其の十三
『感情を読むこと、感情を抑制すること。どちらも抑えきれるほど、私は優しい人間にはなれない』
十二月。空気はすっかり乾燥し、防寒具が活躍し始めた。相変わらずバイトと勉強の板挟みだが、まだまだ生活費も学費も十分とは言えず、バイトで忙しい日々が続いている。
そんなある日、大学の講義と講義の間の昼休憩。弁当持ち込み可能な大学の食堂で、私がスマートフォンを操作しながら、家で作ったおにぎりを頬張っていると私の目の前に影が差した。今いる食堂はあまり広くはないため、相席になることも少なくない。
邪魔にならないにさっさと退散してしまおう。
そんなことを考えながら、スマートフォンの画面をオフにした時。
「キミはそれっぽっちなのかい?」
聞きたくない声。嫌々視線を上げると、そこには太宰の姿があった。ストーカー……とまではいかないものの、結構な頻度で私の目の前に現れる。
しかもきっちりと、由香がいないタイミングで。
「余裕なんてありませんから」
「無茶は身体に悪いぞ? せっかくの可愛いルックスが台無しになってしまう」
「はいはい」
私は冷たくあしらい、おにぎりを一気に口の中に放り込む。口の中の水分が一気になくなってしまったが、太宰と一緒にいるよりかは全然マシである。すると太宰はくつくつと笑いながら。
「お嬢さん、水はいるかい?」
と声を掛けてくる。私は全力で首を横に振り、無理矢理口の中のおにぎりを飲み干す。太宰に貸しなど作ってたまるか。すると目の前から「んっぷ!?」と嗜せる声が聞こえる。何事かと目を向けると、そこにはトマトチキンソテーを目の前に口を押えている太宰の姿が。
「これは秘密なんだが……私は鶏肉の一部が苦手でね」
そう言いながら太宰は自身の上着からティッシュを取り出す。物凄く可愛らしいデザインが施されているティッシュだったが、十中八九、彼女が自前で買ってきたものではないだろう..
「はあ、そうですか」
「ぶにぶにとした皮が苦手なんだよ」
ぶにぶにとした皮……って、なんとも嫌な言い方をしてくれる。私は聞こえるようにため息を漏らしながら。
「じゃあ、今度焼き鳥でも奢りますよ」
と返す。
すると太宰は引きつった笑顔を見せ、
「勘弁してくれ。頭の良いキミのことだ、皮しか奢ってくれないだろう?」
「そうしますね」
「本当に勘弁してくれ、成人女性がその場で泣き崩れるのをみたいのかい?」
「本当にやめてくださいね」
私はそのまま立ち上がり、問答無用で歩き始める。直後、太宰の周りに女性が溢れる。一気に人口密度が上がりすぎて、熱気が増したような錯覚を覚えるほどだった。
「王子様!!」
王子様ってなんだ、王子様って、私は呆れながら次のコマで使用する講堂に向かって歩き始めた。すると背後から。
「また今度時間が空いたら話をしよう!」
と声が聞こえてくる。私はうんざりしながら食堂を出た。
講義が終わり、講堂で荷物を整理していた時、目の前のルーズリーフに影が差す。私がそっと目線を上げると、そこには見知らぬ二人組。どちらもお世辞にもおとなしいイメージは抱けない女性だった。
この席を使いたいのか?
私は首を傾げながらも、荷物を片付けていると。
「あなた、湯川恵里衣っていうやつ?」
急に声を掛けられる。見た目は少々派手な茶髪で、気の強そうな女性、たぶん私よりも先輩。声を掛けられる意味はわからなかったが、このまま無視を決め込むのも怖い。
「はい、そうですが」
と、一応敬語で接する。下手にトラブルに巻き込まれると、ただでさえ疲れているのにさらに疲れてしまう。そんなことを考えていると
「あんた、王子になびかないって有名なんよ」
余計な面倒ごとを持ってきやがって。
頭の中で太宰の無責任な笑い声が聞こえる。私は目を細め、警戒を始める。一体何をされる? いじめ? なんかの脅迫? それ以外の何か?
そんなことを考えながら相手の出方を待っていると、茶髪ではないもう一人の女性が。
「あぁごめんごめん、何もしないから大丈夫だって」
とそんなことを言う。本を奪ってでも真偽を確かめてやろうかと、身構えていると、最初に声を掛けてきた人が。
「いや、本当に何もしないって」
と呆れ顔で言う。隣の女性は。
「あんたがバチバチに喧嘩腰で話し掛けるからでしょ?」
と茶髪の女性の頭を叩く。茶髪の女性はばつが悪そうな顔をし。
「だって、後輩に舐められたくないし……」
と言う。
何とも身勝手な理由で威嚇されたものだ……気持ちはわからないでもないけど。私の警戒が解けたのを見てか、茶髪の女性が目を逸らしながら。
「太宰って結構女の子に声かけているんだけど、三日四日遊んでポイすること多くってさ」
と言う。
……あの人、女の子をとっかえひっかえしているのか恐ろしい。
私が心の中で驚いていると。
「私もその被害者の一人だけど」
茶髪の隣に居る女性が苦笑いで言う。
「湯川さん、まだ一年でしょ? なんと言うか……大人っぽいわ~。あんな顔が良い女にごりごりにアプローチされて、よく耐えきれるね……彼氏でもいるの?」
「顔が良い人間は、わりと身近に居るので……」
顔が良い人間と言われて、パッと思いつくのが由香と小夜と朱夜さん。向日葵ちゃんは顔が良いというより可愛いが勝っている気がする。
私がそう言うと、二人とも驚き。
「王子レベルの顔が良いやつが身近に居んの!? ひゃ〜〜〜ずるいなぁ」
と、素っ頓狂な声をあげる。
何がずるいんだ? 私は呆れながらルーズリーフを整え始める。次の講義でここを使用する人たちが講堂へ入り始めている。さっさと移動しないと。
……そういえば。
「言い方悪いですけど、あの人に捨てられて怒りとかそう言う感情は、わかなかったんですか?」
「怒り怒り、ねぇ………」
茶髪の隣に居る人は額に手をつき、深く考える。
「楽しい記憶ばかりで、あまり怒りって感情はなかったなぁ」
「楽しい記憶……」
私が呟くと、彼女はあははと乾いた笑いをしながらこんなことを言う。
「ま、王子様の噂は知っていたからね。いつかこんな日が来るんじゃないかって思っていたからそこまでダメージはなかったよ」
そんな彼女の乾いた笑いを聞きながら私は。
やっぱあの人は嫌いだ。
改めてそう思った。
大学から帰り、そのあとのバイト終わり。
今日は由香の実家と、ドラッグストアの二つで働き、帰ってきたのは夜中の一時。明日の準備も終わり、スマートフォンの目覚まし時計をセットしようとした時、ディスプレイに何やら通知が。
そこにはバッテリー残量が少ないことを示す通知と母親からのメッセージアプリの通知。私は中身を開かないように、概要を覗き見る。
『今日もお父さんと喧嘩し……』
と、ここまで表示されていた。正直に言ってここから先は読みたくない。
少なくとも今晩は。
私はスマートフォンに充電ケーブルを差し込み、目覚まし時計をセットしてから枕元に置く。しばらく布団の中で目を瞑っていたが、お腹の奥がぐるぐると渦巻いていて、とても嫌な感じがする。それと共に、軽い吐き気も覚える。
一人暮らしをしていても、ここまで干渉されるのか。私はスマートフォンの反対側を向き、もう一度瞼を閉じ、頭の中の鉛筆を外へと追いやる。
瞼を閉じてから数分も経っていないだろう。空の色も部屋の中もまだまだ真っ暗だというのに、やけに背後が気になってしまう。寝る時はサイレントモードにしているはずなのに、何故か背後からバイブレーションが震えているような錯覚を覚える。絶対に震えるはずがないのに。何度寝返りを打っても、何度タオルケットを顔にかぶっても、なかなか寝付くことができない。しまいにはスマートフォンのディスプレイが光っているのを見つけてしまい、思わずそちらへ目を向けてしまう..
どうやら通知の相手はまた母親らしい。読まずにスルーしているのがバレているのだろうか。私は見たくもない画面を視界に入れてしまう。
そこには。
『お父さん浮気しているみたいなの』
何を。
「何を今更」
私はスマートフォンの画面を閉じ、再び寝返りを打つ。これ以上□□□□のことを考えてしまうと、いよいよもって寝られないかもしれない。
異様な吐き気を覚えながら、私はタオルケット、掛け布団、毛布、全てをかぶり、小さく丸くなる。時間が経つと、呼吸が荒くなり、布団の中が暑くなり始めたが、スマートフォンの目覚ましが鳴り響くまでは、そのまま布団の中に潜り続けていた。
「恵里衣」
「ん」
「恵里衣!」
「大丈夫、聞こえてる」
大学のキャンパス内、私は眠くて半分意識を手放している頭をそっと叩く。
目の前には、呆れ顔の由香の姿が。
「お前な……学業に響くまでバイトしてちゃ本末転倒だろうが」
とそんな正論を言われてしまう。言い返すことも難しい。私は「ははは」と笑いながら、レポートの整理を行おうとした。しかし……。
「ははは。じゃないんだよ。恵里衣。そろそろ力づくで止めるぞ?」
そんな低い声と共に、由香が私の腕を掴む。ほんの少しだけイラッと来てその手を振り払おうとしたが、理性で抑え込む。
由香は何も悪くない。
こんなところで怒ってしまったらそれこそ母親そっくりになってしまう。
「ごめん」
私はそっと一言だけ謝ると、そっと由香の手を反対の手で剥がす。由香は最初こそ抵抗したが、すぐに力を抜いてくれる。
「……私は本気だからな」
彼女はそう言うと、私の頭を乱暴に撫で、隣に座り始める。そして、ぽんぽんと自分の太ももを叩く。
「ちょっと寝とけ。十五分くらい寝ればまだましになるだろ」
由香の言葉に私は手を振り。
「え、恥ずかしいからやだ」
と返す。しかし、今日の由香はどうも強引なようで。
「却下、おら、寝ろ」
そう言い、私の頭を両手で掴み、無理やり、引き倒す。無理な体勢で一瞬腰がごきごきっとなったが、咄嗟に姿勢を変えて難を逃れる。
由香は深い深いため息を漏らしながら。
「化粧でも隠せないレベルのクマ、こさえるくらいならちゃんと休め」
と言い、私の目をノートで覆う。嗅ぎなれた由香の香りと、暗闇につられ、私の意識が遠のいていく。
こんなに早く眠たくなるものなのか。
ぼんやりとした意識でそう考えていると。遠くで声が聞こえる。
「……やっぱ、ダメじゃねぇか」
そんな声が。
「恵里衣お姉さん。どうだ。この次世代な服は」
「胸元おっぴろげすぎ。ダメ」
「なんと」
ここは小夜宅最寄り駅から、電車で三十分ほど揺られた先にある商業施設。私は小夜と二人でショッピングをしていた。前々から小夜と約束をしていたので、今日はバイトは一切いれていない。そのため夜まで小夜と一緒にいることができる。
急なバイトが入らないとは限らないが、邪魔されたくないため、スマートフォンの電源を今だけ完全に切っている。
「そんな奇をてらわなくても、小夜は十分目立つんだから……・」
「奇抜さを狙ったわけじゃないぞ?」
「それはそれで……あー……向日葵ちゃんにファッションのいろはを習おうか」
「なんと!? ……と言いたいが、確かに向日葵ちゃんはセンスが良いからな。それもありかもしれない」
「これ小夜にも似あ……・あれ?」
ふと気が付いたことがある。私は決して背が高い方ではないが、低い方でもない。少なくとも小学生よりかは高い自信があった。そう、自信があったのだ。
「どうしたんだ? ふむ……確かに大人っぽくてかっこいいが……」
小夜は私が選んだ服を自分の身体に合わせると。
「少々私の背丈が高すぎるかもしれないな」
確かに小学校五年生だ。女子の成長期は早いって言うし、確かに不思議ではないかもしれない。いや、それでも。
「身長伸びたね!?」
「今更か!?」
目の前の小夜の瞳は、大体私と同じ目線の高さであり、あと数センチも伸びれば追い抜かされてしまいそうだ。
「人間の成長ってすごい」
「私を見て感動しないでくれ恵里衣お姉さん」
小夜は呆れた顔をしながらも、すぐに興味が近くの服へと移る。黒くてさらさらとした髪が揺れ動く。日に日に美少女から美女へと進化している気がする。
「まさかあんなに小さかった小夜がここまで大きくなるなんて」
「私はよく食べるからな。ようやっと私の潜在能力が、私の時代に追い付いたんだ」
「……そうなの?」
「そうだぞ?」
確かに、小夜は物をよく食べる。ちいさ……くはないが、あの痩せ型の身体にどこまで入るんだと思えるほどに小夜はたくさん食べる。その食べたエネルギーが全て身長へと還元されているのだろうか。
「まだまだ身長伸びそうだね」
「ああ、まだまだ伸びるぞ」
小夜はそう言いながら、いつもの決めポーズを取る。いつの間にかベンチに上るまでもなく、私と同じくらいの目線になっていて。
「小夜は成長したねぇ」
なんて、おばあさんみたいなことを言ってしまう。
私は成長できているだろうか。勉学にバイトと、大学生にしては色々と頑張っているが、それが自分の成長の糧になっているのだろうか。本当に少しだけ不安になってしまう。
いつも通り、私は小夜を家まで送る。太陽はすでに建物の向こう側へ落ちており、そろそろ夜になってしまう。
寒くないように、はぐれてしまわないように、私と小夜は手を繋ぐ。
「恵里衣お姉さんは、優しい嘘ってあると思うか?」
歩いている途中、小夜がそんなことを聞く。優しい嘘、か。
「詐欺師役で必要になった?」
「む、質問を質問で返すのはズルだぞ……まぁそうだが」
小夜は私と繋いでいる手をぶんぶんと大きく振り子のように動かす。
優しい嘘……。
「あるとは思うよ、優しい噓。だけど私は、あまり良いものとは思えない」
「……そうなのか」
「なんだかんだ独りよがりなことが多いから」
自分で言っていてあれだが、胸が痛い。
優しいかどうかは別として、私も嘘をつくことが多いから……。そんな私を見ながら、小夜は言う。
「恵里衣お姉さんは、誰かを助けるために嘘をつくこと、あるのか?」
「助けるため……とは言えないと思う。結局自分のためだし。結果的に良い方向に転がったこともあったけれど、大体は空回りな気がする」
「そうか」
小夜はそう言うと、ぎゅっと私の手を握る。小夜の体温が私の手に広がる。
「恵里衣お姉さんは詐欺師になれないな」
「……まあ、なりたくもないし?」
「うん、絶対になれない」
小夜はそっと繋いでいる手を自身の頬に寄せ、私の手の甲に頬を当てる。
柔らかい感触と、冷たい肌を感じる。
「恵里衣お姉さんは他人に優しすぎる」
「……そう?」
「ああ、そうだ。私が不安を覚えるくらいにな」
ぎゅっと手を握られ、私は少しだけ驚く。小夜はそんな私を見てほんの少しだけ意地悪な顔をする。
しかし、その顔はすぐに変わり、凍り付いたような表情になる。今まで見たことのない小夜の表情に私は戸惑う。
ゆっくりと小夜の目線を追う。目線の先には、小夜の実家。その入り口には。
小夜の父親が立っていた。
私は全身が総毛立つ。
今更何をしに来たのか、ただ帰ってきただけなのか。それとも、小夜を。
思考が巡る。私は自然に小夜を庇うように前に一歩踏み出し、背中に小夜を隠す。そして近くに小夜の母親が居ないかを確認する。……ゴルフクラブの痛みを思い出しながら。
数秒周りを見渡しが、どうやら母親はいないらしい。
今度は耳をすませる。すると、小夜の父親はインターフォンに向かって何か会話をしている。
「俺は反省したんだよ、母さん! 俺がバカだったんだ!!」
どうやら朱夜さんと話しているらしい。しかし色よい返事はもらっていないようだ。
私は小夜に耳打ちする。
「……一旦離れる?」
びくっと小夜は身体を震わせる。あんなに元気だった小夜が凄く怯えている。その事実だけで私は怒りでどうにかなってしまいそうだった。
しかし小夜は頭を振ると、胸に手を抑えながら。
「大丈夫だ。家へ帰ろう」
震えている。本当はすごく怖いんだ。でも一歩を踏み出そうとしている。
「必ず守る」
私は小夜の手をぎゅっと握りしめる。痛いくらいに。小夜はそれに応えるように強く握り返す。
微かに震えているのが、私の胸を締め付ける。
一歩、二歩。私たちが玄関に近づくと、小夜の父親は訝しそうな顔でこちらを見ている。
「……どちら様?」
ぶん殴ってやろうかと思った。だが、それを何とか抑え込む。
私が怒ってどうする。
丁寧に自分の怒りを剝がしながら、小夜を連れて玄関へ行く。
「小夜のお友達です。行こうか、小夜」
『小夜』と言う言葉に、小夜の父親は目を見開く。
この様子だと大きくなった小夜を小夜と認識できていなかったのだろう。その事実だけでも怒りが湧いてくる。
「小夜? 小夜なのか!? 父さんだ、父さんだよ、小夜」
小夜の父親は自然な動作で小夜を抱こうとする。後ろで小夜が硬直しているのが見える。
こいつは……!! ぶん殴ってやろうかと思ったその時。
「我が息子ながらなんて俗物的な……」
冷たい声が私たちの間に割って入る。
玄関に立っていたのは、着物の姿の朱夜さん。しかし、その瞳は心臓まで凍り付かせるような冷たい瞳だった。
私は一瞬にして口の中が乾くのを感じる。
「恵里衣さん、小夜。申し訳ないけれど、少しだけお話をしましょうか……ほら、あなたもいつまでも突っ立っていないで、入りなさい」
私は小夜を小夜の父親から守りながら、小夜の家へと入る。後ろから刺すような視線を感じるが、小夜を守るためだ、何も怖くない。
朱夜さんは私たち三人を客間に通す。そこには低い机と、座布団が数枚ある部屋で、壁には扇子やお面が並んでいる。
中央の長方形の机、私と小夜は入口近く、小夜の父親は私から見て左側、対面には朱夜さんが座っている。
「母さん」
「なんでしょう?」
「俺は反省しているんだ。本当に、心から!!」
「……それが?」
「だから、小夜の親権をもらいたいんだ! あの母親から引き剝がす、それで俺と小夜と二人でしっかりと! 生きていくんだ!!」
噓くさい。
直感的にそう感じた。本当に反省しているのかも怪しいと感じてしまう。どうやらそれは朱夜さんも同じだったようで。
「それだけで信じられるとでも?」
その反論を待っていたのか、小夜の父親はなんかたくさんの書類を持ち出してきた。そこには『更生プログラム』と書かれた書類が。
「ほら、こんな風に良い父親に戻るために、色んなものを受けてきたんだ! 今までやってきたことを反省して、評価ももらったんだ」
そこには確かにたくさんの判子やたくさんのボールペンが走っている。中には反省文みたいなものも含まれている。
本当に、反省しているのか? しかしなんか違和感を感じる。何か、変だ。
「ずーっと小夜と一緒に暮らしていくことを夢見ていたんだ! だから、努力できたんだ!!」
私は目を細め、そっと移動する。小夜の父親からは見えない角度で扇子の一つを掴み、畳の上に落とす。
小夜の父親は肩を震わせ、音がなったところへ目線を向ける。
「ああ、なんだ落っこちたのか」
そう言って私に背中を向けた瞬間に、私は小夜の父親の頭上にある本……台本のような形をしていて大きなホッチキスで留まっている本を掠め取る。
朱夜さんが一瞬目を細くしたが、口元に着物の袖を持ってくるだけで何も言わなかった。
私は本を机の上で捲る。そこには彼の人生や考えや思想が羅列されている。
そして、ページの最後の方、現在進行形で文字が走っている。
「急に扇子が落っこちるなんて……」
そんな呑気なことを言っている父親の考え。
それは。
『小夜を持って帰らないと、会社で針の筵だ。小夜のことだし、殴って聞かせればおとなしくなるだろうし、今は成績も良いから利用もできる。良い高校、良い大学に進学させれば俺にも箔が付く』
「ふざけるな……」
「え?」
今までのストレスが、小夜への想いが、自分の両親や小夜の両親が、様々な想いが綯い交ぜになって、私を搔きむしる。
扇子を元に戻した小夜の父親は口をポカーンと開いている。
「小夜はお前の道具じゃねぇんだよ」
「んなっ……なんでよそ様の人間にそんな」
「実の娘の顔を忘れたままだったやつが良く言うよ」
私は小夜を自分の後ろに返す。小夜は戸惑っていたが、合点が行ったような表情を浮かべ、悲しそうな顔を浮かべる。
「会社で針の筵? 殴って聞かせればおとなしくなる? 良い高校、良い大学に進学させれば箔が付く? 全部お前の事情じゃないか」
「……お前に何がわかるんだよ!! ええ!?」
そう言って、小夜の父親は私の胸倉を掴む。すごい勢いで服の生地が破けてしまうかと思った。
「何好き勝手なこと言ってんだよ!? 俺は!! 反省して!! ここにいるんだよ!! 外野のお前が、俺の何を知っているんだ!?」
「……付き合っていた女性社員とも縁を切られたみたいですね」
「あ?」
私は辛うじて右手で維持していた本の中身を音読する。
「子供を作るために離婚しようとしたけど、小夜への虐待がバレて、晴れて破局。そんでもって小夜を連れ戻して元通り? どこまでお花畑なことを考えているの?」
「な……てめぇ……」
「お前みたいなやつに小夜を渡せるものか……今更、父親面するんじゃないよ!!」
「んだと!?」
殴られる。
小夜の父親が右手で握り拳を作って、私に振りかぶろうとしている。しかし私は目線を小夜の父親から逸らさない。
こんな屑に負けてたまるものか。
拳が到達する。その時だった。
拳が不自然な軌道を描き、私の顔から逸れる。そして、ごきん、と言うあまり聞きたくない音が室内に鳴り響いた。
「……い、でぇ!?」
混乱している思考を何とかまとめながら、周りを確認する。小夜の父親の右腕は背中側に突き出している。なんだか、肩が変な形をしているようにも見える。そんな小夜の父親の右腕を持っていたのは。
「小夜……?」
顔を伏せている小夜だった。いつの間にか私の後ろから移動していたのか。私は小夜を父親から遠ざけようとした。
そんな私を小夜の声が制した。
「出て行ってくれないか」
冷たい、冷たい声。
朱夜さん、それ以上に心臓を凍てつかせるような冷たい声。
「あと、恵里衣お姉ちゃんに手を出さないでくれ、じゃないと」
小夜は自分の父親を畳の上へ叩きつける。うつ伏せになった小夜の父親は何が起こっているのか理解できていないみたいだ。
「私はお前を殺してしまいそうになる。このまま、娘に殺されるか? 今なら全身の関節を壊すことだってできるぞ?」
その小夜の表情は『無』だった。感情のひとかけらもない。出会った頃よりもさらに酷い状態。
私はすぐに小夜を父親から引き剝がすため、小夜を抱き締め、朱夜さん側へ運ぶ。
「小夜」
「…………早く出て行ってくれないか?」
抱き締めてもなお小夜の冷たい声は止まらない。凍り付いていた小夜の父親は痛みで我に返ったのか、訳も分からないことを言いながら、部屋の外へと出て行った。
その直後、小夜は脱力する。たくさんの汗をかき、なんだか肌が青白い。
「ごめん。ごめん小夜。小夜に無理させちゃった」
私は謝りながら、彼女を抱き締める。
小夜は小さく鼻をすすりながら、私に自分の本を読んでほしいとジェスチャーする。
私は小さく頷き、小夜のノートを捲る。
『本当に大丈夫だ、恵里衣お姉ちゃん』
「本当に大丈夫だ、恵里衣お姉ちゃん」
『私の意志でヤツを追い出したまでだ』
「私の意志で父を追い出したまでだ」
『私こそすまない、恵里衣お姉ちゃんを守れないかと思った』
「私こそすまない、恵里衣お姉ちゃんに色々とやらせてしまった」
本と本音は大きく乖離していない。私は涙で視界を揺らしながら。小夜のことをさらに抱き締める。
「……他人の家庭にずかずか踏み込んだのは事実だから」
しかしそんな私の言葉を朱夜さんが遮る。
「いえ、恵里衣さんが介入してくれて、よかったかと」
そう言いながら朱夜さんはふわりと私と小夜を包み込む。肌触りの良い着物が私たちを包む。
「不貞まで働いていたなんて……本当に、誰に似たのやら……ごめんなさい恵里衣さん。また貴女を巻き込んでしまった」
朱夜さんは私たち二人を守るようにそっと抱き寄せる。
「……朱夜さんみたいな大人がたくさんいればいいのに」
思わず私はそんな言葉を零してしまう。
その言葉に朱夜さんは。
「いえ、私もまだまだ未熟。ですから」
悲しげに笑いながら、私と小夜をしばらく抱き締めていた。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます