第26話 ケ・セラ・セラ


 鳥取砂丘に行ってみればわかるけれど、馬の背に登るのは結構疲れる。遠くから見ると緩いようにみえるのに、実際の傾斜はかなりキツいのだ。


 それに砂に足をとられるものだから、一歩一歩がなかなか進まない。ズリズリと滑る砂山のあちこちで、ワアとか、キャアとかの叫び声が聞こえていた。


「和田君がシンドイって言うてた意味……、わかった……」


 息を切らせながら涼子さんが言った。


「……でしょ? これね、暑いしシンドイんです、……結構」


 乱れた息を一旦息継ぎをしたり、呼吸を整えたりしながら馬の背を登っていく。頂上は見えているのにそこまでが果てしなく遠く感じた。


 僕は右手を伸ばして涼子さんの左手を握った。涼子さんの身長は男の僕よりちょっとだけ低いくらいなのに、その手を握るとやっぱり女性の手は小さいと感じてしまう。涼子さんの手は細くて薄くて、そして柔らかかった。


「もうちょっとですからね、もうちょっとで頂上ですから」


 握った涼子さんの左手を引きながら僕は声を掛ける。


「なあっ、和田君っ、上にあがったら、愛があるかなあ!」


 涼子さんがゼイゼイ言いながらも、軽くボケる。もう足首まで砂に埋もれて、絶対にスニーカーの中は砂だらけのはずだ。


「愛もありますけどねっ、マジで向こうに見えるのは海なんです! もうすぐそこが海岸なんです!」


「えっ、ホンマに!?」


「はい、ほらもう見えてきましたよ」


 急傾斜を登り切った先に見えるのは海だった。九月の日本海が眼下の鳥取砂丘の砂浜に波を寄せていた。


「ホンマや……、すごーい」


 涼子さんと僕は馬の背の頂上に立って日本海の風を受けていた。汗を掻きながら登ったので吹き付ける風が本当に心地よい。深呼吸をしようと手を広げたところで、また涼子さんと手を繋いだままなことに気がついた。僕の動作に気づいた涼子さんはニコッと笑って、僕と同じように深呼吸をする。


「和田君、愛、どこ?」


 なぜか涼子さんが嬉しそうに僕に訊いた。


「これですよ、これ」


 僕は手を繋いだままの右手を持ち上げて、ブランブランと揺する。


「ベタやなあ、和田君。もうちょっと捻ろうや」


 そう言いながらも涼子さんはまんざらでもなさそうで、握った手をブランブランとさせていた。


「なあ和田君、海まで降りて行きたいんやけど」


「まあせっかく来たんですし、海まで行ってみましょうか」


 今度は涼子さんが先になって、僕たちは馬の背を海側に降りていった。


 △


 鳥取砂丘のすぐ先の海岸は遊泳禁止。とはいえ海辺で遊ぶのは自由で、涼子さんは裸足になって波打ち際に入って行った。仕方がないので僕も裸足になったけれど、これで完全に足は砂まみれ確定だった。


「アハハ、海に入ったのなんて久しぶり!」


 涼子さんはポニーテールを揺らして波打ち際で喜んでいる。来年もし涼子さんが『涼子先生』になっていたら、小学生の僕だって一目惚れをすると言い切れるし、保護者の父兄連中の噂になるとも言い切れる可愛さだった。


 僕が裸足で突っ立ってボーッと見ていると、涼子さんがそれに気づいた。


「なに和田君? 惚れ直したん?」


 ああ、これは僕以外の相手なら絶対に言わない台詞だと思って、特別扱いされた僕は少し嬉しくなる。


「あたり前やないですか。そのうえ心配してたんですよ」


 意味深に僕が言うと、涼子さんは不思議そうに首を傾けた。


「心配って、なにを?」


「来年、涼子さんが先生になったら、『初恋は小学校時代の涼子先生』っていう男子小学生を量産して、それから保護者の父兄連中の噂になるんじゃないかって、心配になったんです」


「なにそれ、和田君って小学生やったんやな」


 涼子さんはちょっと呆れたように言って、僕の近くまで歩いて来た。涼子さんの綺麗な足首から先にはべったりと砂が付いていて、ふくらはぎあたりまで海水で濡れているのがわかる。


「なあ和田君」


 僕の真横まで近寄った涼子さんが、乾いた砂浜に腰を下ろして僕に問いかけた。なぜかその声には不安の色が混ざっているように、僕は感じた。


「なんです?」


「うん……。あんな、もし私が、どこの採用試験にも受からんと落ちたら……、臨時とか、代用の先生の募集を受けて、また来年も試験受けるつもりなんやけどな」


「はあ……、涼子さんそれ、前も言ってましたよね」


 その話は以前に涼子さんから聞いていた。来年も挑戦するつもりでいると。


「でも、和田君。もしも私が、こっちの採用試験は落ちて、徳島の採用試験だけ受かったら……。その……、もしあっちだけ受かったら、和田君は、どうする?」


「どうする、って……」


 ちょっとため息をついてから、僕も涼子さんの隣に腰を下ろした。


「まあ普通に、よかったですね、とか、おめでとうございます、とか言いますよ」


「そんなんやなくて!」


 涼子さんが非難めいた声を出した。


「そんなんやなくて……、私との事やんか……」


 私との事、と言いながら、涼子さんは指で砂をつまんでは放り投げている。


 僕はそんな涼子さんを見て、どう切りだそうかと考えた。僕は僕なりに、その時にはどうするかを考えていたつもりだった。


「そうですねえ、基本的に僕は遠距離恋愛でも大丈夫な人間だと思ってますよ。それに、涼子さんを泣かせるようなことはしたくない……かな」


 まず僕がそう告げると、涼子さんは「ありがと……」と呟いて、砂を投げるのをやめた。


「あとですね。来年の今頃は、僕もどこかに内定してくれてるハズなんですけど……、一応僕は全国的に転勤するような会社とかには行かないつもりでいます。もしかしたら公務員試験とか受けているかもしれません。とにかく、こんな言い方したら涼子さんに失礼ですけど、僕が涼子さんを手放したりしたらが出ますよ。だから徳島だけ受かった時はその時で、二人で考えましょうよ。だって、こっちの採用試験だけ受かっちゃうって可能性もあるんでしょ?」


 僕がそう言って笑いかけると、涼子さんは二~三度瞬きをして、そしてなぜか少し悔しそうな顔をした。そのままの表情で身体を前に倒し、膝の上に形のいい顎を乗せて呟く。


「あーあ、和田君の方が冷静で大人っぽい。なんか不安になって損した気分やわ」


「そんなことないですよ。ただ、いろんな先のことは想像するんですよね。転勤のない会社はいいかも知れんけど給料安いかなあとか、公務員試験かあ、本気で勉強しないとダメやろなあとか。いっそのこと四国が本社の会社ってどうなんやろ、とかね。でもほら、もうすぐ採用試験の結果が出るでしょ? そこから考えたらいいかなあ、って今のところ僕は結論を出したんです。結果が出るの九月の末でしたっけ? それまではいいじゃないですか。徳島県の採用試験だけ受かったら受かったときですよ! なるようになる、ケセラセラってやつですよ」


 言ってから僕はケセラセラを歌った。といってもサビの部分しか知らなかったのだけれど。


 するとサビの部分を涼子さんも一緒に歌い始める。というかお互いにサビの部分しか知らなくて、しばらくの間、僕たちは笑いながらケセラセラのサビだけを繰り返して歌ったのだった。

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