其の十二

『太宰。私には彼女の感情が読めない。本を読むことができないと、人ひとりの感情すら、私には読めないのだろう』


「お姉さんさぁ、これ壊れているんだけど」


 ドラッグストアのバイトはそこまで大変ではない。レジ打ちも、品出しも、基本的に動作は同じだし、慣れれば頭の中を空っぽにしていても、作業をすることができる。思考をフル回転させなきゃいけないのは広告の貼り付けと……。


「大変失礼いたしました」


 時折現れるクレーマーへの対応だ。私が若いということもあってか、面倒な客によく絡まれる。もしかしたら、髪の毛が派手であることも手伝っているのかもしれない。


「失礼いたしましたじゃなくてさ」


 私はちらりと店内を見渡し、レジが混み始めてきたことを確認する。

 これ以上混んでしまうと面倒だ。

 店内放送用のマイクを起動させ、レジの応援を要請する。店内から何人かがドタパタとこちらへとやってきて、クレーマーにぐちぐち言われている私を横目にレジ対応を始める。


「壊れるとかありえる?」


 目の前で私に文句を言っているのは四十台の女性。酷く痩せており、目が落ちくぼんでいる。本を読んでいないし、あくまでも憶測なのだが、普段のストレスの積み重ねが、ここで爆発してしまったのだろう。それはそれで仕方がない。時間を浪費してしまうが、こんだけ怒鳴られていたら他の店員もわかってくれる……だろう、多分おそらく。


「聞いてるの!?」

「はい、拝聴させていただいています」


 別のレジで会計を終えた客は非常に迷惑そうな顔でこちらを見つめている。クレームを入れているお客の声が段々と大きくなっていっているからだろう。私に訴えかけられても……って感じだけど、こればかりはどうしようもない。


「こんな、さ!! えぇ!? 社会舐めてるでしょ!?」


 目の前の女性が言いたいことはわかるし、仕方ないのかなとも思う。それに怒り慣れていないのが見て取れる。小夜とは別ベクトルで感情の発露が下手なのだろう。

 ……ちょっと前の話だが、店内に蚊が入ってきたと言ってクレームを入れてきた客も居たので、目の前のお客はまだまだ全然マシな方である。


「大学生がさ!! えぇ!? どうせほっつき歩いているんでしょ!?」


 別にほっつき歩いていないけど、プライベートな話題だから答えたくないなぁ。ここまで大声で怒鳴られると、逆に冷静になってしまうなぁ。

 ぼんやりとそんなことを考える。決まった返事しかしない私に、女性は顔を真っ赤にし、サッカー台を両手でばんばんと叩き続ける。あまりにも力が強く、レジ周りのペンが飛び出し転がる。


「あんたさぁ!!」


 彼女が私に食って掛かろうとしたその時。


「どうしたんだいマダム。こんな昼間から怒り心頭なんて、不健康だよ」


 聞きたくない声が私の耳に入る。目の前には太宰がにこにこと笑顔でこちらを見ている。取ってつけた笑顔が実に不愉快だし、本日三回目の遭遇と言うこともあり、本当にストーカーなんじゃないかって疑い始めている。


「誰よ!?」

「そんなことはどうでも良いじゃないか。そんなに叫んだら、君の声が枯れてしまうよ」


 太宰はにっこりと笑うと、女性の腰に手を当てそっと店外へと誘導を始める。


「話なら私がじっくりと聞いてあげるよ。嗚呼……こんなにやせ細って……うちでは大変なんだろう?」

「ちょっと!? な、なにをして!?」

「今日は合コンのセッティングに失敗してしまってね。食事代が財布の中でダボついているんだ。私の奢りでどこかでお食事しないかい? たまには美味しいものを食べてゆっくりしよう」

「そんな、私、忙しいし、こま……」

「いいや、私は君を困らせないよ。壊れていた商品ってなんだったか。掃除用具? その様子だと掃除はいつも君がやっているんだろう? 家族は?」

「そんなこと、あなたには関係……」

「関係あるよ。ちゃんと話してごらん? 一度溜まった膿を吐き切った方が、君のためにもなるし、私のためにもなる。後悔させないから」


 そんなことを会話を交わしながら、太宰と女性は店外へ出ていった。太宰の姿を見て唖然とする社員さんに私は耳打ちをする。


「高橋さん。レジ交代どうします?」


 すると、社員さん……高橋さんは我に返り。


「他のバイトの子にレジ頼むね。湯川さんは……品出しお願いできる?」

「了解しました」


 私は軽く会釈をすると、レジの担当登録を解除し、品出しのためにバックヤードへ歩く。もちろん、避難の目的もある。

 今回は太宰に助けられたことになるの……か?

 非常に複雑な気持ちを抱きながら、私は飲料の段ボールを持ち、仕事を再開した。




 バイトの帰り道。途中で太宰と出くわすこともなく、自宅へ到着する。先程のこともあってか、太宰が背後に立っていてもおかしくはないと思ったからだ。

 十月とは言え、外はまだ蒸し暑く、湿気が私の肌にまとわりつく。もう紅葉も始まっているというのに、なんでこうも暑いのか……。

 自宅が見え、周りに誰もいないことを確認すると、思わず安堵の息が漏れる。太宰の他にも母親の問題もあったが、前にお隣さんが演技で恐喝してくれてから、お母さんはしばらく見かけていない。私は階段をゆっくりと上がり、自分の部屋の鍵を回そうとする。すると、隣のドアがゆっくりと開く。

 珍しい。隣の人はおどおどしながらぎりぎり視認できるくらいの隙間で私を見てくる。はたから見たらストーカーに見えるかもしれないが、女性恐怖症である隣人がここまで顔を出したのだ。何か理由があるのだろう。

 私はそっと隣のドアから離れ、ほんの少し距離を取る。もちろん隣人のためだ。私が離れたのを確認したのか、そっと隣人は玄関扉を開き、身体を外に出す。

 整った顔立ち、少々日本人離れした彫りの深い顔であり、身だしなみには気を使っているのか。短い髪や眉毛などしっかりと整っている。元役者と言う話を聞いていたが、納得のいくルックスの良さだ。


「突然すみません。その、忠告? アドバイス? しておきたいことがあって」

「アドバイス?」

「はい、アドバイスです」


 彼はそう言うと、玄関に座り込む。


「色んなものと戦っていそうな湯川さんに、アドバイスと私のちょっとした過去の話をしようと思って、ね」


 おじさんの戯言だけど、と言葉を付けたし彼は言う。


「昔、昔。それはもう元気な若者こと私が、演劇に情熱を注いでいた。今でこそちょっと落ち着いてきたけれど、それはもうすべてを入れ込んでいた」

「もちろん、ただ闇雲に演じていたわけではない、目標を決めて、どんな道を通って、最終的にどんな役を演じたいか、そこまで考えていた」

「まぁ、それも若さ特有のぶっ飛んだキャリアプランだったが、我ながら途中までよく遂行できたと思う」

「そんな劇に打ち込んでいる時に、とある女性と出会ったんだ」

「とても綺麗な人だった。私なんかが相手になるべきではなかった」

「あっという間にお付き合いを始め、あっという間に結婚した。劇団員に大丈夫か? と心配されていたが、浮かれていた私は気にも留めていなかった」

「それから私は転落した」

「情けないことに、妻……いや、元妻に騙されてね。何かもを奪われ、素の状態で外に投げ出されてしまったのさ」


 彼は自嘲気味に笑いながら、溜息を漏らす。


「騙された体験が結果的にトラウマになってしまい、演技なんて一切できなくなってしまったし、女性が近づくだけで吐き気や震えが止まらない。劇団には申し訳なかったけれど、劇団も辞めさせてもらった」


 恐怖を証明するように彼は私に向かって手の平を見せる。彼の手はずっと細かく震えていた。


「ほとんど逃げるようにやめてしまったから、劇団員には顰蹙を買ったけどね。これも自業自得だって割り切るしかなかった」

「……そんな、あなたが悪いわけでは」

「結果がすべての世界……いや、劇団だったからね。仕方がないことだよ」


 彼は再び自嘲気味に笑い、空を見上げる。空は雲に覆われているのか、星は全くと言ってもいいほど見えない。


「何とかそこから這い上がろうと頑張って、頑張って、頑張って……何とか恐怖に打ち勝とうとして、何度も自分に頑張れと言い聞かせて、何度も何度も何度も何度も。だけど、それが私にとってのとどめだった」


 肩をすくめた彼は、そっと首筋を見せる。そこには大量の痛々しい引っ掻き傷。彼の様子から察するに、もう傷跡が消えることはないのだろう。


「そこから壊れるまではあっという間だった。身体が言うことを聞かなくなり、そのうちに心もボロボロと瓦解していった。不思議なことに……いや、困ったことに、一番無理をしている時は自覚がないんだ。『まだできる』『まだ頑張れる』そう錯覚してしまうんだ。だけど、そんなの私の脳みそが見せる幻覚にすぎなかった。心が壊れ、気が付いた時には、何もできなくなっていた」


 首筋をしまい、彼は小さく息を吐く。


「同じ劇団に所属していた友人が居なければ、今頃私はここにはいなかっただろう。彼曰く、私は何もない部屋の中心で死んだようにただうずくまっていたらしい」


 たはは、と苦々し気に笑いながら彼は続ける。


「その助けてくれた友人にこっぴどく叱られ、泣かれたよ。男の涙であそこまで胸が締め付けられるとは思ってなかった」


 彼はふと笑うのをやめると、私に向かって。


「湯川さん。あなたは頑張りすぎだ。きっと私以上に、頑張り屋さんすぎる。誰か……例えば大家さんであったり、君の友人にもっと頼った方が良い」


 彼は震えながらも確かにそう言った。

 誰かに頼る……か。


「考えておきます」

「人間はなんでも一人でできてしまうけれど、できてしまえる分だけ、きっちりと代償を支払っている……そのことを忘れないでくださいね」


 彼はそう言うと、そそくさと自室へと戻っていく。話は終わりと言うことだろう。私は。「ありがとうございます」と扉越しに言うと、軽くノックが帰ってきた。




 いつも通りの喫茶店。週一回の小夜との時間。今日は小夜も可愛いが、一段とどや顔をしていた。


「今度の演劇で悪女を演じることになった」


 突然、小夜はそんなことを言い始める。私は文字と線がびっしりと書かれているルーズリーフがら目を離し、小夜を見つめる。


「……なんて?」

「今度の演劇で悪女を演じることになった。皆を誑かすとんでもない悪女だ」


 皆を誑かすって。


「自分で立候補したの?」

「当たり前だ」


 どや顔で鼻息をふんすふんすとさせながら小夜は言う。小夜が悪女……ねえ。


「小夜、基本的に良い子だからできるかどうか心配」

「なにおう」


 若干拗ねたような小夜の言葉を聞き、私はルーズリーフをクリアファイルの中にしまいこみ、両腕を机の上に置く。

 何の演技をさせようか。

 そんなことを考えながら。


「台本もすでにできあがっているんだ。我がクラスメイトながら仕事が早い」

「ふーん……じゃあ、ちょこっとやってみてよ」


 私がいたずらっぽくそう言うと、小夜は大きくうなずいて見せ。


「店に迷惑が掛からない程度にやってみせよう!」


 と言う。

 羞恥心と言うものはないのか。私は少々驚いたが、元々ベンチの上に立ったり、リコーダーを横に吹いたり、ロッカーに隠れたりと奇行を繰り返していたことを思い出す。

 『今更』というやつだ。


「こほん……」


 小夜は小さく咳ばらいをし、顔をぐにぐにとマッサージし始める。表情筋をほぐしているのだろうか?

 そして。


「小夜で~すっ。今日は~、皆さんに提案したいビジネスがあってぇ。来たんですよぉ~」

「えっ」

「えっ、とはなんだ恵里衣お姉さん」


 あっという間に変わり、あっという間に元に戻った。あまりの変貌ぶりに私は戸惑う。


「小夜? 小夜だよね?」

「おおおお? 何故頭を揺らすんだ恵里衣お姉さん?」

「中身入れ替わっていたりしないよね? あ、本を読めば良いのか……?」

「恵里衣お姉さん?」


 私は小夜の頭の上にある本を手に取り、急いでページを捲る。相変わらずとんでもない量の文字数があるが、ほどなくして最新のページを見つけ出す。

 そこに書いてあったのは……。


『何をそんなに慌てているんだ恵里衣お姉ちゃんは』


「何をそんなに慌てているんだ恵里衣お姉さんは」


 良かった。いつもの小夜だ。私は安堵の息を吐き、背もたれに全身を預ける。何と言うか


「演技、上手だね。びっくりした」

「そうか?恵里衣お姉さんがそう言うのであれば、きっと私は演技がうまいんだろう」


 ふんすふんすと彼女は興奮気味に言う。実際上手だったし、本当に別人のようだった。

 しかし……….。


「すごい内容の台本だね」

「ああ、なんでも自作らしいが」


 今時の小学生って台本まで作れるのか。

 私は驚きながら、小夜の話を聞く。


「先生にもちゃんと許可をもらったぞ。過激な表現とかそういう危ないものがないとかもチェックしてもらった」

「……で、さっきのセリフからはぶりっ子ってところしかわからなかったけど、小夜の役って?」

「詐欺師だ」

「なんでそれでOKを出したの先生!?」


 私は頭を抱える。詐欺師が出る演劇ってもう訳が分からないし、これを小学生が演じるのも正直わけがわからない。

 ただまあ、私が口をはさむのも何か違う気がするし……。


「が、頑張って?」

「ふむ」


 とりあえず小夜を応援することにした。

 二杯目の珈琲を飲み干した後、私は顔を上げる。そこには私の顔をじーっと見つめている小夜の姿。何となくだが、心配そうな眼差しに見える。そう言えば、お隣さんにも頑張りすぎだって忠告されたっけ。私はレポート作成に使用していたシャープペンシルを机の上に置き。


「ねぇ、小夜」


 と小夜の名前を呼ぶ。すると小夜は首をほんの少し傾け。


「何だい?恵里衣お姉さん」


 と返す。私はほんの少しだけ息を吐き。


「私って、そんなに頑張りすぎているように見える?」


 私がそう問うと、小夜は長い、長い、長いため息をつく。何と言うか物凄く呆れていそうだ。


「見えるに決まっているだろう?良い機会だ、一度私の家に行って、おばあ様に会わせようか?」

「なんで?」

「最近おばあ様に会ってないだろう?おばあ様も心配しているんだ」

「そ……っか」

「それにいい機会だ一度怒られよう」

「えっ、あーいや……」

「言い訳は無用だぞ恵里衣お姉さん。私だってずっと心配なんだ。少しは懲りてほしい」


 何とか逃れようとした私に気が付いたのか、小夜はジト目のまま机の向かい側から私の手を掴む。

 これじゃあ逃げることもできないか。私は小夜の手に自分の手を乗せ。


「わかった。行く。ちゃんと行くから」

「ふむ。お会計しに行くぞ。もちろん手を繋いだままな」


 小夜は絶対に逃がさないとばかりに私の手を掴みながら、自分の財布を手に取る。私はそんな小夜に。


「大丈夫逃げないよ」


 と言う。

 しかし小夜は、頬を膨らませ。私の手をより一層強く握りしめた。


 それから私と小夜は、鳴無家へと向かっていった。外はまだまだ日が高く歩くとほんの少しだけ暑く感じる。木々はすでに紅葉を迎えているのに、なんともちぐはぐな気温だ。小夜は相変わらず私の手を強く握っており、離すことなかった。別に痛いわけでも不快なわけでもないので、私は為すがままになっていた。

 いつもの喫茶店からしばらく歩くと、鳴無家の大きな家が見えてくる。相変わらず大きな家だ。小夜は慣れた手つきで門を開け、私の手を引っ張りながら敷地内に入る。いつも通り敷地内は綺麗に掃除されており、たくさんの木々があるのに、枯葉が綺麗に一箇所にまとまっている。小夜曰く、朱夜さんが定期的に手入れをしているらしい。庭を抜け、私たちは玄関を開ける。そして、小夜は大きな声で。


「ただいま!! おばあ様!!」


 と叫び、続けて。


「恵里衣お姉さん連れてきたぞー!!」


 とも叫んだ。するとほどなくしてタッタッタッと小走りの音と共に、着物の女性……朱夜さんが玄関に現れる。相変わらず寒気を覚えるほどの美貌。年齢を感じない姿。

 そんな朱夜さんが私の顔を見るなり、目をカッと開く。


「恵里衣さん!!」

「は、はい!?」


 突然に名前を呼ばれ、私は慌てて返事をする。急なことでどもってしまい、なんだか気恥ずかしくなる。朱夜さんは玄関に設置された棚からスリッパを出しながら一言。


「今日はうちに泊まりなさい」

「……………………えぇ!?」


 突然の言葉に、一瞬、思考回路が停まってしまった。私が固まっている隙に、朱夜さんは私の身体を触り。


「指先もこんなガサガサになって……しかも前よりもやつれて。髪の毛もこんなに細くなって……目の下もくぼんで……」


 そう言いながら朱夜さんは私の手を引っ張り始める。


「あら、ごめんなさい。私ってば」


 そう言いながらも朱夜さんは手を離そうとしない。反対側の手も小夜ががっちりと掴んでいる。


「逮捕だ。恵里衣お姉さん」

「逮捕かぁ……」


 私は行儀が悪いかなと思いながらも足だけでスリッパを履き、そのまま二人に連れられるがまま家の中を案内される。相変わらず長い廊下、広い部屋の数々である。そんな長い廊下で朱夜さんは小さく。


「やはりここに住まわせるべきだった……両親も何故こんなにやつれている娘を放っておくのでしょう」


 と呟いている。どうやら相当怒っているようだ。

 しばらく廊下を歩いた後、とある部屋へと案内される。そこはかつて由香と一緒にご馳走してもらったあの和室。


「ここで座って待っていてください。小夜も付けますので」

「ああ、恵里衣お姉さんがこっそりと逃げ出さないようにな」

「逃げない逃げない」


 私はそう言いながら、スリッパを脱ぎ、和室の中へと入る。小夜も私に倣って部屋に入り、私の横にぴったりと座り込む。逃げないと言ったのに……。


「すぐにお夕飯の準備してきますので……小夜、逃がさないように」

「承知した」

「逃げないってば」


 朱夜さんは私の言葉を聞き、一瞬眉を上げるが、そのまま和室から出て行ってしまった。

 その直後、小夜に片腕をがっちりと掴まれる。この調子だとトイレまでついていきそうだ。私はそっと小夜の頭を撫でる。小夜は目を細め、気持ちよさそうな顔をしているが、じっと私を見続けている。そこまで信用ないかなぁ。

 そんなことを考えながら、私は夕食の時間まで小夜に縛り付けられていた。




 小夜に監視されながら小夜と雑談を交わしていると、いつの間にか私の目の前にはたくさんの料理が並んでいた。ここ数か月食べていなかったものばかりで、目移りしてしまうほど。

 俵型のコロッケに、山盛りのサラダに、ひじきの煮物に、ブリ大根。よくこんな短い時間で調理できたなと感心しつつ、私はちらりと朱夜さんの顔を見る。朱夜さんは首を傾げながら。


「いただきましょう?」


 と言う。

 正直これ、お金を支払っても良いくらいなんだけど……。

 そんなことを考えながら手を合わせ。


「いただきます」


 と小声で言う。

 すると、小夜と朱夜さんも小さく「いただきます」と言い、手を付け始める。小夜の方をちらりと見ると、茶碗には……やたらと山盛りにされたご飯が見える。


「小夜めっちゃ食べるね……?」

「これくらい食べないと身体がもたないんでな」


 燃費が悪い……? 私が観察している間に、小夜は幸せそうな顔でどんどん食べ進めていく。とんでもない食べっぷり。私はそんな小夜を横目に見つつ、俵型のコロッケを取り、小皿に乗せ箸で割っていく。コンピニやスーパーの総菜ではなかなか聞けないざくざくとした音と共に、中から湯気が溢れ出す。ほんの少しソースをかけ、一口。


 あ、いけない。これは。


 咄嗟に上を向き、顔をしかめる。視界がぼやけ、零れ落ちそうになっている雫を、なんとか溢れさせないようにする。熱く湧いてくる涙を押し込め、下を向くのと同時に袖で顔を拭う。行儀が悪いかもしれないが、涙を見られるより全然いい。そしてもう一口含み、咀嚼する。噛むたびに涙がじわっと滲み、視界を歪ませる。

 すると。


「恵里衣さん」


 朱夜さんの声が聞こえてくる。いけない、涙を誤魔化さないと。そう考え、顔を背けようとした時。優しい声が耳に入る。


「ここは貴女の家でもあります。だから、泣いてしまっても。誰も咎めはしないですよ」


 いけない。そんなこと言われてしまったら。


「たまには流すものを流さないと……ね?」


 その言葉に私の涙は、止めどなく頬を伝った。




 小夜の部屋。

 風呂をもらい、寝間着も借り、布団も借りて、小夜の部屋の真ん中で転がる。

 部屋は真っ暗。隣には人形のように静かに眠っている小夜の顔。寝る直前まであんなに騒がしかったのに、そのうるささはどこへやら。黙っていても、いや黙っていなくても美少女な彼女は、規則正しい寝息を立てている。

 私もそろそろ寝なくては。明日も大学には行かなくてはならないし、バイトが二本ほど入っているため、気合を入れなければならない日だ。

 私は借りた布団の中で大きく伸びをする。ぎしぎしと全身が軋む感覚があったが、まだまだ動ける。

 みんなに心配かけちゃっているな。

 私は寝返りをうちながらそう考える。お隣さんにも、小夜にも、朱夜さんにも心配されいて、まだ何も言ってこないが、きっと由香も私のことを心配してしまっている。


「もっと頑張らないと」


 もっと頑張って、表に出さないようにしなくては。誰にも心配されないように努力せねば。

 まだ私は頑張れるはずだから。




つづく

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