其の三

『本の表紙は変わることがある。これは私のイメージによるものなのか、そうでないのかは、知る由もない。』


 小夜が大泣きしてから次の日、小夜に変化があった。

 何と言うか……。


「お姉さん。これが組体操の神髄だよ」

「組んでない、組んでない、それは抱き着いているだけ」


 小夜はしっかりと私に甘えるようになった。今はベンチに座っている私のお腹に埋まるように抱き着いている。そのこと自体喜ばしいというか、年相応になったというか。


「なんと、くんずほぐれつが組体操の真髄だと、学友の女の子に教えてもらったのだが」

「……最近の女の子はませてるなぁ」

「大人なお姉さんから見れば児戯に等しいと思うがな」

「私はそこまで大人じゃないよ……って、あれ? 小夜、ここどうしたの?」


 お腹に抱き着いている小夜の頭を撫でているときに、ふと頭にこぶが出来ている事に気が付いた。一瞬だけ、「まさか」と考えてしまったが、何でもかんでも疑うのは違うかと少し反省をする。


「あぁ、これか? ママに頭を目覚まし時計で殴られた時にできてしまったたんこぶだな」


 前言撤回。ろくでもない大人だ全く。早いところ、何とかしてあげたいところなのだが……。


「大丈夫だ。お姉さんにこうして甘えることで痛みは緩和できる。我ながら単純だよ」

「……? 甘える?」

「しまった。組体操!! 今のは忘れろお姉さん」

「ごめんって」


 しかし、今まで意識していなかったからか、全然見つけられていなかったけれど、小夜の身体を見てみると、あちこちに傷が見え隠れしている。しかも見えるような部分はあまり怪我をしていない。現に、先程見つけたたんこぶも頭を直接触らないと、わからないような位置になる。

 世間体……と言ったところか。しかしやり口に陰険さを感じるし、躾の範囲を超えている事は自覚しているんだなと感じる。


「しかし、人ってこんなに暖かいものなのか。驚くくらい心地が良いな」

「……そう? 私どちらかというと体温が低い方なんだけど」

「ふむ、言われてみると確かに、学友の女の子の方が暖かったな」

「……クラスメイトにも手を出したんかい」

「手は出してないぞ、頬を差し出しただけだ。何故か顔を真っ赤にしていたがな」

「小夜、あなたは黙ってりゃ美少女なんだから、急に顔が良い女子が迫ってきたらびっくりするでしょ。自覚を持て自覚を」


 私がそう言うと、小夜は首をフクロウのように捻り、ものすごい顔をする。

 いや、本当に何だその顔、見たことないぞ。


「寝言は寝て言おう? お姉さん」

「なにおう」


 そう言って、私は小夜の頬を引っ張る。「私はチーズではないぞ」と小夜に言われながらも、何度もぐにぐにと小夜の頬を伸ばす。

 今まであまり言及はしていなかったが、鳴無小夜はかーなーり、美少女だ。本人の年不相応かつ特殊すぎる言動に惑わされがちだが、人形のように完璧なパーツを取りそろえた女の子だ。八つ上の私が劣等感を感じてしまうくらいには可愛い。

 ……本人に伝えたところで、先程の言葉が返ってくるのだが。


「残念美人まっしぐらかぁ」

「お姉さん。なんか失礼な物言いをしてないか?」

「気のせいだよ。残念美少女」

「残念と言う部分は非常に不服だぞ。それに美少女は寝てから言ってほしいものだ」


 ……あくまでも『美少女』は認めないようだ。

 何度か美少女のほっぺを堪能した後、私は小夜を解放し、小夜と目を合わせる。小夜もそれに倣ってか、私としっかり目線を合わせる。


「ねぇ小夜。もし、もし本当に無理な時が来たら、ちゃんと電話して。これが私の電話番号」


 そう言って、小夜に自分のスマートフォンの電話番号が入ったメモを渡す。もちろん、現実に存在しているメモだ。小夜はしばらく、じーっとメモに目を通し、小さく頷く。


「うん。覚えた」


 え、覚えた?


「いやいやいや、忘れちゃうでしょう?」

「そんなことないぞ? 私は覚えていられるんだ。本当だぞ? 記憶の本にでかでかと書いてやった」


 小夜はそんなことを言う。

 本当か……? 訝しんだ私は、小夜の大学ノートを手に取り、ページをめくる。すると……。

 見開き二ページに渡って、私のスマートフォンの電話番号が書かれていた。


「本当にでかでかと書いてある……」

「ここ最近、お姉さんと話しているうちに本の書き方がわかってきたからな」


 そう言って。くるくると回り、決めポーズをとる。本の書き方がわかる……か。


「頭良いんだね。小夜は」

「そうか? 両親にはお前は出来損ないだ言われることが多いが」


 小夜が少し寂し気にそう言う。私はたまらず、小夜をそっと抱き締める。抱き締められた本人は「わぷっ」と声を漏らし、しばらく身を捻っていたが、すぐに諦めたのかそのまま私に抱き着いた。



 夕方。小夜を家まで送り、私は家路につく。相変わらず自宅に戻るのは苦痛だし、両親ともあれから顔を合わせていない。幸い、洗濯やご飯などで困ることはなく、私も使い終わった食器を洗うなど、余計な仕事を増やさないように努力していた。

 ダブル不倫であったり、自宅がラブホテルになっていたショックと言うのは、なかなか払拭することはできず、未だにモヤモヤは残っている。

 そんなこともあってか、両親に頼るのは本当に嫌だったし、今だってあの二人に会うのも抵抗がある。しかし、今のままだと小夜がいつ壊れてしまうかわかったものではない。

 私の苦しみと小夜の苦しみを天秤にかける。しかし、その天秤はあっという間に小夜の方へと傾く。……答えは最初から決まっていたようなものだった。

 家に到着し、そっとダイニングへと向かう。ここも、情事の舞台になっていたことを知ってしまっている身としては、かなりやるせない。そこには専業主婦である母親がキッチンで料理をしていた。

 心なしか、元気がないような、そんな様子だった。

 私は吐き気を催す。見ているだけでも、口の中が酸っぱくなり、お腹は変に唸り、頭がカチカチと目の前に星を瞬かせる。正直言ってとても辛い。辛いが……。


「お母さん」


 私は母親に向かってそう声を掛ける。すると、母親は肩を震わせて、こちらにゆっくりと振り返る。その表情は喜んでいいのか、心配すれば良いのか、わからないといった表情だった。


「恵里衣……あなた」

「お母さん。相談したいことがあるんだ」


 私は母親の言葉を遮り、自分の言葉をかぶせる。今はできるだけこの人の声を聞きたくない。聞きたくないけど。


「私の、友人が両親から虐待を受けている……の。まずは何をするべきなのか、教えてほしい」


 そんな言葉に母親は不思議そうな表情を浮かべる。……それも仕方がないか。


「正直、今はお父さんともお母さんとも喋りたくないし、顔も見たくない。……けど、小さい子が虐待されるのは、私は耐えきれない」

「恵里衣……? あなた一体何を?」

「……こんなこと言うのはおかしいと思うのは当たり前だと思う。でも」


 私は拳を握りしめ、声を絞り出す。ストレスからだろうか、胃がキリキリと痛み始める。


「あの子を助けたいから……!!」


 私は目も合わせたくない母親に目線を合わせる。母親は相変わらず狼狽えているようだったが。すぐに、表情を戻し。


「わかった。詳しく聞かせて頂戴。虐待……って一体どうしたの?」


 私に向かってそう投げかけた。




 そのあと、話の途中で家に帰ってきた父親と母親に小夜のことについて相談した。正直、とてつもなく大変だった。

 両親と一緒にいるだけで相当なストレスになってしまっているらしく、私の身体は何回も拒否反応を見せていた。十五分おきくらいに胃酸がこみ上げてきて、トイレに駆け込んだのは何回だったか。自分の本を確認しないと思い出すこともできない。未だに頭は痛いし、それどころか手足まで痺れてきている。

 娘のそんな姿を見て、気が気じゃなかったのか父親も母親も小夜の虐待のこと以外は何も聞いてこなかった。だが、少なくとも自分たちが娘の不調の原因だと自覚したみたいだった。

 家族で話し合って出た結論は、外部機関に通報すること。だった。

 しかし、この外部機関と言うのもなかなか動くに動けないらしい。虐待の証拠をしっかりと取らなければ、初動が遅れてしまうだろうと父親は苦々しい表情を浮かべながら、そんなことを言っていた。

 ダブル不倫とか言う娘に対しての最大級の裏切りを絶賛展開中の二人ではあるが、『娘に手を出す』と言うのは、考えたくもないといった感じだった。

 そして、今現在の私は、度重なる嘔吐や両親との会話のストレスで自室で寝込んでいた。人生で胃液を絞り出したのも、嘔吐によって血を吐き出したのも初めてであり、まさかここまで辛いものだと思っていなかった。未だに胃がひくひくと痙攣しているような奇妙な感覚に陥っている。当たり前かもしれないが、晩御飯は食べることができなかった。

 小夜。大丈夫かな。

 そんな状態であったものの、やはり小夜のことが気になってしまう。何回もスマートフォンの画面を点灯させて、着信が来ていないか何度も確認していた。


 私が眠りについたのは、それから三時間後、午前一時のことだった。




 眠気を無理矢理抑えつけ、鉛のように重い身体を引きずり、何とか高校へと登校した私は、自分の机の上でへばっていた。一時限目から体育じゃなくて本当によかった。いや、むしろ悪いか。体調不良にかこつけて、保健室に行けたかもしれないか。

 そんなことを考えていると、目の前に男の子のような短い髪の毛をした友人……由香が私の目の前で手を振る。


「おはよっすー。ってすげぇ具合悪そうな顔してんな」

「具合悪そうじゃなくて、具合悪い」

「じゃあなんで、がっこー来たんだよ」

「…………本当にね」


 私は首だけを動かし、由香の方を見る。由香の目線が私の至る場所を観察しているのがわかる。


「具合悪い原因は両親だけど、別に何かされたわけじゃないからね」

「『本』を読んだのか?」

「この体勢で由香から本を取れたら、私はマジシャンになってるよ……目線が私の身体の異常を探してた」

「あちゃー、まーたバレバレだったか」

「バレないわけないでしょ」


 特に私は由香の本を読み切ってしまっているため、由香のある程度の行動原理を知ってしまっているというのもある。


「じゃあ、どうしてそんな状態なんだよ」

「……ここで話すのはちょっと嫌かな」

「んだよ。悪いバイトでも始めたのか?」

「んなわけあるかっ」


 私は一瞬だけ力むものの、やはり全身がだるく、すぐに机の上で潰れてしまった。


「……そんなに酷いなら、保健室行くか? 手伝うぞ?」

「…………お願いします」




 保健室。

 高校生になってから、保健室に行ったことがあっただろうか。もしかしなくても、三年目にして初めてのことかもしれない。身体測定などは、保健室で行うことはなく、全く別の場所で行っていたし、運動部ではなかったので、少なくとも怪我をする機会などほぼなかった。特段体調を崩しやすいタイプでもなければ、保健室でサボるようなタイプでもなかった。

 そんな初めて見る保健室に、私は目を見開きながら、辺りを観察する。いくつかのベッド、清潔そうなカーテン。薬品の微かな香り……。体重計や身長計、それにインフルエンザ予防接種ポスターなど、小学生、中学生時代と大して変わらないラインナップに私は何故か興奮を覚えていた。


「恵里衣。部屋を観察してる場合かお前は」


 由香に呆れ顔でそう言われて、我に返る。しまった、私としたことか、初めての体験で、少々興奮してしまっていた。どうやら、保健の先生は今は席を外しているらしく、机の上には、『休憩中』の立て札が置いてある。その横には保健室の管理表が置いてある。……どうやら、利用者はここに記帳をするらしい。


「まーったく……、ほら、管理表には書いといてやるよ、ついでに保健のセンセにも知らせておいてやるから、ベッドで寝てろっ。幸い全部空いてるっぽいし」


 由香はそう言って、私をベッドへと連れていき、そのまま肩を掴んでベッドへ押し倒す。為す術もなく私と由香はベッドに倒れこんだ。思ったよりも勢いがついてしまったせいか、私の肩がちょっとだけ痛い。


「ほら、ちゃんと寝てろ」


 私の上に乗っている由香が私に向かってそう言う。……え、あれ。これってもしかして。


「え、添い寝……?」

「……してほしいならするけど」


 私の肩を抑えつけている由香は私の瞳をジッと見ながら、低い声を出す。心なしか由香の顔が赤く見える。それに私の肩を掴んでいる手の力が強くなった気がする。そんな由香を見た私は、小さく息を漏らし、こう言った。


「遠慮します」

「…………」


 すると、由香は私から離れベッドから起き上がる、カーテンを閉める。怒ってはいないみたいだが。


「残酷だよ。お前は。私の『本』を全部読んでんのに、知らないふりをする」


 そう言って、由香は保健室の外へ出ていってしまった。

 残酷……確かにそうかもしれない。




 由香が保健室から出ていったからしばらくすると、誰かが慌ただしく保健室に入ってくる。

 保健の先生が帰ってきたのか?

 そんなことをぼんやりと考えていると、カーテンが勢いよく開く。


「あらあらあらあら顔色相当悪いじゃない……どーしたの?」

「昨晩、血が滲むくらい胃液を吐きました……」

「じゃあ、なんで学校来たのよ全く……学校より病院に行きなさいよ」


 そう言って、保健の先生は呆れたような声を出す。


「本当ですよね……」


 私も溜息を吐きながら、そう吐き捨てる。


「なにやってんだろ、私」




 放課後。

 保健室でしばらく休んでいたため、体調は良くなりつつあるものの、やはり身体は重く、ふらふらとした足取りで帰り道を歩いて行く。私の隣にはふらふらな私を心配してくれてか、由香が手を繋いでくれている。


「病院行った方が良いんじゃねぇか?」

「病院行くほどでもないから……」

「病院行くほどに悪そうだから言ってんだよ、馬鹿」


 そう言って、由香は私の手を握りしめる。由香の手ってこんなに暖かったか。それとも私の体温が下がっているだけか?

 そんなことを考えながら、いつも通り公園を横切る。すると、いつも通りベンチの上に小夜が立っている。


「お姉さ……ん?」


 小夜が私に声を掛けると、首を捻る。そう言えば由香とは初対面だったか。由香の方をちらりと見てみると、由香は合点が言ったような表情を浮かべている。顔に「あぁこいつが恵里衣が言ってた小夜ってやつか」と書いてあるのが見て取れる。


「お姉さん、と、お姉さん」


 小夜は私と由香の顔を交互に見て、首を捻り続ける。


「ふむ、困った……お姉さんが重複してしまった。お姉さんの二乗は少々呼ぶ時に困る」

「恵里衣は恵里衣で良いんじゃねぇの?」


 思わず由香がそう声を掛ける。すると、小夜は両手を合わせ。


「なるほど、それは良い。恵里衣お姉さんこんにちわ。そちらのお姉さんもこんにちわ」


 そう言って、ベンチの上でくるくると回って、決めポーズを取る。相変わらず決めてくる。由香はそんな小夜の様子を呆れたような目で見ていたのだが、だんだんと表情が険しくなっていく。

 一体、どうしたのか。


「由香?」

「ほう、なるほど、そちらのお姉さんはユカと……ぉぉぉ?」


 小夜がしゃべっている最中に、由香は小夜の身体を制服の上から触る。そして、小夜の頭に掌を滑らせる。撫でている……ようには見えない。


「これはセクシャルハラスメントというやつか? 小学生なので、そこまで満足いただけるとは思えないが」

「小夜? どっからそんな言葉を覚えてきたの?」

「ハラスメントは今や小学生でも多少は習うぞ。まぁこれは担任にもよると思うがな」

「……最近の小学生は博識だなぁ」

「そんなこともない。恵里衣お姉さんほどの大人力があれば私たちなんぞ赤子も同然」


 そんな、いつも通りの会話を繰り広げていると、由香は小夜を抱え、ベンチから下ろす。小夜は驚いていたものの、抵抗はしなかった。


「……三か所の打撲」


 由香その言葉に小夜はビクッと身体を震わせる。

 三か所の打撲……?


「めくってないから断定はできねぇけど、腕に一か所、胸部に……おい、この熱って……、それに腹部も」

「ユカお姉さん? 急に何を言い始めるんだい? 小学生なんだ、体温が高くてもおかしくは……」

「恵里衣!! こいつの本を奪え!!」

「む、それは。よろしくない」


 小夜はそこで初めて抵抗しようとしたみたいだが、それよりも先に私が小夜の本をかすめ取る。大学ノートを開いてみると、最新のページに焦りの文字が見える。


「…………そうだよな。ここ最近の恵里衣なら『本』を隅々まで読むようなことはしねぇもんな……しかも、こいつ……『本』のことを把握してたな?」


 そう言って、さらに由香は視線を小夜に走らせる。そして、ある一点を注視する。そこは……。


「……痛かったら正直に言えよ?」


 由香はそう告げてから、小夜の胸部をそっと触る。その瞬間、小夜のノートに黒が奔る。


『痛い。痛い。痛い。でも隠さなきゃ、お姉さんにばれたくない、お姉さんに、知られたくない、痛い。痛い。ばれたくない、お姉さんを心配させたくない、迷惑を掛けたくない』


「ユカお姉さんは策士か?」


 小夜は珍しく本当に慌てたような表情を浮かべそう言った。


「こいつ……肋骨が折れてるっぽい」


 由香の言葉に私は目を見開いた。自分の不調も忘れ小夜をそっと抱き締めようとする。だが、肋骨のこともあり、躊躇ってしまう。これ以上痛ませたくない。しかし手元にあるノートには……。


『嫌だ。抱き締めてほしい。痛いけど、抱き締められないのは、もっと嫌だ』


 と書かれている。私はそっと、小夜を抱き絞める。まるで硝子細工のように慎重に抱き締めたが、それでも小夜は安心したように息を吐く。


「小夜とやら、お前、いつからだ? 息を吸うだけでも痛いだろ、それ」

「これに関しては、つい先日の出来事だな。パパが景気よくやってくれたよ。知識としては知っていたが、小学生の骨は脆かったな」

「病院は?」

「行きたいのはやまやまだが、私ひとりじゃ保険証も持ってない上に、資金もないのでね」

「……それはこっちでどうにかする。いや、しないと駄目だろそれ」


 そんな由香の言葉に小夜は黙り込んでしまう。大学ノートにはこんなことが書かれていた。


『だけど、そんなことパパもママも許してくれない』


 パパもママも許してくれない……? 一体どういうことだ。この子の親じゃないのか? 何故そんなことを……。


 すると、突然。私は何かに背中から突き飛ばされた。抱き締めていた小夜とそのまま離れてしまう。元々体調が悪かったのもあってか、私は踏ん張ることもできずに地面へとそのまま倒れこむ。

 小夜は……!?

 痛みに悶えながらも、辺りを見渡すと、そこには小夜が地面に転がりうずくまっているのが見えた。ノートは!? 私は何とか手に持っていた小夜のノートを覗き込む。


『痛い   痛い 痛い  痛い』


 小夜が痛がっている。

 私はその言葉を見て、立ち上がろうとした。しかし、全く力が入らない。すると、私の耳をつんざくほどの金切り声が聞こえてくる。


「お前はまた人様に迷惑をかけて!! こんな!! こんなみすぼらしい公園で何をしているのよ!?」


 誰だ? こんな声を上げているのは? 私は無理矢理顔だけでもあげる。私の視界に入ってきたのは……、かつて小夜を家に送り届けた時に見かけた女性。

 小夜の母親だった。


「おい、なにやってんだ!? 人を突き飛ばした挙句、娘を怒鳴り散らかすって、どんな頭してんだ!?」


 由香がそう叫ぶのが聞こえる。

 小夜のノートには、ただ『痛い』の二文字が力なく広がっているのみだ。もしかして、さっき突き飛ばされた衝撃で、折れてた箇所が悪化した……? その時、私の頭の中に悪いイメージが広がる。それは、折れた肋骨が肺を突き破っているイメージ。創作の世界だけじゃない、現実でもそれは起こりえる。過去に覗いた本にも、折れた肋骨が原因で肺に開けてしまった人間が複数人いた。

 そして、そこから広がるもっと最悪のイメージ、それは……。


「小……夜っ」


 死。

 小夜の死である。


「人の躾に口を出さないでくれる!? お前、ほら!! 立ちなさい!!」


 そう言って、小夜の母親は無理矢理小夜を立たせる。小夜は痛みで顔を歪ませ、小さく息を漏らす。はっきり言って、小夜の精神力が凄まじすぎる。ノートを見る限り、小夜は耐え難い痛みに襲われ続けているはずだ。立ち上がるどころか、返事ができるかどうかも、息ができるかどうかさえも怪しい。


「全くなんでお前みたいな不出来な子が私の子供なの!?」

「お前、本当に何言ってんだ?」


 由香の声が震え、一層に低くなる。まずい、これは、まずい。由香を怒らせてしまったら、とてもまずい。

 状況としては最悪も最悪。このまま由香を野放しにすれば、今度こそ由香が……!!


「由……香! 落ち着い……て!」

「落ち着く? こんなの見せられて落ち着けるかよ!? お前だって……」

「ユカっ、おねえさん!!」


 その時、小夜が声を絞り出して大声をあげる。……と言っても、普段の小夜に比べれば全然覇気がなく、痛々しいものだったが、由香を止めるには十分だった。


「きにするなっ、いまは、えりい、おねえ、さんっを」


 そんな小夜の言葉に由香は拳を握りしめ、歯を食いしばる。そして、振り向くと、私を助け起こそうとする。


「ほら、歩きなさい!! いつまでも幼稚園児じゃないんだから!!」


 そう言って、小夜の母親は小夜を無理矢理歩かせる。ノートには痛みを訴える言葉と私を心配する言葉が並んでいる。


「恵里衣!! くそ、最悪だ……!!」


 由香は怒りで身を震わせながらも、私のことを助け起こし、土を払い落す。私はそれでも小夜を見続けた。最後にちらりと小夜が私のことを見た……気がする。小夜のノートに目を落とすと。


『助けて』


 と書かれていた。

 私はその言葉を見た瞬間に、無理矢理身体を動かす。全身が悲鳴を上げている、しかし、そんな程度。小夜よりは絶対辛くない。


「恵里衣……はぁ、お前は相変わらずだな」


 由香はそんな私を見て、肩を貸し私を立たせてくれる。申し訳なさそうに由香を見ると、呆れたような、安心したようなそんな表情を浮かべている。


「小夜、追っかけたいんだろ? どこに行きゃあいい?」

「……ありがと、由香」

「あとで感謝のあっついベーゼをだな」

「それは、やだ」

「けち」




 由香の肩を借りながら、何とか小夜の家へとたどり着く。小夜の家は所謂タワーマンションであり、空を見上げるほどに高い。手から離してしまわないように持っていた小夜のノートは、まだ手元に残っている。


「オートロックか? ……フロントっぽいところにいるねーちゃんに言っても、開けてくれるわきゃないよな」


 由香が頭を掻きながら、そう言う。私は……、小夜のノートをめくっていた。


「何探してんだ? この建物抜け道でもあんのか?」

「…………あった」


 小夜のノートを探っていると、マンションの入り方について、やけに詳細に書かれたページを見つけた。オートロックの解除の方法であったり、どこの窓の鍵が開いているか、どこの柵のネジが緩んでいて、ごみ捨て場の時に自動ドアをすり抜けることができそう。など、様々な侵入方法が書かれている。そんな文章の末端に小さな、小さな文字で。


『お姉さんがこうやって私を攫ってくれたら』


 その文字を見て泣きそうになってしまう。……隅々まで読んでなかった自分に心底嫌気がさす。


「オートロック、決定ボタンを押してから、♯、3、5、8、0、0って押して」

「……はい?」

「これで多分自動ドア開くよ」

「マジかよ……」


 由香がオートロックを解除している時、私はわざとらしく、声を張り上げる。


「鳴無さんのお宅ですか? そうなんですよ~、家庭教師、小夜ちゃんに必要だと聞いて~、はい、親戚から、はい~」


 その直後に由香がオートロックを開き、扉が開く。私は由香の肩から離れ、何とか自力で歩いて行く。なるべく怪しまれないように笑顔で、元気よく。そして、エレベーターに乗り込み、ボタンを押した瞬間に、壁へと寄り掛かる。


「五臓六腑があふれ出そう」

「スプラッタだな、やめてくれ……なくていいや。漏れた臓物もらっていくよ」

「え、由香、狂気路線に変更したの?」

「……やっぱなし、恵里衣は生きててなんぼだわ」


 そんな緊張感のない会話を交わしながら、私たちはエレベーターで上層階へと向かう。もし、エレベーターが壊れていたら、私は動けなくなってしまっただろう。それほどまでに小夜の住んでいる家は高層にあった。

 正直、何やってるんだろうとは思っている。他人である私がここまでやる義理はないと思うし、ましてや危害も加えられた身。このまま家に帰って養生するのが正解だとは思う。だけど、やっぱり、どうしても、どうやっても、どうあがいても、小夜を助けたいと思ってしまっている私がいる。

 私はただあの子を。

 エレベーターが到着し、エレベーターフロアに足を踏み入れた瞬間、金切り声が聞こえる。それは、先程公園でも聞いた女性の声。


「立ちなさいよ!! みっともない!!」


 私は痛みも忘れ、声がする方へ駆け出す。私に続いて、由香も追いかける。

 高層マンションのためか、世間一般的なマンションとは違い、外の風景は一切見えない。橙色の照明に照らされた廊下を私は走り抜ける。すると、ある光景が私に視界に飛び込んでくる。


「本当!! なんなの!?」


 そう叫びながら、何かを振りかざしている女性と、うずくまる子供見つけた。小夜だ。

 女性は何を持ってる? 何をしようとしてる? 小夜に何をするつもりだ?

 私はただ走った、痛みを置き去りにし、もつれる足を無理矢理動かし、女性と小夜の間に割って入り、小夜を庇うように身体で覆う。その直後。


「う゛……あ゛……っ」


 激痛。脳内麻酔すらも貫通するほどの強烈な痛みが脇腹に走る。もう吐けないと思っていた胃液がこみ上げる。急いで口を逸らし、小夜にかからないようにする。

 血液交じりの胃液が廊下の床に広がる。


「恵里衣!!」


 由香のそんな声が聞こえる。しかし、何故かエコーが掛かっていて、うまく聞き取れない。目の前には、小夜がこちらを心配そうに見ている。だから、私は。


「大丈夫。守るよ。気づくのが遅れて、ごめんね?」


 そう言って次の衝撃に備える。次は頭を殴られそうだな……絶対に痛いからやだなぁ。

 そんなどこか外れたことを考える。すると、小夜の方から、小さな声が聞こえてくる。最初のうちは声が小さい上に、小夜の母親が叫んでいるせいか、聞き取れなかったが、だんだんと小夜の声も大きくなる。


「嫌だ。お姉さん、嫌だよ」


 あぁ……しまったなぁ……まーた。

 小夜を泣かせてしまった。


「嘘だろ? 嫌だよ、嫌、お姉ちゃん、死んじゃ、駄目だ……っ」


 小夜は弱々しく震えながら言う。死ぬ……かぁ、そんなこと、考えないで庇っちゃったな。


「死んじゃ駄目だ!! 駄目……嫌だ……っ、嫌だよ……!!」


 ……もし私がここで死んじゃったとしても、近くに由香がいるから、大丈夫……かな。きっと小夜は無事に救われるだろう。私の親友は面倒を見てくれるだろう。


「なんで私の前では泣かないくせに!! その女の前では泣くのよ!?」


 小夜の母親が吠える。きっと彼女は彼女なりに苦労している部分がある……のだろう。本も読んでいないから、判別も何もないのだけれど。


「やだぁぁ゛ぁ゛っ!! お姉ちゃん!! 恵里衣お姉ちゃん!!」


 そんな小夜の声を聞きながら、私は意識を手放さそうか、そんなことを考えた瞬間。

 私の背後から轟音と金切り声……いや、悲鳴が聞こえてくる。

 今にも吹き飛んでしまいそうな意識を何とか手繰り寄せ、何事かとゆっくり後ろに視線を向ける。すると、由香が私の背後に立っていた。どうやら、私の脇腹をぶち抜いた凶器……ゴルフクラブ? を抑えつけているらしい。


「わりぃな。一応親友に怒るなって言われてるからよ」


 由香はゴルフクラブに力を込めていく。決して脆い素材ではないはずのゴルフクラブがみるみるうちに歪んでいく。ミシッミシッという音と共に。


「殺しはできねぇんだ、親友に止められてっから。だがよ、それ以外なら禁止されてないから、まずはお前の髪の毛、皮ごと剥いでやろうか?」


 由香はそう脅す。小夜の母親は目の前でゴルフクラブが壊れていく光景、私からは見えていないが、由香の『あの目』を直視ししてしまっているせいか、みるみるうちに顔が青くなる。


「由香。乱暴は駄目だからね。それは、本当に許さないから」

「…………へいへい」


 由香の非常に不服そうな声を聞いた瞬間、私の意識は闇の中に落ちた。




 次の記憶は、白い天井だった。本当に、『見知らぬ白い天井』と言うものを人生の中で見ることになるとは思っていなかった。どうやら、私は病院へ搬送されたらしい。視線だけを動かし、周りを観察してみると、個室ではないらしい、カーテンで仕切られている。しかし、私から見て右側だけカーテンが開いている。

 首は動かせるか?

 私は首に力を込め、右を向く。そこには。


「……お姉さん? 起きたのかい?」


 視線の先には、もう一つベッドがあり、そこには小夜が横たわっていた。小夜はしばらく私を見つめたかと思うとじわりじわりと瞳に涙を溜めていた。


「よかった……よか……った……」


 また、泣かしてしまった。なだめようにも、身体がうまく動いてくれない。だから私は……。


「ごめんね。小夜」


 そう、謝った。すると、小夜は訥々と言葉を紡ぐ。


「目の前で血を吐かれて、意識がなくなって、本当に死んだかと思ったんだぞ? 本当に、私のせいで、死んだのかと思ったんだぞ?」


 涙を流しながら小夜は私に向かって言葉をぶつける。本当に、本当に、辛かったのだろう。


「私が怪我をするより、何倍も何十倍も……いや、言葉に表せないくらい辛かったんだぞ」

「小夜……」

「二度とああいう事はしないでくれ。いくら私のためでも、本当に、本当に、やめてくれ」


 小夜は最後に絞り出すように言う。


「もう。あんな思いはしたくないよ……」


 私の視界はだんだんと曇っていく。どうしたのだろうか、また意識が落ちようとしているのか? ……いや、これは違うか。

 私も泣いちゃっているんだ。




つづく

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