其の九
『本に記載される文字も様々であり、達筆であったり書き文字だったり、人によっては日本語なのに、象形文字みたいになっており、解読ができなくて戸惑う時がある』
三月、高校三年生的には学校はほぼほぼ休みで、本来であれば四月の新生活に向けてのんびりと寝て過ごて英気を養いたい日々。そんな中、私は色んな準備に追われていた。それもこれも両親との不和のせいだが。売り言葉に買い言葉、親から一方的な暴力も加わり、私は疲弊しきっていた。何度叫んだか、何度罵詈雑言を吐き並べたか、正直覚えていないし、本も読み返したくない。そんな中、強烈に記憶に残っている出来事がある。それは……。
「恵里衣!! まだ拗ねているの!?」
まだまだ春の温かさを感じるには早い三月の朝の七時。私の部屋に響き渡る母親の金切り声で目を覚ます。頭の中に声が反響し、キンキンとして非常に不快だ。私は掛け布団をかぶり、二度寝をしようとした……しかし。
「起きなさい! 起きなさってば!」
がきん、と言う何か金属を破壊する音と共に、母親が部屋に入り込んでくる。どうやら母親が部屋の扉に取り付けられた鍵を破壊してくれたみたいだ。
「何壊してんのさ」
「あんたがずっとそんな態度を取るのがいけないんでしょう!?」
お前が叔父と浮気しているのが気に食わない。そう言えるなら、どんだけ楽だか。ただ、そう言ったところで、私に逆ギレをして、さらに状況が悪化することは目に見えている。私は掛け布団を取り、母親を睨みつける。鬼のように顔を真っ赤にしている母親を見ているだけで、嫌悪感からの吐き気で胃酸がこみ上げてくる。
「別に話すことなんてないじゃん」
「あんた、親に向かって、いつまでその態度なのよ!?」
「態度? 態度が気に食わないの?」
私はそんな母親にうんざりしていた。こんな馬鹿らしい押し問答をずっと繰り返している。母親はただ私に怒りをぶつけたいだけ、そんなこと本を読まなくてもわかりきっている。
それに……。
私は、騒ぎ立てている母親の絵本をサッと取り、不貞腐れてそっぽを向くふりをして、本を開き目を落とす。
『最近、あの人、私が怒りっぽいことに文句を言ってきている。それはきっと恵里衣のせいだ。恵里衣が素直になれば、恵里衣がおとなになれば、私たちは喧嘩なんてしないのに』
笑わせてくれる。ここ一か月二か月の話だが、どうやら母親と叔父の不倫はうまくいっていないらしい。そりゃあそうだろう。叔父は母親と火遊びをしたいだけだし、母親は足りない愛情を叔父から貰おうとしているだけ、互いに歩み寄る気もなければ、最初から二人の目的も違うのだからすれ違うのも無理ない。
「恵里衣!! こっち向きなさい!!」
母親にヒステリックに叫ばれ、渋々振り返る。これからずっと大学生の間、これを見続けることになるのか? ずっと私は親のサンドバッグで、ラブホテルとなっているこの家に居続けるのか? そんな生活、耐えられるわけがない。そんなことがずっと続けばいずれ私はもっと壊れてしまうだろう。私が壊れてしまったら、誰が小夜を守るのだ。私の代わりなんて……そんな……。
「あ、そっか」
「何がよ!?」
最初からこうすれば良かった。何でこんな簡単なことに気が付かなかったのだろう。私はベッドの淵に腰を掛け、歪んでいる母親の目を見て言う。
「私、この家から出ていく。それで満足でしょ?」
急に私に家を出ると言われたせいか、完全に固まってしまった母親を部屋に置き去り、私は服を着て外に出た。何だか無性に小夜に会いたい。だが、小夜たちはまだ春休みに突入しておらず、まだまだ学校へ登校している。スマートフォンで時刻を確認すると、まだまだ午前の七時半。小夜たちがちょうど小学校へ登校している時間だろう。
「と言っても、この時間じゃ小夜には会えないか」
私は独り言を零す。ここから小夜たちが通っている小学校までは徒歩三十分ほど。ただ、だいぶ前に向日葵ちゃんから聞いた話だと、小夜はクラスの中でも登校時間が早く、毎朝教室で変なことをしているらしい。だとすると、登校時に会うのはかなり厳しそうだ。
「なんか、ストーカー行為をしているみたいだな、私」
髪の毛を掻きむしりながら一人苦笑いする。その時、小夜たちの下校時間まで時間を潰せる一つの選択肢を思いつく。そうだ、美容院で髪を染め直してもらおう。小夜と出会う少し前から、全然美容院へ通っていなかったため、髪の毛が伸び放題。それに元々髪を茶色に染めていたのもあって、とんでもない割合のプリン頭になってしまっている。ここ最近は学校の先生にも注意されていなかったため、意識すらしていなかった。
「今から予約できる美容院あるかな」
小学校の下校時間は早い上に、小夜は運動クラブなどの部活には入っていない。当日予約でどこまで対応してもらえるか。お店の人には申し訳ないと思いつつ、私はスマートフォンを開き、美容院を探し始めた。
午後三時。軽くなった頭と明るくなった髪の毛を携え、私は小夜たちが通っている小学校の校門付近に立っていた。髪の毛を切ったことを誰かに伝えたいなんて、我ながら子供っぽいとは思う。だけど、一番に小夜に見せたかった。少々そわそわしながら小夜のことを待っていると、小学校の校舎階段から、体操着が入っている袋? をぶん回している小夜と、戸惑った表情をしている向日葵ちゃんの姿が。
と、言うか何やってるのあの子。
「勅使河原さん。これで体操服も遠心分離できると思うか?」
「できないんじゃないかな……」
「私の計算だと極低確率で体操ズボンが外側に……」
そんな不思議な会話が聞こえてきた。私は何となく気恥ずかしさを感じながら、小夜たちに手を振る。すると。
「恵里衣お姉ちゃん!? どうしてここに!? そして、髪の毛を切ったんだな!?」
小夜の顔がパッと明るくなり、全速力でこちらに駆けてくる……体操着が入っている袋を回しながら。結果、袋は私の肩に直撃する。痛みは全くない。
「しまった!! 暴走した体操袋が!!」
小夜は大慌てで私の肩を撫でる。
「すまない!! 大丈夫か!?」
「大丈夫、思ったより痛くない」
「遠心力……かなりの強敵だな」
「ぶん回していたのは小夜だけどね。危ないから、今後歩きながら体操袋を振り回すのはやめなさい」
「うむ。そうだな、これは危険すぎる」
私が仕返しとばかりに小夜の頬を軽く摘まんでいると、小夜の隣から向日葵ちゃんが私に向かって突進してくる。
「泥棒猫! トラ猫!! ……じゃなくて、えーっと……三毛猫!!」
「色合いがちょっと変わったね」
「なんか髪の毛も……抜けてる!!」
「抜けてない抜けてない。髪の毛を切ったんだよ。美容院で」
「一人で美容院へ行けない私への当てつけですか!?」
「そんなことない、そんなことない」
いつも通りの向日葵ちゃんの暴走を見ながら、うにょうにょ言っている小夜の頬を、ぐにぐにいじる。
「三毛猫!! 鳴無さんを離せ!!」
「向日葵ちゃん? お腹をぽこぽこしないで?」
「むむ。勅使河原さんもやるじゃないか。それ、私も……」
「小夜?」
「鳴無さんをはにゃ……せ」
「嚙んじゃったね……」
「うるしゃい!! です!!」
騒ぎ散らす向日葵ちゃんを何とか宥め、彼女を無事家へと送った後、私と小夜は二人、手を繋ぎながら小夜の家へと向かっていた。小夜はご機嫌な様子で、私と繋いでいる手をぶんぶんと振っている。
「今日は男子たちとホワイトデー必勝会議をしていたんだ」
「……何それ」
「男子と言うのは、バレンタインでお菓子をもらっても、何を返せば良いのか実のところ分かっていないことが多いんだ。一部の男子は知っていた風な口を叩いていたが……どうも的外れな意見が多かった」
「それはまぁ……渡す側はともかくとして、返す側はジャンルに縛りがない分、選択肢が多いだろうし」
「だからと言って安易にお菓子……特に飴なんて返した日には、下手したら女子たちに棒で囲まれて叩かれてしまう」
「そこまで!?」
そんな私の言葉を無視して、小夜は真剣な表情で話を続ける。
「男子たちには恥ずかしがらず、臆せず渡すこと。お菓子は保存状態が悪いと悲しくなるから、日用品を送ること、と言っておいた」
「……まぁ、妥当?」
「これでホワイトデーに悲劇は起こらないだろうな」
「…………本当かな?」
日用品とひとつとっても、やはり選択肢は多岐にわたる。男子たちのセンスを問われるのではないかなどと色々心配になったが、結局なるようにしかならないだろう。私の経験上の話にはなるが、ホワイトデーを返してくれるだけ、相当優しい男子だと思う。
「……と、すまなかったな。恵里衣お姉さんの前でバレンタインの話をしてしまった」
「前も言ったけど、大丈夫だよ。あれはずっと昔の話だから」
私はそう言って、小夜の頭を手を繋いでいない方の手で撫でる。目を細め気持ちよさそうにしている小夜を見ながら私は……。
「小夜。一つ、言っておきたいことがあるんだ」
私はそう切り出し、小夜と目線を合わせるように腰を曲げる。不思議そうな表情をしている小夜に向かって私は。
「私、ちょっと引っ越すことになった」
と言う。
私の言葉に小夜は固まる。私には小夜に何が起こったのか一瞬わからず、小夜を見つめ続けていたが、小夜は全く反応を見せない。不思議に思った私は小夜の大学ノートを手に取り、ページをめくる。
『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■』
ノート中が全て真っ黒になっており、文字が判別できない。さらにその上にも黒が走り続け、ノートをより黒に染めている。だいぶ前に見た現象だ。小夜は高速で何かを考えすぎているみたいだ。
「かぼちゃプリン!」
「はっ」
『かぼちゃプリン!?』
私が声を掛けると、小夜の思考が一瞬止まり、次のページに文字が走り始める。思考の根詰まりが治ったようだ。小夜は何度か目をぱくちりさせる。そして、私の手をぎゅっと握り。
「引っ越しって、どういうこと……? 恵里衣お姉ちゃん、遠くに、行っちゃうの?」
と涙声で言う。
……しまった、色んな過程をすっ飛ばして伝えたせいで小夜に勘違いさせてしまったかもしれない。私は慌てて説明すべきことを伝える。
①ここから引っ越すと言っても、遠くに引っ越すつもりはない。
②大学もここからそう離れておらず電車で三十分ほどで到着する。
③小夜のところからいなくなるわけではない。
ゆっくりと確実に、小夜に説明をする。すると、小夜は安心したのか大きく息を吐き。
「全く、驚かさないでくれ。心臓と脳みそが止まるかと思ったぞ」
と言い、私の胸に飛び込む。そっと抱き締めると、小夜の身体が小刻みに震えているが伝わって来た。
「ごめん……私も、今日決めたことだったから、ちょっと焦って伝えちゃった」
「本当に身体に悪いサプライズだ。こういうドッキリは人にしてはいけないものだな」
小夜は涙声のまま、私の胸に顔を押し付ける。本当に悪いことをしてしまった。
「ごめん。小夜」
「……ぐすっ……ひぐっ……」
そのまま声を出して泣き出してしまった小夜に何度も謝りながら、私は小夜の頭を撫で続けた。
あれから追加で体操袋を三回ほど腹に受け。「次やったら百倍だからな!」と言って小夜は家に入っていった。その時は笑顔だったが、腫れた瞼のせいで、私の胸が罪悪感でチクチクと痛んだ。それから私は父親が家に帰ってくる時間帯まで外で時間を潰した。空に月が上った頃、家へ帰り、ダイニングに明かりが灯っていることを確認する。本当は会いたくもないが、どうせ母親が私が家を出るってことを父親に伝えてしまっているだろう。溜息を漏らしながら私は玄関の鍵を開け、中へと入る。特に何も言わずにダイニングに行くと、顔を青くしている母親と、面倒そうな顔をしている父親が椅子に座っていた。私がダイニングに入ると、父親が大きな溜息を漏らしながら、言葉を発する。
「母さんから話は聞いてる……が、恵里衣の口から聞きたい」
そんなことに何の意味がある。そう突っかかりたいところだが、こんなところで言い争いをしたところでそれこそ意味がない。私は立ったまま、父親に向かって。
「この家を出たい。一人暮らしする」
私がそう言うと、父親は再び大きな溜息を漏らす。
「どうしてこうなってしまったんだか。昔の恵里衣はもっと賢く、素直だったのに」
父親はそう言い、額に手を当てる。額に手を当てる前に胸に手を当てて欲しい。お前が昨晩若い女と家の前に停めた車の中でヤっていたのは知っているんだ。
「どうしてそんな感情的に行動するんだ」
それは母親に言って欲しい。先月今月と何台家電を破壊したと思っているんだ。
「■■■■■、■■■■■■■」
うるさい。
「■■■■。■■■■、■■■■■■■■」
うるさい。
「■■■。■■■■、■■■■■■■■■■」
うるさい。
「■■■■■■。■■、■■■■■■」
……うるさい!
あまりのうるささに何かを蹴飛ばそうかと思った。何かを殴りつけてやろうかと思った。
でも。
小夜にそんな姿を見せられるか?
その言葉一つですべての黒い感情を抑え、心に落とす。黒い感情を封じ込めなければ。黒い記憶を全部、全部、塗り固めてしまえば。未来の私は本を読めないし、覚えなくて済む。全部、全部、消してしまえ。
私を、消して……。
「……恵里衣の決意は固いみたいだな」
ふと、そんな言葉が聞こえ、視点を目の前の風景に定める。そこには相変わらず青い顔をして何もしゃべらない母親と、酷く疲れた表情の父親が居た。
「わかった。一人暮らしを認めよう。住む場所も初期費用も負担する」
父親は渋々と言った様子で言葉を繋げる。
「その代わり、二度と俺たちを頼るな。自分で決めた以上、責任を持つこと」
父親はそう言い、少しだけ息を吐き。
「もう大人なんだから」
そんなことを言ってくれた。思わず私は拭き零しそうになってしまった。笑って、笑って、大笑いして、涙を流してしまいそうだった。
子供なのは、お前らじゃないか。
それから、新しい住居の準備やらなんやらで、私の春休みは見る見るうちになくなっていき、気が付けば、だいぶ月日が流れていた。もし何かあった時のために一応、由香と小夜に新居の住所を教えたのだが、そこでもひと悶着あった。と、言うのも。
「お前、ボロアパートってレベルじゃねぇだろこれ!?」
「だって、お金ないし。家賃のことを考えるとこれくらいしか候補がなかったんだもん」
「だからって……お前なぁ!!」
最近、ボブカットにツーブロックとイメージチェンジをした由香が叫ぶ。
「オートロックなし、カメラどころかインターホンなし、鍵も一世代前、ユニットバスに、リノベーションされてる形跡もなければ、補修の跡もあんまりない……って馬鹿なのか!?」
「ユニットバスは良いじゃん」
「お前……はっ……本当に!!」
由香に本気でそう怒られ、小夜に伝えた時も。
「恵里衣さん? 小夜から聞きましたよ?」
珍しく怒り気味の朱夜さんが小夜の家の玄関で待ち受けており。
「失礼なのは承知で、小夜から新居の住所を聞き、インターネットで調べてみたら、これはいったいどういうことなのですか?」
ずいずいと接近する朱夜さんに玄関で追い込まれ、壁に追いつめられる。
「あんなところ、お住みになるなら、うちに住みなさい」
「それは、その、ご遠慮……します」
「年頃の女がこんなセキュリティの甘い場所に住むなんて……!! 恵里衣さんのご両親は何を考えて……!!」
朱夜さんにそう説教されながら、頭を着物の裾でぺしぺしと叩かれ。
「小夜。恵里衣さんを拉致する方法を考えましょう?」
「おお。おばあ様が面白いことを」
何て言い出し始める始末。この新居のどこがいけないのだろうか。盗んで価値のあるものなんてさほどなければ、女子高生というブランドを失った私に価値があるとは思えない。
「秘密基地みたいで良いと思うんですけど……」
「…………」
「はっ。おばあ様抑えるんだ! おばあ様!?」
とまぁ周りから大反対された。結局、私は意見を曲げることはなかったが。
それから引っ越しの準備や新居周辺の地理を覚えるなど、色んなことをこなしているうちにあっという間に高校の卒業式当日になってしまった。別に特別思い入れのある母校ってわけではないが、曲がりなりにも三年間過ごしてきた場所なのだ。この制服を着るのも最後になると考えると、感傷にも浸りたくなる。
小学校、中学校とくらべると酷く簡素で、とても短かった卒業式も滞りなく終わり、私たち卒業生は校門前の広場に集まった。ここから先は自由行動のため、余程遅くならない限り、先生からは何も言われない。
周りを見渡してみると、無理矢理制服のボタンを引き千切って他人にあげる者。別れを惜しみ泣いている者。記念撮影を撮り続けている者。各々が別れを惜しみ、再開の約束を交わしている。私は先程まで由香と一緒に行動していたが、校門前の広場に出たところで、水泳部の後輩に連れていかれてしまった。遠くで由香が後輩に囲まれ、女子に抱き着かれ、泣き着かれているのが見える。由香は困ったような顔をしながらも、「来年はお前たちが水泳部を全国に押し上げるんだぞ!!」と叫んでいる。するとさらに後輩にもみくちゃにされ、姿が見えなくなる。
「由香は相変わらずモテるなぁ」
私が独り言を零していると、唐突に背後から肩を叩かれる。振り返り、顔をあげるとそこには。
「湯川先輩。卒業、おめでとうございます」
私が所属していた文芸部の後輩たちが、何やら手荷物をもって私のところへ来たみたいだ。
「私じゃなくて、他の先輩のところへ行けばよかったのに」
私がそう言うと、後輩の一人が頭を横に振り。
「湯川先輩だから来たんですよ。先輩が居なかったらきっと私たちは……」
「だーかーらー。それは気のせいだって。私は何もしてないよ」
私は苦笑いし、手を振る。ずーっと前からそうなのだが、この後輩たちは何故か私に感謝している。不思議に思った私は、後輩たちの本を読んで真相を解明してみたが、私……と言うより、由香が解決したようなもんだった。だから私が感謝される資格はない。
「……気のせいだったとしても、私たちは湯川先輩に感謝しています、から」
そう言い後輩は、私の腕の中に荷物を押し付ける。
「それ、割れないマグカップです。湯川先輩、ずぼらだからそういう物が良いかなっと思って」
感謝されているんだか、馬鹿にされているんだか、区別が付かないが、確かに割れないマグカップは正直悪くない。
「ありがと。使い潰すよ」
私がそう言うと、後輩は。
「はい、ぜひ壊しちゃってください」
と言い、嬉しそうに笑った。
「だぁぁぁぁっ!! 脱出!! 恵里衣、もう帰ろうぜ……って、文芸部の後輩ちゃんじゃん、おっす。あの馬鹿どうしてる?」
水泳部の集団から逃げて来たのか、突然私の背後から由香が出てきた。そして、後輩たちに向かって気さくに声を掛ける。
「あの馬鹿……と呼ばれている人は、相変わらず大人しいですよ。魚住先輩に蹴られた背中がまだまだ痛いみたいですよ」
「まぁな。私の中でもトップ10に入る、渾身の一撃だったからな」
かっかっかっ、と愉快そうに笑いながら由香は、私の肩をバシバシ叩く。私はそんな由香の手を払い。
「何回も言っているけど、反省しなよ? 彼、あんな一撃喰らって、怪我だけで済んだんだから」
「もう一年くらい前の話だろう? 時効時効」
今でこそ、若干笑い話になっているが、当時は本当に笑えない事件だった。……まさか、廊下の階段の最上段から飛び降りて、人の背中にドロップキックをかますなんて。いくらその人が悪人だったとしても、ちょっと同情してしまう。
「ともかく帰ろうぜ。うちで飯でもゆっくり食って、駄弁ろう……あ、小夜も呼ぶか?」
「いや、今日は二人……と由香のお義母さんとだけで食べよう?」
「それもそうだな。んじゃ、達者でな、後輩たち!!」
由香はそう言うと、ぶんぶんと後輩に向かって手を振る。私も軽く手をあげ、そのまま歩き出す。まだまだ卒業生は広場に残っており、在校生も入り混じったこの騒ぎはしばらくの間、続きそうだ。
「荷物は全部届いた。家具家電も設置できた」
卒業式の翌日。一刻も早く家から出たかった私は、さっそく新居に引っ越すことにした。必要なもの以外は全て捨ててきたため、思ったよりも荷物は多くなかった。アルバムや家族写真は新居には持ち込みたくなかったが、捨てるのもなんか憚れたので実家に全て置いてきた。そのことで母親とひと悶着あったが、正直内容は覚えていない。由香の言うボロアパートの二階の角部屋。そこが私の部屋であり、城だ。
「とりあえず、今夜の食事は……っと」
そう言い私が取りだしたのは、近所のスーパーマーケットに売っていた、カップラーメン。本来ならちゃんとご飯を炊飯器で炊いて、おかずも作りたかったのだが、今日は引っ越し作業で疲れてしまった。なので、作るのも処理するのも楽なカップラーメンで。
「……ってそういえば電気ケトルもやかんもないや」
完全に買うのを忘れていた。実家に普通にあるものだったから、買うという意識が欠けていた。火傷するかもしれないけれど、今回はフライパンでお湯を沸かすか。そんなことを考えていると、どんどん、と塗装が一部剥がれている玄関の扉が叩かれた。開きっぱなしだった台所の窓から不機嫌そうな白髪混じりの中年女性の顔が見える。もしかしてうるさかったかな。私は「はい」と返事し、玄関の扉を開ける。そこに居た中年女性は身長は私と同じくらいで、少々痩せ気味。今は紫色のカーディガンと紺色のエプロンを身に着けている。
「あんたが新しい入居者かい? また随分と若い……一人かい? 彼氏でもいるのかい?」
「一人です」
「……親は?」
「実家です」
「親はここで暮らして良いって言ったのかい?」
「はい」
「~~~~~~~っ!」
中年女性は額を手で押さえ、何やら苦悶の表情を浮かべている。
「……何かあったらすぐに私に言うんだよ」
その言葉でやっとこの人が、このアパートの大家さんだということに気が付く。確かに、若い女が迷惑をかけたら面倒だし、目を付けるのも無理ないか。
「わかりました」
「……で、あんた。何をしようとしていたんだい?」
「晩御飯づくりです」
「それか?」
「これです」
中年女性の前にカップラーメンを掲げると、再び中年女性は額に手を当て唸る。
「ちょっと、うちに来なさい」
「え?」
「え? じゃないよ! まったく。若い子はすーぐ出来合いの物やらカップラーメンやらに頼るんだから!! ほら、いらっしゃい!!」
中年女性……もとい、大家さんはそう言うと、強引に私の手を取る。私は慌ててフライパンとカップラーメンを置き、部屋の鍵を閉める。大家さんはぶつぶつと。
「ご両親はいったい何を考えて……可愛い娘がどうなっても良いってのかいまったく……」
と言い続けている。どうやら私のことを心配してくれているみたいだ。大家さんに手を引かれながら私は。
「お、おかまいなく?」
と言うと、大家さんが眉を吊り上げ。
「あたしが構うんだよ!!」
と怒られてしまった。そうして連れてこられたのは、アパートの目の前にある古びた一軒家。二階建てであり、外壁がぼろぼろになっている。家を囲むように塀が立っており、そこには表札が掲げられている。その表札には『篠宮』と彫られていた。
「今日はおでんだよ。あんた、好き嫌いは?」
「インゲン豆みたいな触感が変わったものは苦手ですが、食べられないものは一切ないです」
「なら大丈夫だね! 最近の子にしちゃ偉い方だ」
大家さんはそう言うと、自身の家の扉を開く。
「ようこそ、しのみや荘へ。まったくこんなボロアパートに来よって、あんたも不幸だねぇ!」
自分でボロって言うのか、私は口から出かけた言葉を何とか呑み込んだ。
つづく
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