第四部・第3話

 コレギマ帝国。

 首都の郊外とは言っても、首都そのものからはだいぶ距離がある。

 そんな小さな街だった。決して都会というわけではないが、中途半端に都会を目指した田舎街といった風情が昔から続く街。中核都市にもなり得ない。

 人口は決して多くはなかった。結局は多くの若者が都会へと出ていく。それを引き止めるだけの魅力もないのだろう。そして平均年齢は毎年上がり続ける。

 ルイス・キャミオール──二五才。

 大学を二年で中退し、二〇才で入隊を決めた。

 戦争が始まって一年もしない内に国内情勢は悪化の一途を辿り、インフレと失業者の数が上がっていくだけ。当然のようにそれは貧困層の家計を直撃した。

 ルイスは一人娘。両親の他に家族はいない。学費を払えなくなってしまった両親のために、多くの若者たちのように軍隊へ入るしかなかった。

 人を殺すことになるかもしれないことは覚悟していた。後方部隊を希望してはいたが、どこに配属されるかは分からない。しかし、そうしなければ両親が路頭に迷う。悩んでいる余裕はなかった。

 唯一の心残りは、高校を卒業してからずっと入院している恋人のこと。

 高校からの付き合いだった。

 同じ大学に入り、そのまま付き合っていけると思っていた。

 しかし、大学への入学が決まっていたにも関わらず、重い病気が見つかる。

 そのまま入院。

 一度も一緒に大学に通うことがないまま、ルイスは大学を中退。

 学んでいた心理学の世界も打ち切り。

 不治の病だった。

 しだいに筋肉が萎縮するかのように動かなくなる病気。

 今では両手を満足に持ち上げることすら難しくなっていた。

 ルイスは毎日、恋人の病室に通い続けた。

 一日も欠かしたことはない。

 少しずつ病気が彼の体を蝕んでいく毎日。

 それでも、少しでも彼の側にいたかった。

 同じ時間を共有していたかった。

 それだけで良かった。

 しかし、軍隊に入れば、それまでのようにはいかない。

 会えなくなる。

 配属先は最前線だった。

 戦争が終わらない限り、生きている限り帰ってくることは出来ないだろう。

 おかしな話だと、ルイスは思った。

 余命の短い恋人に会うために、人を殺しにいく…………。

 そんな自分を、彼は許してくれるのだろうか…………。

 入隊の前日、ルイスはいつもより長く病室にいた。

 彼の好きだった服を着て、精一杯お洒落をし、それでもこれが最後かもしれないと、そう思って彼の手を握り続けた。

 しかし彼にはその温もりすらも届かない。

 それでも、ルイスは彼の手を握りしめる。

 決して離したくない…………そう思い続けた。





 戦争が終わる。

 状況が分からないままに、ルイスのいた部隊は国境を超え、コレギマに戻った。

 そこはインフラの失われた世界。

 物流は完全に失われていた。

 戦争の勝敗すら未だに分からない。

 街に戻ると〝敗戦〟の噂で溢れていた。多くの人々は戦勝国からの占領政策を恐れ、食べ物を求めて首都へと移動していた。公共機関など動くはずもない。

 秩序が失われていた。

 やっとの思いで向かったのは病院。

 彼のいる病院。

 あれから五年。

 定期的に両親からの手紙で彼の近況は伝え聞いていた。しかし終戦までの一年程は最前線への手紙の物流も途絶えていたため、彼の近況は分からず終い。

 一年前までの手紙で、だいぶ病状が進行していたことは聞いていた。

 しかし、今はそんなことはどうでもよかった。

 ただ、彼に会いたい。

 それだけでいい。


 ──人殺しの私が?

 ──何人も人を殺してきた私が?

 ──彼にどんな顔で会うの?

 ──こんな軍服のまま?


 化粧の仕方も忘れた。

 五年も化粧なんてしていない。

 右往左往する人が何人かはいるが、随分と閑散としていた。もちろん受付にも人などいない。エレベーターに向かっても電気すら通っていない。

 ルイスは足早に階段を上り始めた。

 変わっていなければ、彼の病室は五階。

 少しずつ近い付いていく。

 それに合わせるように、ルイスの足も早まる。

 やがて辿り着いた病室に、以前と同じベッドに、彼はいた。

 ルイスの荒い息に気付いたのか、窓に向けていた顔を僅かに回し、微かに笑みを浮かべた。

 ルイスは何故か駆け寄ることが出来ずに立ち尽くす。

 痩せてはいるが、確かに彼だ。

 五年ぶりに会えた。

 彼に会うためだけに生きてきた。

「……きてくれたんだね…………」

 か細いその声に、やっと涙が溢れ、足が動く。

「……先生も……看護師も……みんな逃げたみたいなんだ…………この病室の人たちも、みんな家族が連れて行ったよ…………電気も点かなくて……夜って、あんなに早いんだね…………」

 やっと彼のベッドまで辿り着く。

 しかし、彼の姿と掠れた声に、言葉が出ない。

「少し前の空爆で、僕の家族は亡くなったそうだよ……市役所の人なのかな……教えてくれた…………それに、僕の体はもう動かない…………首から上がやっと動くくらい…………」


 ──……どうすればいいの…………


 言葉の代わりに、涙だけが止めどなく溢れた。

 やっと彼の細い手を握った時、彼は言葉を絞り出した。


「…………僕を…………殺してくれないか…………」


 何度も、戦場で死の恐怖を味わった。

 その度に、彼のことを思い出した。

 彼に会うために、生き残りたいと思ってきた。

 そのためなら、敵兵を殺すことなど厭わなかった。

 総ては、彼のため。

 彼に会うため。

 そして、五年ぶりに、その彼が目の前にいる。

 言葉は出ない。

 何を言えばいいのか分からない。

 出てくるのは涙だけ。


 ──……どうして…………

 ──……どうして…………やっと会えたのに…………

 

 ──なら…………どうするの?


 ルイスは腰のホルスターから拳銃を取り出していた。

 そして彼の額へ。


「……ありがとう……ルイス…………」


 それが、彼の最後の言葉だった。

 実家に帰ることも出来ないまま、ルイスは閑散とした街を彷徨っていた。

 人殺しの自分が帰る場所などない…………彼の最後の言葉が木霊するだけ。

 いつの間にか夜。

 小高い丘の公園にいた。

 ベンチに座り、ただ灯りのない街を眺めていた。

 何も考えられなかった。

 これからのことなど、何も見えない。

 そして気が付くと朝。

 静かな振動と、陽の光を遮るドローンの群れが空爆を始める。

 無意識の内に体が動いていた。

 走っていた。

 炎に包まれる街の中を、爆音の響く街の中を、ただひたすらに走る。

 いつの間にか、足は実家の方へ。

 建物はすでに無かった。

 あるのは崩れた家と、手足の欠けた両親の横たわる姿だけ。

 しばらく、そこに立ち尽くしていた。

 やっと動けた時、ルイスに出来たのは見開かれた両親の瞼を閉じることだけ。


 ──……ありがとう……ごめんね…………


 涙が出ていたかどうかも覚えていない。

 歩き続けた。

 どこを歩いたかも覚えていない。

 やがて、ルイスは運よく生き残りの部隊と合流が出来た。

 そこからどう生きてきたか、あまりルイスは覚えていない。

 全部で二〇人程度の部隊だった。首都の空爆を経験し、やむなく撤退をしてきた部隊。国軍の本部とも連絡が取れないまま、部隊は本部基地を目指していた。

 移動のトラックの二台の上で、ルイスに声をかけてきたのは向かいに座るベルだった。

「特化部隊か……最前線か?」

 肩のエンブレムを見て声をかけてきたベルは六〇近い初老の兵士。大きな体に髭だらけの顔。決して清潔感のあるようなタイプではない。一兵卒の叩き上げだった。

 ルイスは目も合わせようとはしない。

 構わずにベルは続けた。

「まともなツラじゃねえな。何を見たか知らねえが……今にも死にそうな顔してるぜ」

 ──お喋りな男…………

 ルイスがそう考えているのを知ってか知らずか、ベルは話し続ける。

「俺も戦場で色々見たけどよ…………」

 ──年寄りの戦場自慢か…………

 そんな話を多くの兵士から聞かされてきた。どうして戦場の兵士はお喋りなのか……今はなんとなく分かる気はしていた。黙っていられないのだろう。落ち着かないのだろう。だから喋り続ける。

 ──まるで犯罪者の心理のようだ…………

 心理学を学んでいたルイスだったが、もはや今のルイスにとってはそれすらどうでもいいことでしかない。

「あれはなんだったのか……不思議な体験だったよ……」

 そこに横に座っていた若い男が口を挟む。

「伍長、なんですか? 幽霊でも見ました?」

 ──うるさい男たち…………

「いや、そんなんじゃねえよ。お前ら、人の体が緑色に光るのを見たことがあるか? 体がっていうより、緑の球体に包まれたようになってな…………」

「また酒でも飲んでたんじゃないんですか?」

「そんなんじゃねえよ。去年のことだ。一年も前じゃねえ」

 そう言うベルの目は真剣だった。

「弾も跳ね返しやがる。俺は一度しか見てねえが、どこかの新兵器だとしたら人間兵器だな……超能力か何か知らねえが、まともじゃねえ。部隊のほとんどがやられちまった…………寒気がしたぜ」

「やられたって……その光りで、ですか?」

「体が潰されたみたいになってな…………」

「それって、兵士なんですか?」

「いや、軍服は着てなかった……訳が分からなかったよ…………」

「なんだか……そんなに体の大きい伍長でも怖いものがあるんですねえ」

「あれ見る前は怖いもんなんて幽霊くらいだったけどよ」

 そう言ってベルは大口を開けて笑った。





 やがて到着した本部基地の惨状に、部隊の兵士たちは驚愕する。

 建物のほとんどが崩れ、あちこちから煙まで立ち上っていた。

「ここでも空爆か……」

 ベルはそう呟くと、奥歯を噛み締めていた。

 残されているのは、バラバラになった死体の群れ。銃撃戦の跡ではなかった。可能性だけで言えば空爆しかない。しかし地面に爆弾の痕跡が無いのが不思議だった。

 食料と弾薬を補充し、そこで一夜を過ごす。

 これからどこへ行けばいいのか分からない。

 本部の指示をもらおうにも、本部自体が存在しないのではどうしようもない。

 朝。

 久しぶりの無線の雑音。

 無線を傍受した。しかしそれは友軍のものではない。隣の大陸──カギマ大陸の敵国の無線信号だった。しかし音声は拾えないまま、憶測だけが広がっていく。

 敵国の無線をキャッチしたということは、近くにその部隊がいると言うことでもある。そして無線の発信位置はコレギマの沿岸部。

 上陸されたと判断するのが妥当だろうと思われた。

 戦勝国は依然分からなかったが、それがコレギマでないことだけは事実。そうすると、敵国の占領政策が始まっているのかもしれない。終戦後の大規模な空爆がその一環とすれば、それは友好的な占領政策とは言い難い。

 そして、フォニィ国内への撤退を決めた。

 それから数ヶ月、ラカニエの残存兵力との戦闘を繰り返しながらフォニィへと辿り着く。どこも荒廃した街ばかり。部隊の中にも諦めや絶望が広がっていった。

 そして、二人を見付けたのは小さな田舎街だった。

 空爆ではない、銃撃戦の跡が見られた。初めは誰もいないと思われた。事実として誰も見つからないまま、ベルを含む数人の兵士が狭い路地から大きな通りに出た時だった。

 午後の強い陽射しを背にした二つの影。

 通りの中心でそれは動かない。

 兵士全員が瞬間的に銃口を向けていた。

 そしてベルが気付く。

 ──子供?

 直後、ベルは背後の兵士たちを掌を大きく広げて制した。銃口を向けながらも、ゆっくりとベルは近付いていた。

 二人の内、一人の足が一歩だけ前に出るが、もう一人がそれを片手で止める。逃げる様子はない。驚くことに、自動小銃を構えたままのベルが近付いても怯える態度は見せていない。

 まだ幼い。一〇才にもなっていないだろう。荷物も持っていない。二人とも長い髪を僅かに風に揺らしながら、黙ってベルの目を見続けていた。

 やがて、ベルが口を開く。

「二人だけか? 他に──」

「いないよ」

 そう応えたのはハーフパンツの男の子の声だった。髪が長いせいか、ベルは最初その子を女の子だと思っていたので少し驚いた表情を見せる。

 その声が続く。

「みんな死んだ」

 まるで感情のない声に感じられた。

「そうか…………」

 ベルは自動小銃をストラップで肩にかけると状態を起こし、続ける。

「一緒に行こう。食べ物もある」

 そして大きな右手をワンピースの女の子に差し伸べた。

 うまく笑顔を作れている自身はない。久しぶりだった。ベルにも同じくらいの歳の娘がいた。しかし、戦争の開始と共に、空爆で妻と一緒に失っていた。最後に特別な言葉もかけてやれず、朝にいつもの会話だけ。自分だけが生き残り、どんなに後悔してもどうにもならない。

 目の前の女の子に娘の面影を重ねている自分に気が付き、戦場ではそれがいけないことだとは分かっていたが、ベルはその気持ちに抗った。

 戦争は終わった。

 いつか落ち着ける所に辿り着ける。

 あの時守ってやれなかった娘を守ってやりたい。

 ベルは湧き上がった感情を止められなかった。

 女の子の小さな手が、ベルの大きな手に触れる。

 暖かかった。

「行こう」

 それだけ言うと、ベルは足を動かした。

 七才の兄妹だった。双子だと言う。

 最初に見つけたのがベルだったためか、ベル自身がまるで自分の子供のように接し続けた。

 見た目とは不釣り合いに感じるその姿を不思議に眺めていたルイスに、若い男性兵士が声をかける。

「意外だろ。伍長ってあんなだけどさ……戦時中の空爆で奥さんと子供を一度に亡くしてるんだぜ」

 ──そんなの、みんな…………

「みんなそうかもしれないけど、あの人も辛い所を渡ってきてるのさ。バカ笑いでもしなきゃ生きていけないんだ…………」

 その男の口調は、何かを噛み締めるかのような、そんな口調に思えた。





 数ヶ月後。

 秋が終わろうとしていた。

 ここまでフォニィ国内を転々とし、何度か戦闘は経験したが、その頻度は明らかに落ちていた。それでも数人の犠牲を出し、残る隊員は一四名。

 敵国の無線を傍受することもなく、占領政策がどうなったのかも分からない。あまりにも情報が少なすぎた。同じ大陸内の敵国であるラカニエがどうなっているのかも分からず、そこへ行くことも憚られ、冬に移動を繰り返すか、どこかに拠点を作って冬を過ごすか、選択を迫られた。

 その日もトラックの荷台での移動は寒さを増長させた。

 いつ雪が降ってもおかしくない冷たい空気に、ルイスも目を閉じて肩をすくめる。時折、周囲の荒廃したビルで風が遮られるのが嬉しくも感じるほどだ。

 そんな状態でも、幼い二人の兄妹はベルから離れようとはしなかった。両親は戦争で亡くなったと言っていたようだが、その面影をベルに感じているのだろうか。

 そこに、前を走る装甲車から無線が入る。

 レーダーにドローンの影が映り、車両がビルの狭い谷間に身を潜める。

 各自、自動小銃やライフルを手に車両を降りると、その狭い路地に広がった。レーダでは両サイド共にドローンが通過する想定がされている。すでにここまでで犠牲者を出していることを考え、出来ればそのまま通過してくれることを願っていた。

 ドローンが相手となると上空も警戒しなくてはならない。路地を作り出していたのは高いビル。

 そこには狭い空。

 青空ではない。

 黒い雲が渦巻く。

 それほど遅い時間ではなかったが、辺りが薄暗いのはビルの影だけではない。

 当然、足元の影はぼんやりと薄い。

 そして、そこに覆い被さるような黒い影。

 全員が一斉に上を見上げた。

 その影は実態を持って兵士たちに襲いかかる。

 銃声も短く、何人かの兵士が押し潰された。

 見たことのないドローンだった。

 しかも、かなりの大きさだ。

 路地の幅ギリギリ。

 何機ものドローンが路地を埋め、生き残った兵士たちはそこから弾き出される。

 すると、そこにもドローンが飛びつく。

 全員が散り散りになり、不規則に銃声が鳴り響く中、ルイスも思考する力を失った。

 ドローンが与える威圧感に、辛うじて引き金を引き続ける。

 死を覚悟した。

 怖かった。


 ──もう…………いいかな…………


 生き続ける理由などない。

 生きる目的などない。


 ──もう…………疲れた…………


 その時、路地から溢れる〝緑の光〟。

 轟音と共に、路地を形成していたビルが、緑の光に抗うように崩れ始める。

 そして砕け散っていく何機ものドローン。

 爆風に倒れ込みながらその光景に目を奪われていたルイスに、ベルが覆い被さる。

 その体に容赦無く吹き飛ばされた瓦礫が降りかかった。

「足は無事か?」

 ベルの下になっているルイスに、その声が響く。

「アレだ。俺が見た光…………アレには勝てねえ…………逃げろ」

 そう言ったベルが振り返ると、大量の細かなチリが煙のように舞う中、数人の兵士が人間ほどの大きさになった緑の光に向けて発砲を続けていた。

 〝緑の球体〟は兵士たちに近づく。

 それは二つ。

 そして、それは大きくなった。

 途端に砕け散る兵士たち。

 その球体の中にいたのは、あの子供たち。

 ベルが呟くように低い声を出した。

「あいつら……どうして…………そんな…………」

 兄妹たちの──緑の球体が近づいてくる。

 ベルがルイスに振り返った。

「逃げろ‼︎」

 無意識に足が動く。

 アスファルトの地面を蹴り付ける。

 そのまま振り返ろうとした時、横目に見えたのは、緑の光に潰されるベルの横顔。

 言葉も出せずに走り続けた。

 そしてヘルメットへの強い衝撃に、目の前が真っ暗になった。





 分かるのは自分がうつ伏せになっていることだけ。

 あれからどれだけの時間が経過したのか、今の自分の置かれた状況がルイスには理解出来なかった。

 暗い。

 少しずつ手足の感化が戻るのを感じる。

 それと同時に体全体を覆う重み。

 ゆっくりと、ぼんやりと見えてくるのは、月明かり。

 いや、月明かりに照らされた地面。

 やっとの思いで首だけを回す。

 見えるのは崩れたコンクリート。

 思い切って、ルイスは両手で上半身を上げた。

 背中から落ちる瓦礫。

 そして次は膝を引き、曲げた。

 両足に激痛が走る。

 それでもやっと上半身を起こした時、ルイスはやっと状況を理解した。

 どうやら大きな瓦礫の下敷きになったらしい。しかし、その片側が別の瓦礫にぶつかったために直撃は免れたようだ。衝撃で崩れた瓦礫の下敷きになっていたのだろう。

 そこから辛うじて這い出たルイスは、今が夜であることを再認識する。

 静かだった。

 そして、やっと記憶を整理する。

 その記憶と繋がっていく光景に、感情まで蘇る。

 立ち上がると、再び両足に痛みが走るが、歩けないほどではないらしい。

 重い体のまま周囲を見渡すと、そこには凄惨な光景が広がっていた。

 長く最前線にいた。

 死体は見慣れている。

 仲間の死も何度も経験した。

 しかし、体の至る所が潰されてバラバラにされている死体がいくつも転がっているのを見るのは初めてだった。

 もはやそれが、肉片なのか内臓なのかすら分からない。

 人数など確かめようもないだろう。

 もう、緑の光はどこにもない。瓦礫で埋まった路地には、あの兄妹の姿もない。

 風が冷たかった。

 体のあちこちが痛む。

 ここにいるのは、多分自分だけ。

 足を引きずるように、重い体を引きずるように、ルイスは歩いていた。

 どこに行くという宛てもない。

 ただ、歩いていた。

 そこにいたくなかった。

 どこかで休みたかった。

 いつの間にか、目からは涙が溢れる。

 戦場で泣いたことはなかった。泣きたいと思ったこともない。

 どんな恐怖でも、そこには生きる目的があったからだ。

 しかし、今のルイスには何もない。

 なぜ生き残ったのか、それを悔やんだ。

 やがてルイスは、建物が少なくなってきた頃、とある民家の前に座り込んだ。

 木製の玄関ドアに背中を当て、目を閉じる。

 冷たいはずのドアが、なぜか暖かく感じた。

 瞼に僅かな暖かさ。

 目を開くと、目の前には大きな月が光る。

 冬の月明かりを、なぜか暖かく感じた。

 涙が頬を伝った直後、ルイスはホルスターから拳銃を取り出していた。

 迷わず右のコメカミへ。


 ──彼の命を奪ったこの拳銃で……私も…………


 どうしてだろう。

 引き金を引けばいい。

 人差し指に力を込めればいい。

 それで総てが終わる。


 どこにも行く場所なんかない。

 帰る場所なんかない。

 生きている意味なんかない。


 それなのに、誰かがルイスを引き止める。

 拳銃を握る手に、温もりを感じる。


 ──……だれ…………?

 ──…………どうして…………?


 冬。

 雪が降り始める。

 最初の雪はまだ水分が多かった。

 重い雪。

 しかししだいに寒さが増してくると、それは乾いた空気の中で結晶を作り出し、まるで綿のように降り注いだ。

 荒廃した街が、一面の雪で覆われる。

 最前線でも見たことがあるのに、なぜかルイスには、まるで初めてみる光景かのように輝いて見えた。

 小さな、戦火の跡のない民家。

 そこには暖炉があった。窓も割れていなかった。ドアもある。

 僅かな保存食で、そのまま冬を過ごした。

 この地域の雪の期間はそれほど長くはない。それでも役二ヶ月の間、ルイスはそこを離れなかった。

 一人のような気がしなかった。

 隣に彼がいるような、そんな気がしていた。

 一緒に、こんな小さな家で二人で暮らしてみたかった。そんなことを思う度に、ルイスは何度も銃を手にしていた。

 そしていつも、彼の温もりを感じ、声を上げて泣いた。

 やがて、少しずつ気温が上がると、外を覆っていた雪の層が薄くなっていく。

 窓のすぐ下まであった雪の山はしだいに低くなり、水分を多く含んだ雪とともにアスファルトを露出させた。

 あんなに土煙で乾いていた街が、今は水を被ったかのように濡れて輝いて見えた。

 冬の終わりと共に、いつの間にかルイスは次のことを考え始めていた。


 ──どうせ行く所もない。

 ──このままここに居ればいい。

 ──いつかは、ここで死ねる。


 そして、久しぶりに、空を揺らす音。

 微かな音。

 それは僅かに窓のガラスを揺らした。

 窓から空を見上げると、一気に記憶が蘇る。

 そこには、あのドローンがいた。

 ルイスの総てを、恐怖が包み込む。

 家の裏口から飛び出していた。


 ──どうして……どうして…………


 どこをどう逃げたかなど分からない。

 食べ物も持たずに、数日の間、歩き続けた。

 あるのは拳銃だけ。


 ──どうせ撃てもしないのに…………

 ──死ぬこともできないのに…………


 夜。

 山の中を歩いていた。

 野生動物に襲われるなら、それでもいいとさえ思えた。


 ──誰か…………殺して…………

 ──もう……嫌だ…………


 もはや、足に力など入らなかった。

 ただ、無意識の内に体は前へ。

 そして、倒れる直前、山の麓が見えた。


 ──……街…………





 まだ息はあった。

 極度の衰弱と疲労。

 いつ死んでもおかしくない状態だったが、ヒーナはその兵士を見捨てる気にはなれなかった。

 ティマと二人でゆっくりと担架に乗せ、装甲車の後ろへ。

 ヒーナの気持ちは落ち着かない。

 冬が終わり、やっと見つけた生き残りの一人。

 興奮もあった。

 震えながら担架を装甲車の天井から吊るすヒーナにティマが声をかける。

「大丈夫。あの二人なら助けてくれる」

 すでに無線連絡は済ませていた。

 拠点ではスコラとレナが治療の準備を進めているはず。

 ヒーナが震える声で返した。

「せめて水くらいでも──」

「ダメだ。ショックを起こすかもしれない──大丈夫だ。拠点に急ごう」

 拠点に到着するとスコラとレナの動きは早かった。

 久しぶりに仲間を見付けられた。

 全員の中の興奮と使命感は計り知れない。

 不安と共に、そこには喜びがあった。

 まだ、生きている人間はいる。諦めかけていた感情が揺り動かされた。

 服を脱がせ、体の洗浄と並行して点滴。身体中の傷を治療。

 全員が協力していた。

 まだ外の風は涼しい。

 地下室を可能な限り温めた。

 全員で代わる代わる手と足を摩る。

 そんな状態がその日から丸二日続いた。

 その間、もちろん遠征もない。

 全員が、一人の命に総てを賭けていた。

 それが誰なのかも分からない。

 分かるのは性別だけ。

 それで良かった。

 少なくとも、目の前の人間は生きている。

 それだけで良かった。

 時間が過ぎていく。

 やがてルイスが目を覚ますと、無機質な天井が見えた。

 その天井は、僅かに揺らめく。

 暖かい。

 体に血液が通っているのを感じた。

「おきた!」

 ナツメが声を張り上げた。

 その声にルイスが首を回す。

 そこにあるのは笑顔だった。


 ──生きてる…………


 自然と涙が出たことに、ルイス自身も気が付いていなかった。

「コレギマね」

 その声にルイスが目だけを動かすと、そこには柔らかい表情のヒーナ。そのヒーナが続けた。

「私たちはラカニエ帝国の生き残り。大丈夫……戦争は終わったよ」

 ルイスが状況を理解するのは容易ではない。思考が回り始める。

 ヒーナが更に繋いでいく。

「もう国も戦争もないよ。あなたもここで暮らしていい……私たちに強制力はないけど…………せっかくだし、あなたの話を聞かせて」

 ルイスにとって、こんな優しい言葉を投げかけられたのはいつぶりだろう。ずっと張り詰めた空気の中で生きてきた。

 何度も死を覚悟した。

 死にたいと願ってきたのに、今はこの暖かい部屋の中で生きていることを感じる。

 どうして涙が出るのかも分からない。

 どうして生きているのかも分からない。

「……こ…………お…………」

 言葉が上手く出てこない。声を出すのも久しぶりだった。それでも伝えなければいけないことがたくさんある。聞きたいことがたくさんある。

 ヒーナがそれを掬い上げた。

「大丈夫だよ。ゆっくりでいいから」

 ──ダメだ…………大事なこと…………

「沿岸…………コレギマの…………占領軍が、きてる…………」

「占領軍?」

 ヒーナが聞き返した直後、ルイスは震える体で上半身を起こした。

「無理しないでね。まだ体力が足りていないと思う」

 それはスコラの声だった。

 その声に、呆然と辺りを見渡すと、ルイスの感情がぶり返す。

「いやーーーー‼︎」

 その悲鳴にスコラとレナが動いた。

 二人は暴れかけたルイスを押さえる。

「ダメ! ショックで死ぬ!」

 スコラが叫んでいた。

 ルイスは叫び続ける。

 まるでそれは断末魔。

 そしてその視線の先にいたのは、あの兄妹だった。





「ウソじゃない‼︎ あの二人…………人間じゃない‼︎」

 ルイスは明らかに冷静を欠いていた。

 ここに来てから点滴でしか栄養を摂取していない。スコラの助言も無視し、食事も取らずに怯え続け、訴え続ける。

「あいつらは人間じゃない! みんな……みんなが殺されたの‼︎」

 一階の部屋にルイスは運ばれ、地下にはアイバと兄妹だけ。

 兄妹がアイバに懐いていたことは全員が分かっている。両親を亡くした兄妹が〝力〟を失ったアイバの拠り所になるのは自然なことのように思えた。

 兄妹と接するようになってから、確かにアイバの笑顔は増えた。

 自分の存在価値を失っていたアイバに新たな拠り所が現れたことに、全員が安堵し、そして甘えていたのかもしれない。

 キラとは違うと思っていた。

 両親もいた。

 そしてここに来る直前まで軍隊に保護されていた。

 髪の色が違うこともそう思わせた理由だろうか。兄妹と違い、キラはアイバと同じ紫色だった。同じなのは髪が長いこと。

 ティマ以外は、誰も疑うことをしなかった。

 全員が思考を巡らせる中で、ナツメがティマの顔をまじまじと見ている。

 そして口を開く。

「同じ色だ…………」

「同じ? って何が?」

 スコラの声に、ナツメはティマを見つめたまま。

「髪の色……ティマとあの子たち…………」

 すると、ティマはそれに即答する。

「やっと気が付いたの?」

「なんで黙ってたのよ」

 ナツメが食い入るように詰め寄った。

 ティマは迷わず応えていた。

「髪の色が同じような人は他にもいるよ。貴重な生き残りを保護出来たことは事実だったし、敵か味方かを見極めてたけど確証が持てなかった」

「敵か味方って……どうして?」

「あの二人は…………嘘をついてる」

「待ってティマ……そんな────」

 そのヒーナの言葉を、ティマは手で制して続ける。

「あの二人に親はいない。あれは嘘をついてる目だ。昔……嫌というほど見てきた。最初の夜に分かったよ。あの二人は生きるために私たちに取り入っただけ。いずれ正体を表す…………ルイスの話で確証が持てた」

 ヒーナも諦めきれずに声を震わせて返す。

「でも……生きるためかも────」

「ならどうして……自分を可愛がってくれた人間のことまで殺せるの? そこに感情があるとは思えない」

「それならアイバだって────」

「アイバは兵士として敵兵を殺しただけ。私たちと同じ。無差別に人を殺すようなことはしない。キラだってそうだ。私たちに敵意を向けたわけじゃない。チグ──」

 急に声をかけられたチグは驚いてラップトップから顔を上げた。

 ティマが続ける。

「確かアーカムは、南極の地下で……内戦で絶滅したんだよね」

「うん……確かそうだけど……」

 そのチグの声は弱々しい。嫌な想像しか頭に浮かんでこない。怖い思いが湧き上がる。

 ティマが繋げる。

「つまり……味方とは限らない…………人間と同じだよ。なぜ嘘をついたか考えて。嘘をつく必要があると思う? 私だって親はいない。アイバだってキラだってそうだ。なぜあの二人は嘘をつくの? …………信用は出来ない。いつか必ず牙を剥く」

「……どうして?」

 震える声のヒーナが続けた。

「ティマだってアイバだって…………仲間だよ…………アーカムだってなんだっていい…………仲間だよ…………」

 しばらくの静寂。

 それを破ったのはナツメだった。

「じゃあさ……」

 しかもその声は低い。

「ティマは、どうしたいの?」

 ──やめてティマ。

 想像したくない思いが巡る。

 ティマの考えが、なんとなくだがナツメには想像が出来た。いつもティマは最善の、そして最短の道を探る。無駄な回り道をしたがらない。

 ──お願い……ティマ…………

 そこに、ティマの差し込むような声。

「殺す」

 再びの静寂。

 床に座り込んだのはレナだった。

 その泣き声が部屋に響く。

 レナもアイバに接するのと同じように、二人に接してきた。

 レナ自身、戦闘に参加することを許されずに過ごしてきた。それはありがたかった。もう銃を手にしたいとは思っていない。衛生兵としてスコラのサポートをすることも嫌ではない。むしろ嬉しい。しかし同時に、他のみんなと同じくらいの存在価値が欲しかった。みんなに守られてばかりの自分が嫌だった。

 そしていつの間にかアイバの母親になり、兄妹の母親になっていた。

 血の繋がりがなくても、自分の子供のような存在だった。殺して欲しいなどと思うわけがない。

「……ダメだ」

 それはヒーナの声だった。

「リーダーとして…………それは許可出来ない」





      〜 第四部・第4話へつづく 〜

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る