其の十五
『大学生になってから月日の流れが早い……気がする』
夏。カンカン照りかつ多湿な今現在。
今日はバイトも学校も休み、正確には休みを取らされた……のだが。
私は慣れない水着を整え、パーカーを羽織ながら、プールサイドを歩く。大きな流れるプールを見ると、そこには人、本、人。あんなところで泳いだら、冗談抜きでもみくちゃにされてしまうだろう。
地面を照らし続ける太陽から避けるように、設置されていたパラソルの中へ入ろうとした時だった。
「恵里衣!」
と、そんな声が聞こえてくる。
私が振り返ると、そこには私と同じく水着姿の由香がいる。
……由香はしゅっとしているので、惚れ惚れするほどビキニタイプの水着が似合っている。
「なんだよお前、パーカーとか着やがって」
「……泳ぐつもりないし」
「はぁ? お前マジで言ってんのか?」
「マジも大マジだよ。あんな人混みの中へ入ったら身体がばらばらになるって」
私の言葉に由香は深いため息をつく。
そして呆れたような目線を送りながら、由香が言う。
「あのなぁ、せっかくのプールなのに、消毒用の場所でしか濡れないってのも変な話じゃねぇか?」
「私はプールサイドで本を読んでるから、小夜と向日葵ちゃんと一緒に遊んできなよ」
「……本当に泳がないのか?」
「ついでに荷物番もするし」
「小夜が悲しがるぞ?」
「…………と言われても」
「恵里衣お姉さん」
私がプールへ入らないための口実を考えていると、背後からそんな声が聞こえてくる。
振り返ってみると、そこには数週間前に一緒に買った水着を着た小夜の姿と、小夜の後ろで縮こまって私に威嚇をしている向日葵ちゃんの姿が。
「プールに入らないとか正気か?」
「がるるる……」
「いやだって、この人混みだし」
「こんなに暑くてどうしようもないんだぞ!? 今プールに入らずしていつ入るんだ!?」
「がるるる……」
「えー」
「えーじゃないんだよ、恵里衣お姉さん」
「がるるる……」
必死に私をプールへ放り込もうとする小夜と、ずっと唸り声を上げている向日葵ちゃん。それをなんだか愉快気に眺めている由香と、なんとも変な空間になっている。
私はパーカーを自分に巻き付けながら。
「ここで本を読む。絶対にプールに入らない」
そう宣言する。
これで諦めるかと思ったが、小夜は少しだけ顔を伏せて、唇をわなわなと震わせる。
「恵里衣お姉さんと入りたかったのに……」
私は目を細め、小夜の頭の上にある学習帳をさっと取る。
「あっ、ずるいぞ恵里衣お姉さん!!」
小夜の本には。
『泣き落とし作戦だ』
と書かれている。私は小夜の本をそっと戻しながら。
「ほら、遊んでらっしゃい。そこに全国レベルの水泳選手がいるから、レクチャーしてもらいな?」
と言い、パラソルの下の日陰に腰を降ろす。この気温のせいで地面は生暖かいが、直射日光の下よりか遥かにマシだ。
その時、ぐらっと視界が揺れる。貧血か、脱水症状か。私はすぐに自分が持ってきた荷物の中から、ペットボトルの水を取り出し、少しずつ飲む。
気温でぬるくなっている水が身体の中を通っているのがわかる。
大学二年目の春を通り過ぎたあたりから、視界が揺れることが多くなった。最初こそ、何かの病気を疑ったが、とくに生活に支障がきたすことはなかったため、気にせずに過ごしている。
たまに転んでしまいそうになることはあるが、特段大きな怪我をしたことはない。
「……恵里衣お姉さん?」
小夜が訝し気な表情で私の顔を覗き込む。私は、ペットボトルをしまい、防水カバーを付けた本を取り出す。
「どうかした? 小夜?」
私がそう言うと、小夜はほんの一瞬だけ悲しそうな顔をした後、すぐに表情を戻し。
「なんでもない。向日葵ちゃん、由香お姉さん、流れるプールに行こうか」
そう言い、彼女は二人を連れて、プールサイドを歩いて行った。
私は本を広げながら、周りを観察する。
ここの市民プールは、大型施設ほどの大きさはないものの、流れるプールと25mのプールがあり、がっつり泳ぐ人間と、ゆったりと気ままに流される人間と二種類に分かれていた。
小夜たちはどうやら最初は流れるプールへ入ったらしく、遠くから向日葵ちゃんの戸惑う声が聞こえてきた。
夏か……。
私は咳を零しながら、空を見上げる。雲一つない青空……その青が私の目に突き刺さって少し痛い。
目を細め、喧騒を聞きながら、私は今までのことを思い起こす。
思えば、大学に進学してから、自分のことを顧みる機会がなかった。私は持ってきた本へ視線を落としながら、過去のことを考える。
入学してから、母親とのトラブル、小夜のこと、小夜の父親のこと、それから……。
それから?
「……そう言えば、去年、何してたっけ」
もう一度思い起こそうとした確かに小夜や由香との思い出はすぐに出てくる。何かを買った記憶だったり、遊んだ記憶だったり。
しかしそれ以外がすぐに思い出せない。バイトのことや、学業のこととか、まったく思い出せない。
私は自分自身の頭を軽く叩きながら、思い出そうとする……しかし、うまくいかない。
うまく、思い出せない。私は首を傾げながら、自分の本を手に取り、中身を確認する。
ページをめくり、半分よりも後、その中でも高校三年生時の記憶はばっちり残っていて、嫌な記憶も良い記憶もしっかりと記載されている。しかし、大学一年生からの文章は、酷い歯抜け状態になっており、曖昧になってしまっている。
バイトをしたことや、勉学をしていたことも書かれてはいるものの。
『勉強した』『働いた』としか書かれていない。
どうして……?
「恵里衣お姉さん」
不安そうな声が聞こえ、私は本から視線を外し、声が聞こえた方を向く。そこには心配そうな表情を浮かべている小夜の姿があった。
私はすぐに笑顔を取り繕い。
「どうかした?」
と返す。まだ内心、過去のことを思い出せないことに戸惑っていたが。
小夜は私の言葉を聞き、小さな声で呟く。
「……プール」
「え?」
「恵里衣お姉ちゃんと、プールで遊びたい」
珍しい小夜のわがままに私は少しだけ困る。
困った、が。
「そこまで言うならしょうがない、か……私が溺れないように、小夜、ちゃんと見張っててね」
私はそう言い、パーカーを脱ぎ、本をしまう。
小夜は目をキラキラとさせながら。
「やっとその気になったか恵里衣お姉さん!」
と言い、ぴょんぴょんと小さく跳ねる。すると、どこで待っていたのやら、由香と向日葵ちゃんがパラソルの下へ滑り込む。
さっきまで私が座っていた場所をすぐに占領されてしまった。
「向日葵のやつが相当金槌でよ、でっけぇ浮き輪あるのに、何で沈むんだか……」
「セ、セクシャルハラスメント……!!」
「あいだ!? 頭突きすんなっ」
「変態……! 最低……!」
「このっ、魚住由香が引くと思ったか小娘!」
「ぎゃぁぁ! 頭……っ、掴まれた……!」
この二人は元気だなぁ。
私はそう思いながら、小夜の手を取る。
「……どっちに入る? 25mのプール? 流れるプール?」
「流れるプール!」
小夜は元気よく答えながら、私の手をゆっくりと引っ張る。
……気を遣わせているなぁ。
私は申し訳ないという気持ちを抱えながら、小夜に引っ張られる。連れていかれたのは、流れるプールへの梯子。小夜はするりと入っていき、梯子に掴まりながら、私のことを待つ。
とりあえずゆっくりと入るか……。
私はそっと足先をプールへ入れる。
うん、人間のせいか、日光のせいか、かなりぬるく感じる。これなら凍えずに済みそうだ。私はそのまま梯子を伝って、流れるプールへと入る。
「わ」
「恵里衣お姉さん流しだ」
私の身体はいとも簡単に浮き、流れるプールの流れに沿って身体が動いていく。小夜も梯子から離れ、私に身体を寄せる。
いつの間にか私より高くなった身長、しっかりと運動しているのがわかる引き締まった身体。
ベンチの上でどこかを見つめ続けた小夜からは考えられないくらい成長している。
最初から美少女だったけど、さらに美人になったなぁ。
なんてことを考えていると、小夜は少し眉間にしわを寄せ、私の身体のあちこちを触り始める。
絶妙にくすぐったい。
「くすぐったいよ、小夜」
「…………」
「小夜?」
私が身体を動かしても無反応な小夜。そんな小夜を見ながら、私が首を傾げていると。
「……恵里衣お姉さん」
小さな震え声と共に、小夜が私の名前を呼ぶ。
「うん?」
私が返事をすると、小夜はしっかりと私の目を見ながら言う。
「瘦せすぎじゃないか?」
「……そう?」
「前に見た時より、もっと、もっと酷くなってる、恵里衣お姉さん、ちゃんと食べているのか?」
「食べてる食べてる。小夜もほら、たまに家に来てくれて料理作ってくれてるでしょ?」
私の言葉に小夜は一瞬考え込む。
しかしすぐに顔を上げ。
「……私が来た日以外はちゃんと食べているのか?」
痛いところをついてきた。
小夜の前ではしっかりと食べている。これは本当だ。
しかし、小夜と食べる時以外はとくに食事をとっていない。
食欲がまったくないのだ。
どうやって言い訳をしようか、そんなことを考えた時。
「恵里衣お姉ちゃん」
小夜のか細い声が聞こえてくる。
慌てて小夜の方を向くと、酷く悲しげな小夜がそこに居た。
「何故、何故恵里衣お姉ちゃんは……」
流れるプールに流されながら、小夜は私に問う。
「何で恵里衣お姉ちゃんは自分を傷つけるんだ?」
その言葉に私は。
「自立したいから、かな」
と即答する。これは噓偽りのない言葉だ。言い訳でもない。
自立して、親から離れて、離れて、離れて……。
「恵里衣お姉ちゃん……」
小夜はそう言い、私に身を寄せる。ぬるいプールの中でも確かに小夜の体温を感じる。
きっと小夜はもっと自分を頼ってほしい、周りの人間を頼ってほしい、そんなことを伝えたいのだと思う。
だけど、私は……。
誰の手を借りずに、独り立ちしたいんだ。
誰にも迷惑を掛けずに、あの家から縁を切りたいんだ。
それから流れるプールから上がり、パラソルのところへ向かう。
そこには三角座りで不貞腐れてる向日葵ちゃんと、ゲラゲラ笑う由香の姿。
「いやぁ、本当に面白いなぁ、向日葵は」
「由香さん嫌い」
どうやら由香が向日葵ちゃんのことにちょっかいを出していたみたいだ。
私はため息をつきながら、由香の頭に軽く拳を落とす。
「なに年下いじめてんの」
「なっはっはっ。まだまだ小さい癖に色んなこと、抱え込んでてさ」
「……それは由香だって同じだったじゃん」
「それはそれ、これはこれ」
「棚に上げるなっ」
私の言葉に由香は笑いながらも、向日葵ちゃんの頭を撫でる。
「まァ、私とはちょっと違う事情だけどな」
「触らないでください、変態」
「ぐぉー、変態だぞー」
「くすぐるのは本当に変態ですね!? 警察呼びますか!?」
仲良しだなぁ。
そんなことを思いながら、二人を眺める。
その時。
きゅるるるるる……と何か音が鳴る。
私は小夜を見る。小夜は。
「今回は私のではないな、今日の私のお腹に住んでいるのは、お行儀の良い腹ペコ虫のようだ」
小夜ではない、当然私のでもない。
また二人に視線を戻すと、げらげら笑いながら自分の足をバシバシ叩いている由香と。
「うぅぅぅぅ……」
と小さく唸っている向日葵ちゃんの姿が。
……あー。
「一旦お昼にしよっか? ここのプール食べ物屋とかないから、一回外に出よ?」
私が優しく向日葵ちゃんに声を掛ける。
すると、キッっと私を睨みつけながら向日葵ちゃんは。
「やさしさが、毒、この泥棒猫!」
と言い、私のパーカーを強奪し、頭からかぶってしまった。
どうしたものか。
私が頭を悩ませていると。
「向日葵ちゃん、私もお腹がすいた」
と小夜が言う。気を遣った……わけではなさそうだ。由香もひとしきり笑い終わったのか、「あー」と小さく声を漏らしながら立ち上がる。
「カレーでも食おうぜ向日葵、いやー笑った笑った」
「おお。こんな暑い日にカレーとは。いやはや由香お姉さんはチャレンジャーだな」
「普通にお腹が空いただけだっての、小夜も食べるか? カレー」
「私は遠慮する」
「なんでじゃい」
そんな会話を交わしながら、由香と小夜は荷物を片づけ始める。私もそれに倣って、二人を手伝う。
すると、パーカーを被っていた向日葵ちゃんものそのそと動き出し。
「……カレー」
と小さく呟いた。近くにファミリーレストランあったかな……。
そんなことを考えながら、私は向日葵ちゃんからパーカーを受け取った。
プールから上がった私たちは、近くのファミリーレストランへ足を運んだ。
私たち以外にも何組か、プール帰りであろうお客もおり、目立つこともなさそうだ。
「カレーフェアだってよ、向日葵」
「何で私に言うんですか」
「だって食べたそうな顔をしていたし?」
「そんな顔……してない……っ!」
目の前で向日葵ちゃんと由香が仲良く言い争いをしている。大きなメニューを開きながら由香は続ける。
「今日は私の奢りだから、金額は気にするなよー」
そう言いながら由香はメニューを向日葵ちゃんが見やすいように傾ける。私も同じように大きなメニューを小夜が見やすいように傾ける。
小夜は小さく鼻を鳴らしながら、メニューを覗く。
「……ふむ、プールに入ったし、魚でも食べようか」
「なんで?」
相変わらずよくわからないことを言う小夜を横目に、私も軽めの食事を探す。
ミニサンドイッチなり、ミニサラダなり、食欲が無くても食べられるものはある。
「恵里衣お姉さんは何を食べるんだ?」
「ミニサラダかな……」
「……それだけか?」
「うん」
「…………それだけか?」
「う、うん」
私が言葉に詰まっていると、小夜が深い深いため息を漏らしながら、じとっとした目線を私へ向ける。
「やっぱりあまり食べていないじゃないか、嘘つき」
噓つき。
この言葉によって私の心臓がきゅっと縮む。
心が痛い。
その言葉がぴったりだった。
「注文、決まったか? 呼ぶぞ?」
由香がそう言いながら、呼び鈴の上に手を置く。
私はすぐにうなずいたが、小夜はなんとも複雑そうな表情を浮かべている。
「……恵里衣お姉さん」
小夜の小さく震える声が聞こえた気がしたが。すぐに小夜は表情を切り替え。
「決まったぞ」
そう言った。
いつも通りの小夜に見える。けれど……。
『どうして、恵里衣お姉ちゃんは、自分をいじめるのか、私には理解ができない。お願いだから、自分をいじめるのをやめて』
そんな想いを読んだのは数か月先の話。
プールの■■■◇◇■■◇■■■……。
文字がこんがらがっている。
読むことができない。
バイト終わりの自宅。エアコンもつけず、窓を網戸にし、うちわを顔に向けて扇ぎながら私は、銀行通帳と睨めっこをしていた。
バイトをしてもしても、切り詰めても切り詰めても、残高がなかなかきつい。だが学生である以上、昼と夕方にもっと働くことは難しい。
講義の空き時間はほぼすべてバイトを入れているのだが、それでもお金が足りない。両親からの支援を期待できない以上、私自身がどうにかするしかない。
昼間と夕方が無理なら……。
私はとある電話番号をスマートフォンに打ち込む。二十歳を超えたし、多分大丈夫……なはず。
その電話番号は無料で配布されている求人情報の冊子に掲載されていたもの。
面接もあるだろうから、そんな簡単合格できるかわからないが、何も行動しないでじり貧になるより遥かにマシだろう。
そして次の日。
バイトを増やしたことを由香へ伝えた。伝えた理由は、伝えておかないと、由香がめちゃくちゃ怒るから。
「……はぁ!? バイト増やす!?」
由香のそんな素っ頓狂な声が私の鼓膜に突き刺さる。
「声がでかいよ由香」
「お前、馬鹿じゃねぇの!? 何個掛け持ちしてんだよ!?」
「えーっと……由香の家と、ドラッグストアとコンビニ……かな。んで、今度の居酒屋」
「あぁ……もう、ったく……あああ!!」
由香は首を捻ったり、手をワキワキさせたり、なんだか忙しい。
「お前……大丈夫なのか?」
「勉学は疎かにはしないよ」
「そういう問題じゃねぇよ!!」
由香の大声に驚き、私は身体を震わせる。しかしすぐに由香は深呼吸を始める。
一度、二度、三度、由香は自分を抑え込むように何度か深呼吸を行った後、私の顔をじっと見つめる。
その瞳は私の中にある何かを探っているようで。
「恵里衣、お前、最近意図的に何かを無視してないか?」
その言葉を聞き、一瞬お腹の奥がきゅうっと締まる。図星を指された……? いや、そんなはずはない、だって私は。
「恵里衣、何で目を逸らした」
「それは……」
「別に恵里衣を責めたいわけじゃないんだ。働くのだって、学業に勤しむのだって、恵里衣の勝手だ、勝手だけどな」
由香は私に近づき、私の両頬をつまむ。しばらくむにむにと顔をつまんだ後。
「…………本当に痩せたよな」
由香は悲しげに言う。
「ほお?」
「本当に……病的だよ」
そん■由香■■葉■に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。■■■■■■■■■■■■■■■■。
……文字が破損していて読めない。
擦った後があり、無理やり文字を壊されたようだ。
「いらっしゃいませー」
私は壊れそうな喉と焼けきれそうな肺を震わせながら入り口へ向けて声を掛ける。
三人のスーツ姿の男性。私はすぐに手に持っていた飲み物をテーブルへ置き、声を掛ける。
「三名様で?」
私がそう声を掛けると、先頭に立っていた人間がうなずく。汗ばんでいるところを見るに、外はまだまだ暑いらしい。
いくら秋と言えど、残暑が続いており、夜歩き回るのも辛いくらいだ。
「三名様ご案内ー!」
声を絞り出しながら、私は叫ぶ。店内から何人かの「いらっしゃいませー」の言葉が返ってくる。とりあえず空いているテーブルへこの三人を案内してしまおう。
私は縺れそうな足を必死に動かし、油で少し滑りそうになる床を踏みしめる。
生まれたての小鹿の方がまだ立っていられてるな。
そんな自虐を一瞬思い浮かべながら、私はテーブル席に三人を案内する。
おしぼり、お通し、メニューを聞くためのクリップボード。必要なものを思い描きながら、私は動く。
動かないと、働かないと。
冬だというのに、滝のような汗を流しながら、私は酒を運び、料理を運び、人を運び、酒を運ぶ。由香の家より何倍も忙しく何倍も客層が……その、やんちゃであるこの店は忙しくて仕方がない。
キッチンから料理をもらい、配膳をする。また出来上がったドリンクを運ぶ。
……と、その時だった。
「おねーさん!! ちょっと薄いよ!!」
とそんな声が聞こえてくる。
『薄い』、この単語が聞こえてきた時は大体、酒のことだ。
呼び出されたテーブルへ足を運び、今できるだけの笑顔を取り繕う。すると、客……三十代ほどの男性がジョッキを左手で掲げながら、私に言う。
「レモンサワー! 氷多すぎ!」
馬鹿なのか?
と、言いたいところだが、ぐっと我慢をする。酒……ウイスキーやらリキュールやらの分量はしっかりと測っている……いや、正確には誰でも同じようにできるよう工夫がなされている。そっからさらに氷を少なくしたら必然的に炭酸水が多くなるわけで……。
「申し訳ございません、決まりなので……」
と返すほかない。
これ以上トラブルに発展したら、バイトリーダーを呼ばないとなぁ。
笑顔を貼り付けたまま考えていると。
「決まり、決まりってさぁ? こっちは酒に満足できないの」
そう言って、空の灰皿にクレームを入れたレモンサワーを注ぎ込み始める。
うわ、本を取るまでもなく嫌な予感がする。
バイトリーダーはキッチンか、裏で休憩しているかな……。
咄嗟にそんなことを考えている時だった。
「おやおやお兄さん? そんな不健康なものを店員に飲ませようとするなんて、大したチキンハートじゃないか」
背筋が凍り付く冷たく、泥のように粘性があり、そのくせ容姿は優れている大学の先輩……こと、太宰一葉がいつも通りの癖毛にいつも通りの丸眼鏡を掛けた姿で灰皿にレモンサワーを注いだ客の隣に座った。
「この人の役職なに? 部長? 係長?」
太宰は楽しそうに目を細めながら笑っているが、声が冷たいままで、楽し気な雰囲気ではない。私が唾を飲み込んでいると。彼女はおもむろに男性のジャケットに手を突っ込み、何かを引き抜く。
あれは……名刺入れ?
「なるほど、おにーさんは総合商社の人間だったのか! それにしては羽振りがひどく悪いが……そちらの連れはあれだな? 新入社員というやつか。この店が悪いとは言わないが、もっと良い店あっただろうに」
太宰はペラペラと喋りながら、灰皿に入りきらなかったジョッキのレモンサワーを一気に飲み干す。
「ぷは、新入社員先輩? この世にはね? 絡んでいい人種と、絡んじゃいけない人種と、爆弾みたいな人種がいるんだ」
太宰はそう言い、私に指を指す。
「まずこの人は爆弾みたいな人種、君たちが思っているより皆に守られているから、時と場合によってはばらばらにされて魚のエサになっていたかもしれない」
いや、こっわ。何言っているんだこの人。
私にそんな人脈はないぞ。
「それで今現在キミたちに絡んでいる大学生は絡んでいい人種。残念ながら将来の保証はしないけどね?」
そして太宰は一瞬息を吐き、灰皿にレモンサワーを注ぎ込んだ男性を指差し、冷たい声でいう。
「で、こいつは絡んじゃ駄目な人種。愚図、無能、口だけ。新入社員先輩も録音なり、録画なりしてさっさと社会的に殺したほうが良いよ、いやホント」
そう言い切り太宰はけらけらと笑う。
相手が酔っ払いとは言え、なんという言い草か、私が若干引いていると、先程まで太宰に圧倒されていた男性が怒りに声を震わせながら言う。
「んだてめぇ……社会も出てねぇ青臭いガキがよ」
「よっ、社会も出てねぇ青臭いガキがよ。やってるぅ?」
太宰が目一杯煽った瞬間、男性は太宰に手を出そうとした。
した、が。
「注いだものは、ちゃんと飲もうよ。おにーさん」
そう言って、太宰は男性の後頭部を掴み、顔面を灰皿へ押し込む。口から鼻まで浸かってしまっているのか、こぽこぽと泡が溢れてる。
「なぁ? ちゃんと飲めよ。なぁ? 飲めって」
太宰は容赦なく、灰皿へ顔面を押し込み続ける。元々赤かった男性の皮膚がさらに赤くなり、やがて段々と青みが増してくる。
「おにーさんが進めたんだよな? おにーさんが飲めって。女の子に向かって、弱そうな人間を狙って」
「んぶっ……ぶばっ……」
「こぼすなよ、汚らわしい」
太宰はそう言うと、男性の頭を引っ掴み、背もたれに叩きつける。そしてかなり水嵩が減った灰皿を見ながら。
「お連れさんはタバコ吸うのかい?」
太宰に質問され、一瞬固まっていたが、すぐに男性のお連れ様は答える。
「す、吸えないです!!」
「なるほど、健康でなにより」
そう言い太宰は背もたれへ叩きつけた男性に言う。
「良かったな。後輩くんのタバコを飲み込む羽目にならなくて。次からちゃんと相手を選びな? 弱い者いじめはそれなりのリスクを背負うってこと、ちゃぁんと理解しただろう?」
太宰はそう言って男を離す。男はアルコールからか酸欠からか、視界がぼやけており、視線が定まっていない。
「お嬢さん、バニラ風味のテキーラを」
「ないよ」
「なんと」
所望するドリンクがないと知った太宰は少しだけしょんぼりとした顔になる。
というか……。
「そんなお洒落なものあるわけないってここに」
「確かに、そうかも、しれないな……」
そう言いながら、どこかへと消えていく。
……あの人どっから来たんだ?
そんなことを考えていると、遠くから合コンの号令のような声が聞こえてくる。その後、耳が揺れるほどの黄色い声も聞こえてくる。
ああ、なるほどね。
私は妙に納得したまま、仕事へ戻っていった。
つづく
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