其の四

『鳴無小夜の本は年齢不相応に薄い。最近は厚みが出てきていても、まだまだ薄い。 そして、小夜と出会った時より前のページは、判別不可能なくらい、真っ黒だ。』


 退院するまでに私は約一週間。小夜は一か月ほどを要した。私はゴルフクラブを脇腹にもらったくらいでそこまで重傷ではなかったため入院日数は短かったのだが、小夜は肋骨の治療や、元々ついていたあざの完治なども含めていたため、それなりに退院が遅れた。

 さすがに小夜が入院している間は、公園に行っても誰もいなかったので、おとなしくバイトや家で受験勉強に勤しんでいた。その日々はあまりにも平穏だったため、ついこないだまで発生していた小夜関連のあれこれがまるで遠い夢のようだった。

 あえて、あえて変化を上げるのであれば、由香のスキンシップが少々激しくなってきたこと……だろうか。彼女は昔から私に執着しているが、今回の一件でさらに執着することを決めたらしい。学校ではほとんどの時間を私と過ごしている。由香は私とは違い、友人が多数いるため、「あんまり私が由香を奪っても申し訳ないよ。友達と遊んできなよ」とやんわり断ろうとしたら、壁へと追いつめらた。ここ数か月で最大級の貞操の危機を感じた。

 そんな私は、例の公園でゆっくりとベンチに腰を下ろし、空を見上げる。秋は通り過ぎて、もうすぐ冬。私が腰を掛けているベンチもこれでもかと冷え切っている。

 このままおしゃべりを続けていると、小夜が身体を冷やして、風邪ひいちゃうから、別のところでおしゃべりしないと、か。

 私がそんなことを考えていると、目の前に見慣れない小動物を思わせる可愛らしい女の子が立っている。小夜と同世代だろうか、伏し目がちで水色のランドセルを握りしめている。服装をよくよく見てみると、見慣れた制服。


「あれ、小夜の知り合い?」


 思わず私はそう声を掛ける。

 しまった。見ず知らずの人がこの光景を見たらどう思う? 不審者? 小学生にかつあげをする女子高生? いずれにしても好印象とは言い難いだろう。

 すると、目の前の女の子は伏し目がちのまま、私の元へと近寄ってくる。しかも結構な速度で。短髪で可愛い耳が覗く黒髪が小さく揺れ、私の鼻先、三十センチまで接近する。

 そして。


「あ、ありょ!!」


 女の子は噛んだ。それはもう盛大に。

 私は面食らって、コメントすることもできなかった。というか、なんて言うのが正解なんだこれは。私が柄になくオロオロしていると、女の子の瞳にじわっと涙が滲む。

 やばい。これはまずい。


「わかった。わかった!! お姉さんが悪かった!! 急に声を掛けてごめん!!」


 そう言って、私はなるべく頑張って笑い、女の子の頭を撫でる。女の子はビクッと身体を動かし、警戒心をあらわにしている。そして、私は女の子の頭から手をどかすと同時に、頭の上の本をかすめ取る。

 これは……本で良いのか? ただでさえ珍しい縦開きで、リングで閉じられている本。見た目だけならメモ帳と言っても良いだろう。厚さはそれなり、良くも悪くも平凡な厚さだ。小夜のように異様に薄くも、由香のように異様に厚くもない。


「うぅぅぅっ!!」

「待って、マジで泣かれるとお姉さんの尊厳がやばいから!! そうだ!! ジュース!! ジュースいる!?」

「睡眠剤を仕込まれるから嫌です!! 変なことされてしまいます!!」

「そんなことしないし、やっぱませてんな小学生!?」


 そんなことを言いながらも、私は手元の本? メモ帳? に目を落とす。


 このお姉さんは私の敵だ。鳴無さんを誑かす敵なんだ。

 私が一番最初に鳴無さんの魅力に気が付いたのに、私が最初に鳴無さんに声を掛けたのにあとから手柄を横取りにされ、あまつさえ、鳴無さんととても仲良くしているという。鳴無さんに直接聞いた。

 そんなのずるいよ。ずるすぎるよ。大人がやることなんじゃない。

 鳴無さんがどこか遠くを見ている時だって、私はとても可愛いって思っていたし、例えどんくさくたって、先生の質問に答えられなくたって頭が良いって知っていたもん。

 それなのに、それなのに!! このお姉さんに出会った? 時から鳴無さんは人が変わったみたいに魅力的になって、あっと言う間にクラスメイトの中でも人気者になってしまったし、私なんかじゃ、届かない存在になってしまった。私が、私が最初に見つけたのに……っ。

 こんな、こんな急に私の頭を撫でてくる……しかも気持ち悪い笑い方をする不審者女子高生に鳴無さんは……!!


 私はそっと本を返す。目の前の女の子……おそらく小夜のクラスメイトはおどおどしながら私を見ている。本の内容を読む限り、私はこの子の中では高校生の不審者と思われているらしい。いや、まぁ確かにこの年齢差だと、不審者だと思われても仕方ない……のか? あと気持ち悪い笑い方する不審者女子高生はシンプルに傷つく。


「鳴無さんに!! 変なことを教えないで、く、くだしゃい!!」


 すごい怖がっているのに、私に向かってそう言い放つ。いや、ものすごい居たたまれない気分になるんだけど。まるで私がこの子をいじめているみたいだ。


「へ、変なことって何かなー?」


 私は慣れない笑顔を貼り付けて、女の子に質問を投げかけるが、女の子はビクッと身体を跳ね、ファイティングポーズをする。……かなりへっぴり腰だが。


「て、てってーこーせんです!!」

「徹底抗戦って」

「わ、わたしが! 最初に仲良くしたかったのに!! みんな、鳴無さんが接しやすくなったせいで、先にみんなが鳴無さんと仲良くちゃったの!!」

「それは!! ごめん!!」

「お姉さん。こんにちわ。勅使河原さんもこんにちわ」


 これは神の慈悲か、私の背後から、そんな能天気な声が聞こえる。背後に振り向くと、決めポーズをとっている小夜の姿があった。退院して日にちは経ってはいないが、とても元気そうでなによりである。しかし、小夜は私と泣きそうになっているテシガワラちゃん? を交互にみると、急に険しい顔になる。


「なぁお姉さん。これは警察に通報すればいいのか?」

「違うよ?」

「そうか? 状況的に、お姉さんが勅使河原さんをいじめているようにしか見えないが? このランドセルについてるブザーを引き抜けば、いくらお姉さんでもしょっぴけるぞ?」

「だから、違うんだって」


 ランドセルについている防犯ブザーを拳銃のように構えながら、小夜が私を威嚇するように言う。何とも厄介な状況になってしまった。私の目の前には、半泣きでおどおどしている少女。真横には、防犯ブザーを構えている少女。そして、高校の制服に身を包んだ私。

 絶対的に不利では……!?


「勅使河原さん、このお姉さんにいじめられたんだな。もう大丈夫。この鳴無小夜の手にかかれば、お姉さんも司法の力でちょちょいのちょいだぞ」

「国家権力の犬め……!!」

「利用できるうちは利用してやる。子供なりの反逆だよお姉さん」

「理不尽がすぎる!!」


 私と小夜がそんな言い合い? をしていると。


「あ、あの!!」


 私の横で半泣きになっているテシガワラちゃんが今までで一番の大声を上げた。急に大声を上げるものだから、私はびっくりして、身体を浮かせた。すると、小夜もびっくりしたのだろう。驚きで身体を浮かせた……。

 直後。


「あっ、しまった」


 ビーッ! ビーッ! ビーッ! と言うけたたましい音が、小夜の手の中から、発生する。


「ちょ……!?」

「ふむ、困ったな、お姉さん。国家権力が飛んでくるやもしれんな」

「止めて! 止めて! 私が逮捕されるのはまぁしょうがないにしても!! それは近所迷惑になる!!」

「なるほど。罪を認めるのであれば、この防犯ブザーを止めることもやぶさかでない」


 そう言って、小夜は騒ぎ続ける防犯ブザーを何回かくるくると回す……しかし、様子がおかしい。


「ふむ。止め方がわからぬ」

「お馬鹿……!!」

「お馬鹿とは心外な。これでもこの前のテストは百二点だったんだぞ?」

「満点越えてる!! じゃなくて、小夜!! その防犯ブザー!! パス!! パス!!」

「ランドセルごとぶん投げることになるがよろしいか?」

「あぁ、もう!! 面倒くさい!! 小夜ごと持ち上げるからね!!」

「なんと」


 私は小夜ごと持ち上げ、小夜をベンチの上に座らせる。そして、防犯ブザーを確認する。周りには防犯ブザーの音を聞きつけたのだろうか、周辺の住民がわらわらと寄ってきている。


「おお。最近の日本は冷たい国になった、ご近所付き合いが減りその冷たさが、子供たちの成長を著しく妨げているとまことしやかに囁かれていたが、案外、人情があるんだな。ご近所さんがたくさん来てくれているぞ」

「人情じゃないよ……!! 単なる好奇心と文句を言いに来ただけだよ……!!」

「信じる心はかくも悲しきことかな。日本の未来は真っ暗だな、お姉さん」

「日本の未来より、私の未来の心配をして!!」


 そんな問答を繰り返していると、何とか、防犯ブザーの止め方を目途がつく。小夜が握り締めていた、ピンをもらい、防犯ブザーの穴に差し込む。

 すると、あれだけ騒いでいた電子音の獣はやっとこさ満足したのか、おとなしくなる。私は止まったことに安堵し、しかしすぐに周りの人間に説明しないといけないのかと言う絶望の溜息を漏らす。


「ふむ。防犯ブザーはしっかりと作動するみたいだったな。得るものはあった」

「…………小夜。今日は抱き着くの禁止」

「すまない。心から謝罪する。大変申し訳ない」


 こいつ。

 私は再び溜息をつきながら、立ち上がる。ご近所さんがしげしげとこちらを見てきているのがわかる。私はそちらに向かって歩こうとした瞬間。テシガワラちゃんが私に向かって突進する。


「お姉ちゃん!! 今日は、どんな遊びしてくれるの?」


 正直、びっくりした。あまりにもびっくりしたので、咄嗟にテシガワラちゃんの本を奪い、中身を読んでしまった。するとそこには。


『遊びたい演技!! 遊びたい演技!! 私のせいで人が集まっちゃったから……!!』


 と書かれている。

 え、演技?


「私ね、私ね!! かくれんぼしたいの!! 良いよね!?」


 その言葉を聞いて、私はぴんと来る。手元の本には……。


『か、かくれんぼするフリをして、逃げたい……!!』


 と書かれている。なるほど、頭が良い。


「わかった、お姉さんが鬼やっちゃうぞ!!」

「む、それはよろしくない」


 すると、むすっとした表情の小夜が割り込んでくる。何故今のタイミングで……? しかし、何だか様子がおかしい。小夜は自分の頭を触り続けているのだ。

 もしかして。

 私は小夜の本を取り、中身を読む。そこには現在進行形で黒が走っていた。


『ここから離脱したいのであれば、かくれんぼを口実に、ここから別の場所へ移動した方が良いと思う。大変不本意だが、私の親戚と言うことで通そう。勅使河原さんの演技も長くはもたないだろうし』


 私は小夜の目を見ると、小夜は涼しい顔をしながらも、小さく頷いていた。


「勅使河原ちゃん。とりあえずかくれんぼするにも、ここだと狭いから、もっと広いところに移動……しよっか? 小夜もそっちの方がいいよね?」

「あぁ、恵里衣お姉さんの言うとおりだ。叔母さんの言葉は絶対だからな」


 おばさん。と聞こえて一瞬面食らったが、すぐに小夜のノートで、字が違うことを悟る。女子高生でおばさん呼ばわりは流石にきついものがある。

 勅使河原ちゃんは小夜と私を交互に見て、「うんっ」と元気よく返事をする。目元がぷるぷるしている。それに、顔全体が真っ赤になっている……演技もそろそろ限界か。私は、そっと小夜と勅使河原ちゃんの手を握り、公園の外へと向かう。大きな公園と言えばどこだっけ、そんなことを考えながら。すると、ちょいちょいと私の左手をつつく小夜。何事かと隣を見てみると、サムズアップをしている。

 私に任せろ……かな。

 私は小夜の指示に従って動くことにした。



 しばらく歩いていると、そこは大きな公園……と言うか、ベンチと机のセット以外何もない、大きな原っぱがあった。そこは小夜が住んでいたタワーマンションの近くであった。


「前は遊具もあったんだが、どうやら危険だからと撤去されたみたいだな。命の危険があるとは言え、遊び道具を撤去されると、寂しいものがあるな」


 そう言って、小夜は大きく伸びをする。どうやら小夜も小夜なりに緊張していたみたいだ。


「もう大丈夫だぞ、勅使河原さん。全力疾走で逃げても誰も咎めない。平和的解決だ」


 小夜がそう言うと、先程までにこにこと笑う演技をしていた勅使河原ちゃんの表情が一気に崩れ、半泣きになる。なんだろう。何もしていないのに、物凄い罪悪感が。


「し、心臓がっ、止まるかと思った……」


 そう言いながら、勅使河原ちゃんは地面にへたり込む。そんな様子を見て、小夜は。


「災難だったな」

「小夜のせいでしょうが、こらっ、こらっ」

「ほっへはやめはまへ」


 私が小夜の頬をぐにぐにといじっていると、勅使河原ちゃんはふらふらと立ち上がり、砂ぼこりを払う。


「きょ、今日のところはここまでにしておいてあげます……!!」

「本当に、無理しないでね? いや、冗談抜きで」


 私がそう言うと、勅使河原ちゃんは一瞬意外そうな表情を浮かべてたが、すぐに表情を引き締める。


「勅使河原向日葵(てしがわら ひまわり)!! 絶対にあなたから鳴無さんを救って見せますからね!!」


 そう言って、彼女は水色のランドセルを握りしめ、走り去っていった。

 何だろう。この、罪悪感が拭いきれない感じ。

 私は深い溜息をつき髪の毛をガシガシと掻いていると、軽い衝撃が腹部を襲った。目線を下に向けると、そこには小夜が埋まっていた。


「えへ、恵里衣お姉ちゃん」


 二人きりになったからだろうか、小夜が私のお腹に顔を埋め、ぐりぐりと頭を押し付けている。手はしっかりと私の腰に回っており、逃げられないようにしている。見た目は物凄い事案の匂いがするが、仕方ない、うん、これは仕方ない。

 私はそっと、小夜の頭を撫でる。すると、さらに力を込めて私に抱き着く。

 小夜の身長は、概算だが140cmほど、私は前回の身体測定の時点では、165cmだったはず。何回か小夜のことを抱えたことがあるが、びっくりするくらい軽い。痩せ型……を通り越して、食べなさすぎだと思う。

 まぁ、小夜の家庭環境的に、満足に食事するのも難しかったと思うが。そんな小夜は私のお腹から離れると、近くのベンチに向かって私の手を引く。どうやら、座って話をしたいらしい。


「わかった。わかったから、そんなに引っ張らないで」

「今日は、学校で不思議なことが起こったんだ。それを恵里衣お姉ちゃんと共有したくてな」


 そう言って、小夜は私に向かって笑みを向ける。とても自然で可愛らしい笑みだ。私も自然と頬が緩む。すると、小夜は首を傾げながら、ベンチに腰を下ろす。


「恵里衣お姉ちゃんって、笑うのが苦手なのか?」

「え」

「いや、気分を害したら、申し訳ないのだが……、無理して笑う時と、自然に笑う時とで落差が激しくてな」


 小夜はランドセルを机の上に乗せながら、そう言う。そんなに笑うのが下手だったか私。


「その、何が言いたいのかと言うとな? 私といる時は、無理して笑わないでほしい……」


 小夜はそう言って、私の瞳を見る。……どこか由香を彷彿させる視線だった。私はその視線を直視できずに、目を逸らす。


「善処します」

「恵里衣お姉ちゃんの本当の姿を私は知りたいからな」


 慌てて目線を戻すと、小夜は決めポーズを決めていた。その顔は真剣そのものだった。思わず私は小夜の頭を撫でる。小夜も目を細め気持ちよさそうな表情を浮かべている。

 すると、私の背後から。


「うわっ、友達いないからって、小学生とつるんでる」

「マジだ。普通にきもっ……ロリコンかよ」


 そんな声が聞こえた。私は冷水を浴びたように全身が冷たくなる。心臓が、バクバクと鼓動しているのがわかる。ゆっくりと後ろを振り返ると、そこには、クラスメイトの姿があった。名前は……やばい、覚えていない。

 確か、片方は帰宅部、片方は生徒会だったか。それ以上のことは正直覚えていない。私は思わず小夜の頭から手をどける。この子を巻き込みたくない。


「お嬢ちゃん? こいつあぶねぇよ? 女の子大好きだからさー」

「そうそう、手を出されちゃうよ?」


 そんなことを言われる。女の子大好き……どこでそんな噂を聞いたのか。尾ひれがつきまくってて元の噂すらもわからない。おそらく、あのバレンタインデーのことなんだろうけど。

 私は慌てて小夜の方をちらりと見る。すると、小夜は片方の眉毛を上げて、訝し気な表情を浮かべている。何か弁明しようと口を開こうとした時だった。


「ふむ。悪口とはなかなか高カロリーな生活を過ごしているな」


 と小夜が口を挟む。私は、慌てて小夜の口を塞ごうとしたが、小夜は器用に私の手を避ける。予想外の攻撃に、クラスメイトは驚いていた。


「あまりにも非効率的な上に、おそらく、その口ぶりだろ噂程度の信憑性だろ? そもそも本当にお姉さんが手を出していたら、接触してこないだろうしな」

「この……生意気な」

「生意気上等。そもそも煙草の匂いをぷんぷんさせて、何を言っているんだ貴女は」


 その言葉に私もクラスメイトも驚く。本当に、本当に、言われみると確かに本当に微かに煙草の匂いがするような、しないような。


「吸い方が下手ってやつだな。学校の図書室に置いてあった小説で読んだことがある。肺にまで煙を入れずに吐き出しているのだろう。あと、衣類の匂いにも煙草の匂いと言うのは付着するものだぞ? 貴女の服からはその煙草の匂いが香ってくる。あまり煙草の匂いが付かない銘柄を吸っているみたいだが、誤魔化し切れてないぞ?」


 そして、一呼吸置き、こう付け足す。


「私はパパが煙草を吸うからな。匂いも温度もよく知ってる」


 小夜は、それだけ言うと、もう一人のクラスメイトに顔を向ける。


「貴女は男性とうまくいっていないみたいだな? その鞄につけているぬいぐるみ、私の学友がそれをつけてるぞ、『二つセットで』な。あとその皮の腕輪、それもよくカップルがつけているものだろう。名前も刻んであるみたいだが……男性の名前に多く使われている名前だ。おおよそ女性にはつけない。万が一君の名前だったとしても、自分の名前を腕輪をつけているのは少々不自然だ」

「だ、だからって、なんでうちが彼氏とうまく言ってないって言うのよ」

「あぁ、それは単なる勘で、カマをかけた。すまんな」

「なっ……!?」


 小夜は小さく息を吐きながら、呆れたような表情をする。それはとても挑発的であり、今まで見たこともない表情だった。


「まぁその様子を見る限り、本当にうまくいっていないんだろうな。感情で物事を片付けようとするから男にも他の女ところに逃げられるんだ」

「なんで、なんであんたそのことを……!?」

「すまんな。これも勘だ」


 涼しい顔で小夜はそう言う。いい加減止めないと、私は小夜のことを止めようとするが、小夜はそんな私を手で制する。


「自分の厄介事も精算できていないのに、人の悪口や悪評を流布するなんて、大した趣味じゃないか。誇っていいぞ?」

「て……めぇ!!」


 その言葉と同時に私は咄嗟に小夜を庇う。退院はしたけど、またいつ肋骨が折れても不思議ではない。しかし、小夜に掴みかかろうとしたクラスメイトをもう一人が抑えつける。


「待って!! まずいって!! さすがに手を出したら……!!」

「……くそっ」

「人にやられて嫌なことをするな」


 小夜はクラスメイトたちを冷ややかな目で見つめながら、続ける。


「道徳の時間で習わなかったか?」


 そう言われると、クラスメイトは舌打ちやら、捨て台詞を吐きながら、どこかへと行ってしまった。

 明日、どうやって言い訳しようかな。

 そんな場違いなことを考えていると、腕の中の小夜の様子がおかしい。虚空を見つめて、ぼぅ……っとしている。それは、初めて小夜と会った時みたいで……。


「まさか」


 私は小夜の本を掴み、中身を見る。大学ノート風である小夜の本、その最新ページは。

 黒一色だった。


「……小夜!! かぼちゃプリン!!」


 私がそう叫ぶと、次のページにかぼちゃプリンの文字が走る。直後、小夜はハッとした表情をする。


「……すまない。少々取り乱していた」


 どうやら、落ち着いたらしい、次のページに小夜の思考が流れ始める。そこには『私としたことか』『また迷惑をかけてしまったか』『かぼちゃプリン』と文字が並んでいた。私はノートを手放し、そっと小夜を抱きしめる。


「ごめん。小夜に戦わせちゃった」

「いいや、あれは私の意思だ。きっと恵里衣お姉ちゃんに止められても、ああなっただろう」


 小夜は私の首に手を回し、引き寄せる。……なんだかいつもと立場が逆転している、そんな気がする。


「恵里衣お姉ちゃんも無理を通しすぎだ。私みたいにいつか破綻してしまうぞ」


 そう言って、小夜は私の首元に顔を埋める。少々くすぐったいが、悪い気分ではない。


「破綻、か」



「もう、してるよ。とっくに」




 三日後。登校直後始業前。

 さすがに小学生に言い負かされたのが効いているのか、あれから特に私の悪評は出回っていなかった。より正確に言えば、表立って出回っていない、か。私が感知しえない場所で悪口が広がっている可能性は全然否めない。それこそ、SNSのグループとかで言われていたら、把握しろって方が難しい。

 もちろん、無差別に本を読めば真相がわかるとは思うが……そこまで手間暇をかけて、犯人捜しはしたくない。


「はよっす~!!」


 急にそんな大声を上げて、入ってきたのは、私の友人の魚住由香。少々伸びた髪の毛を揺らしながら、教室の中を歩く。

 ……待って、なんか嫌な予感がする。急いで私は由香の後を追った……が、結論から言おう。

 間に合わなかった。


「おっはよっす~、てめぇ、恵里衣に悪口言ったんだってな?」


 そう言うと、由香はクラスメイトの机を蹴り飛ばす。机は綺麗な放物線を描いて、後ろの壁に激突する。幸い、怪我人はいなかった。


「由香!! なんてことしてんの!!」

「あァ? 何だ恵里衣か。小夜から聞いたぞ? こいつら……あー、坂上と本山がお前の悪口言ってたんだってな」

「待って、待って、待って、待って!! 悪口なんて昔からじゃん!! なんでそんなに怒ってんの!?」

「今までのは噂の根源を見つけることができなかったから、放置してたんだよ。今回の噂は『初めて聞いた噂』だ。こいつらが噂の発生源な可能性がたけぇんだ……よ!!」


 そう言って、由香は近くの椅子を片手で持ち上げ、クラスメイト……坂上さんと本山さんに向かって投げつける。二人は危機一髪しゃがんで回避するが、またもや、教室の後ろの壁に激突する。轟音が教室に響き、椅子が勢いよくバウンドする。よくよく見てみると、後ろの黒板にひびが入っている。何て馬鹿力。


「なァ? 今回もウ・ワ・サ、作ったんだよなぁ? ん?」


 由香は坂上さん(小夜に煙草がばれたほう)の襟を掴み、空中に持ち上げる。ワイシャツがミシッミシッと音を立てる。


「正直に言ってくれりゃあ、内臓掻きまわすだけで許してやるからよ?」


 坂上さんは口をパクパクさせているが、うまく言葉にできないらしい、音らしい音は発声していない。その事に業を煮やしたのか。さらに由香は坂上さんを持ち上げる。


「あ? なんか言えよ」

「由香!! そのままだと!!」


 死んでしまう。そう言おうとした時、由香がこちらを振り向いた。その瞳は数年前に見た、かつての……。


「過去に人を一人殺したんだ。二人も三人も大した差じゃねぇだろ」


 由香の双眸の瞳孔は開ききり、目の光がなくなっている。かつて、由香が一番荒れていた時のあの目だ。私は、すぐに言葉を返す。


「違う。何回も言っているけど、由香は誰も殺してない。だから、坂上さんを下ろして、ね?」


 しかし、由香は首を振って、坂上さんの方へ向き直る。坂上さんは足を動かし、何度も何度も由香を蹴っているが、由香は身じろぎもしない。

 おそらく、首が絞まってきているのだろう。段々と、坂上さんの顔が赤くなっていっている。このままだと、紫色になってしまうのも時間の問題だ。


「こんの……変態サディスト!!」

「……恵里衣? 急に何褒めて……」


 由香が油断した瞬間に、私は由香の首筋を爪を立てて摘まむ。

 すると。


「ひゃん!?」


 と由香は甲高い声を出して、坂上さんを取りこぼす。坂上さんはゲホゲホと物凄い勢いで噎せこんでいるが、どうやら、無事みたいだ。

 それと同時にクラスが変な雰囲気になる。先程までは糸を限界まで張りつめたような緊張が流れていたのだが、今は困惑の色が濃い。誰もかれもがどうしたら良いのか、何と言えば良いのか、わかっていないみたいだった。


「恵里衣、てめ、こら、てめ」

「……許して?」

「許せるか~~!! オラァ!!」


 由香がそう叫んだ瞬間。私は教室から飛び出す。一難去ってまた一難とはまさにこのことか。まだまだ生徒が多い廊下を私は走り抜ける。皆訝し気な表情をしていたが、後ろから接近してくる由香に圧倒され、綺麗に道を譲ってくる。


「待ちやがれ~~!!」


 そう叫ぶ由香。どうやら、いつも通りの由香に戻ったみたいだが……、物凄い速度で追いかけてくる。その姿はまるで肉食獣。とすれば、あれか、私は草食動物か。ははっ、笑えない。喰われる程度で済めばいいなぁ。


「ひゃー……小夜の時も思ってたけど、もっと体力つけたほうが良かったかな……」


 そう言いながら、私は角を曲がり、目の前に広がっている階段を確認すると、階段の手すりを滑り台の要領で滑り降りる。普通に降りるよりかは早いはず。由香はどこにいる私が後ろをちらりと見た瞬間。由香は空を跳んでいた。そっかー……自由落下の方が早いかー。私が床に足をつけるよりも先に、手すりの終着点へと由香は身体を割り込ませ、私をキャッチする。そして、そのまま踊り場の壁に叩きつける。

 ……叩きつけるといっても、かなり優しくではあるが。


「追い詰めたよ~? 何か弁明は?」


 にっこにこと良い笑顔を浮かべながら、由香はそう言う。私は何とか思考を巡らせ、何とか知恵を絞ろうと必死になる。


「お、お昼、奢るから!! ほ、ほら! パン……とおにぎり!!」

「ダメ」

「べ、勉強! 勉強教えるよ!! 数学!! 今回ピンチなんでしょ!?」

「気分が乗らない」


 やばい、万事休す。目の前の肉食獣は寒気がするほどに良い笑顔でこちらを見てくる。


「仕 返 し」

「公衆の面前で何てことをしやがるつもりですか!? 待って由香!! ちょっと!! まっ……!?」


 わたしは、ゆかさんに、3かしょ、くびを、かまれました。



つづく

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