながら、嫌々目線をスマートフォンへ戻す。スタンプの後にまた父親の悪口が大量に並んでいて、読むのも疲れてきた。

 私は会話画面を一番下までスクロールし、最新の会話まで進める。

 そして、文章を一つ書き込み。送信する。


『知らないよ、勝手にやってて』


 送信した後、私はすぐに母親のアカウントを選択し、ブロック機能でブロックした。

 もう5年、いや10年は顔を見たくないからいいや。

 そんなことを考え、私はスマートフォンに充電ケーブルを差す。

 15%未満になっていたバッテリーが充電アイコンへ変わる。


「……食いしん坊さんめ」


 私はスマートフォンへそう言いながら、今度は自分が食べるための料理を始める。

 冷凍庫の中から冷凍うどんを取り出し、半分に割り、それをさらに半分に割る。そしてそれを器へ乗せ電子レンジで回答する。

 そこへめんつゆを二、三滴垂らし、小さく。


「いただきます」


 そう呟き、食べ始める。少々歯ごたえがありすぎるが、最近あまり固形物を食べていないので、働くためにもしっかりと食べないと。私はそう思いながらゆっくりとうどんを食べる。数センチずつ、数センチずつ、一本のうどんを食べるのに数分かけ、味が分からなくなり始めているベロから塩味を感じながら。


「けほ」


 途中、私は噎せてしまった。変なところにうどんが入りそうになり、慌てて咳き込む。

 咳き込むたびに視界の中に黒い虫が飛び、さらに肺が燃え上がるように痛む。このままだと床に飛び散ってしまう。私は急いでティッシュを取るため、立ち上がろうとする。しかしそんな私の目の前に床が壁のようにせりあがってくる。

 まずい、私倒れてる……■■考える■■■く、■は■■■■■だ。……




 ……■■■■■■■■■■■■■■。■■■■■■■■■■■■■。


「恵里衣お姉さん!」


 その言葉を聞き、私はハッと我に返る。私は公園のブランコの持ち手にしがみついていることに気が付く。

 空は橙と青が混ざった色をしており、今の時間が夕方だということがわわかる。


「恵里衣お姉さん……やっぱりおかしいぞ。医者に見てもらって方が……」

「大丈夫。最近、ずっとこんな調子だから」


 私は今一番できる笑顔を浮かべながら、ブランコへ座りなおす。ブランコってこんなに小さかったっけ? そんなことを思いながら、私は風と共にブランコで揺れる。


「けど……」

「ここ最近高熱も出てないし、むしろ調子がいいくらいだよ」


 私はそう言いながらブランコを漕ぎ始める。冷たい風が顔にあたり、私の身体を大きく揺らす。


「そうか……? その、嘘ついて……ないよ、な?」


 小夜が心配そうな顔で言う。

 私は「もちろん」と返しながら。


「ちょっと前の私はこんなことできなかったって。ずっと家で寝ていた時あったでしょ?」

「それはそうかもしれないが」


 と小夜がここまで言葉に出したが、すぐに頭を振り、私に言う。


「……今度私の家でお泊り会しないか? おばあ様も会いたがってるし」

「え、つい最近お泊りしたばかりじゃなかった?」


 私の言葉に小夜は訝しむような表情を浮かべる。


「最近……? いや、一か月以上はなかったと思うが……」

「あれ、そうだっけ……?」


 小夜の家に泊ったのは確か……えーっと……■■の■■で……あれ? そういえば■■って■■だっけ? というか■■■■■……




「う゛っ」


 私は血の塊を便器に向かって吐き出す。喉の奥が腫れてしまい、最悪の気分だ。

 おそらく何回も吐き続けているから喉の奥にタコができているのだろう。私は口の中の唾液と共に血を吐き捨てる。

 薬、どこだったっけ。

 私は壁に手をつきながら立ち上がる。ずっと便器の前に座り込んでいたから、足から悲鳴があがる。

 少しだけ耐えてくれ、私の足。

 そんな儚い願いを込めながら、私は立ち上がり部屋へ向かう。

 口の中は酸っぱいし、鉄臭いし、舌もざらざらとした感覚が続いていて、さらに吐き気を催しそうだ。

 口の中を水で濯いで、それから……それから……。


「あれ……?」


 何をするんだっけ。私は吐く前に何をしようとしていたんだっけ?

 吐いた後、何をしたかったんだっけ?

 本を確認したくても、腕が上がらない。私は足を引きずり、なんとか布団がある場所まで辿り着く。そして床の上に放置されていた処方箋を手に取り、中身を取り出す。

 そうだ、薬を飲もうとしていたんだ。

 私は数種類の薬を口の中へ放り込み、置きっぱなしになっていた緑茶で流し込む。

 しまった、口の中を濯ぐのを忘れていた。口の中に鉄臭さと酸っぱさが広がる。吐き出してしまう前に私は一気に薬と緑茶を流し込む。

 食道を通過する時の燃え上がるような痛みに耐えながら、私はなんとか嚥下する。


「はぁ……はぁ……」


 荒く息を吐き出しながら、私は布団の上で丸くなる。

 全身が痛い。特に身体の内側が痛い。まるでガラス片でも食べてしまったかのように。

 すると、私の目線の先にある充電中のスマートフォンが震えているのが見えた。


『この親不孝もの、誰が恵里衣をここまで育ててあげたと思っているの!?』


 なんだ……いつものヒステリックか。

 私はスマートフォンの画面を隠そうと手を伸ばすが、手が届かない。

 すぐに諦め、私は液晶に映っていた時間を確認する。

 バイトの時間までまだある。だから、少しだけ、少しだけ寝てしまおう……少しだけ……。

 固い布団の上で私は丸くなる。

 その時、私はふとあることに思い当たる。


 母親のブロック、解除したっけ……?


 しかしそんな考えも霧散し、すぐに私の意識はどこかへ沈んで行った……。




「おい、大丈夫かよ」


 由香の言葉を聞き、私は起き上がる。目の前に広がっていたのは、大学の講堂。

 いつの間にか講義が終わっていたらしい。周りの生徒はほとんど移動していて、私と由香がぽつんと残っていた。

 大丈夫か。

 そんな言葉を聞くたびにいつも「大丈夫」と返してた。

 けれど。


「わかんない」


 そう返す。由香はぎょっとした後、すぐに私の額に手をあてる。どうやら熱があるか確認しているみたいだ。


「……冷た」

「熱はなかった?」


 私の言葉に由香は反応しない。

 それに、なんだか震えている?


「お前、なんだよその体温……?」


 由香は喉から声を絞り出すように言う。私は少し戸惑いながら。


「由香? どうかしたの?」


 と返す。

 すると由香が私のことを抱きしめる。

 私は突然の出来事に反応が追いつかなかった。

 いくら人が少なくなった講堂とは言え、人目があるのは確かなのだ。


「由香っ、ちょっと……!」

「……なんだよ、これ、なんなんだ」


 声を震わせながら、由香がさらに私のことを抱き締める。

 熱のような塊を押し付けられ、火傷してしまいそうだ。


「由香、あっつ……熱でもあるの?」

「……ちげぇだろ」


 由香はそう言うと、私のことを離し、深い溜息を漏らす。


「そろそろ病院行け」

「い……ってるよ?」

「もう一回行け」

「なんでさ」

「いいから!!」


 由香が声を荒げる。私は驚き少しだけ身体を震わせる。

 彼女はわなわなと震えながら、小さく。


「私がついていながら……なんでだよ……」


 と零す。

 私が由香に声を掛けようとした時。


「いっちばーん……じゃなかった、はっず!!」

「くっそウケる。なにしてん」


 とそんな声が聞こえてくる。

 どうやら次に講堂で講義を受ける学生が入って来たらしい。


「由香、行くよ」


 良かった、由香に抱き着かれているところを見られなくて。

 そんなことを考えてながら由香を促す。

 彼女は小さく頷くと、私に引かれるまま歩き始める。

 次の予定は確か……。




「あれ」


 自宅の玄関前、鍵を探そうとポケットの中を探そうとした時だった。

 私の目に飛び込んできて来たのは、隣の部屋の玄関に広げられているシート。そこには有名な引っ越し屋さんのロゴが刻まれている。

 お隣さん引っ越しするんだっけか。

 私はそんな様子を横目に、鍵を開き、家の中へ入る。この前小夜が掃除をしてくれたためか、まだ綺麗な状態で保たれている。

 確か冷蔵庫の中に大家さんが作ってくれたおかずがあったっけ。

 転びそうになりながら靴を脱ぎ、部屋の中を歩く。またバッテリーが少なくなっているスマートフォンでスケジュールを見ながら私は頭の中で予定を組もうとする。

 すると隣から大きな音が聞えてきた。家具を動かしているのだろうか。その音に思考をかき乱されながらも私は思考を続ける。

 確か冷蔵庫の中に大家さんが作ってくれたおかずがあったっけ。

 違う、そうじゃなくて、今日のバイトはどのバイトだったっけ? 居酒屋のバイトだったっけ?

 すると隣から大きな音と男の人の掛け声が聞えてくる。家具を動かしているのだろうか。その音に思考をかき乱されながらも私は思考を続ける。

 確か冷蔵庫の中に大家さんが作ってくれたおかずがあったっけ。タッパーに入っていたんだっけ。

 違う、今日のバイトは確か居酒屋のバイトが入っていたはず、諸々の準備が終わったらすぐに用意しないと。

 すると隣からカリカリと何かを擦る音がする。そう言えばさっき引っ越し業者が入ってきていたんだっけ?

 あんまり顔を合わせることもなかったけれど、心配してもらっていたし、出来たら挨拶くらいしておこうかな。

 確か冷蔵庫の中に大家さんが作ってくれたおかずがあったっけ。早く食べないと、タッパーを返せないや。

 私は立ち上がり、居酒屋のバイトへ行くための準備を始める。




 しかし面倒なことになった。

 目の前の人間はすごく酔っ払っていて、顔を赤ければ、挙動も怪しい。明らかに酩酊状態だ。居酒屋のバイトをしているためか、こういう人間は何人も見てきている。

 私はその人を避けようとするが、なかなか通してくれなさそうだ。

 夕方の繁華街、人通りは多いものの、誰も助けてはくれない。


「ちょっとぉ無視は良くないっとぉ思うよ?」


 その口調も呂律が回っていない。早くしないとバイトの出勤時間に間に合わないと言うのに。

 その時、私の足元がふらつき始める。

 まずい、こんな時に限って。

 私は両足で必死に地面にしがみつく。そうでもしないと頭を地面へ打ち付けそうになったからだ。


「おねえさぁん? すぐそこにあるから、さ」


 私は目の前の人間を観察する。

 男性、身長は私よりも高い、酔っ払っていて、スーツを着ている。本も頭の上にあるが……。

 駄目だ、これを使ってはいけない。私は自立をするんだ。本を読むことなく、トラブルを回避しないと。

 思考を巡らせていたその時。


「まったくキミという人間は度し難く、面白い」


 聞き慣れた声、そしてあまり聞きたくない声。顔を上げるとくしゃくしゃの髪の毛に丸眼鏡、相変わらず胡散臭い格好をしている太宰の姿があった。私に絡んでいた酔っ払いの顔が厳しくなる。


「対処しようと思えば、いつでも対処できるのに、それをしないなんてお人好しにも程がある」

「何言ってんだぁ……この、男? 女?」

「生物学上では女だよ。キミもちょっと飲みすぎた。少しは冷静になったらどうだい?」

「冷静にぃ……って、本気で言ってんのかぁ?」


 男が太宰の胸倉を掴む。太宰は涼しい顔で、その手を見る。首の下……デコルテのあたりに何か刺青のようなものが見える。


「あまり喧嘩は得意でないんだがな……痛みに耐えるのは、まあ得意だ」


 胸を掴まれたまま、太宰は男の喉仏の真下にある窪みへ親指を食い込ませる。

 怒りで真っ赤になっていた酔っ払いは徐々に顔を青くし始める。


「警察屋さんが来るまで我慢比べと行くかい?」

「ぐぅ……っ」


 男は太宰の突き飛ばす。

 体勢を崩している太宰に注目が集まった瞬間、私は酔っ払いの本を奪う。原稿用紙を紐で綴じてある本を手に取り、情報を読み取る。いくつかの単語を拾い上げ、直近の出来事を頭の中に叩きこむ。


「痛いじゃないか、さすがに突き飛ばすのはやりすぎだろう?」


 太宰が起き上がる。相変わらずの打たれ強さだ。私はそんな太宰を横目に、酔っ払いの名前を呼ぶ。


「ここまで大暴れしたら、奥さんに連絡するしかないですね······『ヤスオ』さん」


 私の言葉に目の前の酔っ払い……斎藤康夫は顔を引きつらせる。


「……お願いですから、私のことは放っておいてください」


 そう言うと、斎藤さんは苦々し気な表情を浮かべる。

 そして、スーツを正すと一言。


「後悔ぃ、するぞぉ?」


 そう言い、千鳥足でどこかへ向かう。きっと帰路についたのだろう。

 私は周りを見る。

 ……予想以上に目立ってしまったようだ。私はすぐに太宰を引っ張りバイト先へ急ぐ。


「おいおい積極的だなぁ。感激だよ」

「目立ちたくないだけです。黙って」

「おお、手厳しい。そして言葉が強い」




 薬を飲み、大学の休憩室の机の上に突っ伏す。今日は体調が駄目な日だ、少しだけ休もう。

 そう考えた瞬間一気に胃の奥から何かがこみ上げてくる。

 いけない。これは何かを吐き出してしまう。

 言うことを聞かない脚に鞭を打ち、私は急いで近くのトイレへと駆け込む。幸い個室は開いており、鏡の前で何人か談笑しているだけだった。

 私は一番奥の個室へ入り、口の中までせり上がっていた血を吐き出す。血で満たされた便器の中を見て、さらに吐き気を催す。

 背後からは。


「だ、大丈夫?」


 という声が聞こえてきたが、私は声を振り絞り。


「大丈夫です。気にしないでください」


 と返した。

 何度かひそひそ声が聞こえてきたが、そのうち聞こえなくなってしまった。

 いつからこんなに血を吐き出すようになったのだろうか、いつから……。


 待て、今、何月何日だ?


 私は相変わらず充電の減りが早いスマートフォンをポケットから取り出し、日付を確認する。

 もう、冬だ。昨日は確か太宰と一緒に……。

 ……いつの間に私は太宰と一緒に行動するようになった?

 トイレの中で私は混乱する。何かが……いや、何もかもがおかしい。

 震えてる手で私は自分の本を手に取り、ページをめくる。たくさんの思い出、たくさんの記憶……最後の方をページを開くが。


「……なにこれ」


 読めない。

 字が歪んでいたり、破損していたり、掠れていたり、とにかく文字が読めない。

 本を手放してみても、また開いても、ページのしわを伸ばしても、何をしても読むことができない。これ、って。


「記憶が破損して、る?」


 私はトイレの個室で一人呟く。その声はか細く、掠れていて、昔の自分からは想像もつかない声だ。

 いつから私はこんな声になったんだっけ?


「あれ……あれ……?」


 私は何かを思い出そうと、スマートフォンにあったいろんなアプリを開く。すぐに充電がなくなってしまうが、そんなことを気にしている場合ではない。

 日記を書く習慣……はない、スケジュール帳……にはいくつか覚えのないことが書かれている。

 そうだ、確か私は物理的にスケジュール帳を持っていたはず。

 私は急いで鞄の中を探し、目当てのものを見つける。中身を飛来見ていると、小夜とのお出掛けや、由香とのお出掛け、さらには向日葵ちゃんと小夜とのお出掛け……。

 そして、太宰との予定。

 これらには覚えがない、記憶がない、欠落していて、自分がいきなり半年分老けたような感覚に陥る。

 私は吐気を催し、とっさに口を塞ぐ。

 時間と私の身体が乖離し始めている。私は私の半年を認識していなくて、思い出も何もかもを思い出すことができなくて。


 小夜との時間もなくなっていて。


 いつから? いつから私はこんなに破綻していた?

 私は私のはずなのに、まるで別人みたいな神経が通っているかすらもわからない。

 たくさんの思い出を探るようにスケジュール帳を確認する。何度見ても、何度読んでも、何度開き直しても思い出せない。

 私は……?


「聞こえてる!? 一番奥の個室の人!!」


 そんな女性の声と共に、トイレの扉がどんどんと叩かれる。

 私は返事を返そうとするが、うまくいかない。用を足しているわけでもないし、鍵だけでも開けないと。

 定まらない視界、震える手で鍵を開く。扉はすぐに開かれ、先程鏡の前で会話していた学生と、顔面蒼白にしている大人の姿。


「大丈夫!? 聞こえてる!?」

「は、ぃ。聞こえて、ま、ず」

「救急車呼ぶ? 歩ける?」

「大丈、夫、でず。くす、り。あります」


 私はトイレットペーパーで口を拭き、そのまま便器へ投げ込む。

 後ろの学生が小さく「ひっ」と声を漏らしている。


「こんなに血を流していて大丈夫なわけないじゃない!! 早く救急車呼ぶからね!!」




「急性気道感染症」

「らしい、ね」

「らしいね、じゃないぞ」


 気が付けば私は清潔なベッドの上で寝かされていた。お金もないのに、治療費どうしよう。

 まだバイトにも行かなくちゃいけないし、まだ勉強もしなくちゃいけないし。


「ねえ、恵里衣お姉ちゃん」


 朧げな視界の中、小夜の顔が浮かぶ。瞼を真っ赤に腫らし、私の手を握っている。

 そっか、ここって病院か。だから私は治療費のこととか考えていたのか。

 でも、まだバイトへ行かないと。


「何故、何故そこまで無理をするの……?」


 小夜の声。

 小夜の声が聞こえる。

 私は……。


「自立しなくちゃ。自立して……それで……」


 私はそこから意識が混濁し始める。

 あれ、私なんでここに居るんだっけ?

 こんなところにいちゃ何もできないや。早く、早く……。


「自立……って、恵里衣お姉ちゃんはそんなにみんなのことを信頼できないの?」


 信頼。


「きっと一度甘えてしまうと、私は甘えちゃうから、本を読むのだって、長年ずっとこれに甘えてきた。だから誰にも迷惑を掛けないようにしないと」

「なんで? なんでそんなに一人で何でも解決しようとするの? 恵里衣お姉ちゃんだって……!!」


 なんで、なんでだろうなぁ……。


「あれ」


 なんでだっけ。




「やぁやぁ。まさかこんなところに居たとはね」


 聞きたくない声。

 私は小夜に持ってきてもらった本を閉じながら、声がした方へ顔を向ける。そこには相変わらず胡散臭い格好をしている太宰の姿があった。


「病院でもそんな格好なんですね」

「需要と供給ってやつだよ」

「意味がわかりません」

「簡単に言うと、ちょっと女性の部屋へお泊まりしていたからね」

「うわ」


 太宰は一切悪びれることなく、近くにあった椅子を寄せ、私のが横になっているベッドへ近づく。


「手術とかしたのかい?」

「しないですよ。投薬治療だけです」

「投薬治療だけ、ねぇ? そんなぼろぼろなのに強気だねぇ」


 彼女はそう言い、私のことを丸眼鏡越しにじっと見つめる。

 私は何だかバツが悪くなり、目を逸らす。


「キミは本当に不思議な人間だ、私からしたらまるで宇宙人のようだ」

「……なんですかそれ」

「未知の生命体ってことだよ。自分のために動く私にとってキミはそれだけ不思議なんだよ、恵里衣」


 太宰に名前を呼ばれた瞬間、ぞわっと全身が総毛立つ。

 得体も知れない何かが私を包む。


「キミは元来見えてないものが見えている。そんな気がしてならないんだ」


 そう言い、太宰は私に迫る。

 まさに目と鼻の先。太宰の濁った瞳に私が映る。頭の上には本が浮かんでいて……。


「キミはきっと記憶にないだろうけど、私はキミのことを知りたいんだ。隅々まで」


 彼女はそう言い、にこっと笑い、その場から離れる。


「さよならお嬢さん。今度は無理しないようにね」


 太宰はそう言い、病室を立ち去る。

 残された私は微かに震える。

 一体、何者なんだあの人は。



つづく

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月読 霧乃有紗 @ALisaMisty

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