第27話 なるように……、なった
「なるようになる……かあ」
馬の背の丘を再び越えて砂丘を横断し、土産物屋の駐車場に帰って来た涼子さんは、クーラーがまだ十分には効いていない車内でポツリと呟いた。
砂丘の向こうの海に入ったせいで足にはベッタリと砂がついていたので、さっき僕たちは水道の水で洗ったばかりだった。今はその足先を車内で乾かしているところだ。
「ええ、なるようになる、ですよ。もう採用試験は済んだんですし、だからこうやって鳥取砂丘まで遊びに来てるんだし。涼子さんにとっては学生最後の夏休みでしょ?」
そう言ってチラッと助手席を覗った僕の視界に、涼子さんのふくらはぎから足首、そして綺麗なつま先までの白い素肌が目に入った。それはさっき海辺で遊んだときとはまったく違う白さに見えて、ちょっと緊張した僕は思わず視線を逸らしてしまう。
そんな僕の緊張を知ってか知らずか、涼子さんは車内に置いていたウチワで自分の身体を軽く扇いでいた。その風に乗って、涼子さんのいい匂いが僕の鼻腔をくすぐる。
「そうやんなあ……。採用試験も済んだんやし、あとは私がどうにかしようとしても、どうしようもないもんなあ……」
涼子さんはそんなことを遠い目をしながら言っていた、――が。
「そっか、最後の夏休みか」
と続けて呟いた瞬間、その綺麗な目がキラッと輝いたのだ。それはまるで楽しいイタズラを思いついた悪い女の子、といった様子といえばいいだろうか。
僕は涼子さんが何か良からぬことを考えたと思って、思わずビクッと身構えてしまった。
「なあ和田君、水木しげる、知ってる?」
キラキラと瞳を輝かせて涼子さんが言った。
「はあ、そりゃあ知ってますよ、鬼太郎の作者でしょ?」
「そうそう! で、水木しげるロードって鳥取県にあるん、知ってる?」
「……ありましたっけ? そんなの」
僕の返答が気に入らなかったのだろう、涼子さんは頬をプクリと膨らませてから言葉を続けた。
「知らん? ほら、何年か前にニュースになった、妖怪の銅像が壊されたり、盗まれたりしたとこ! 知らんの? 和田君やのに?」
『和田君やのに』と言われても、僕だって全知全能の存在でもなく、涼子さんの知っていることを全部知っている訳ではない。けれどこの話に限っては違った。涼子さんの語った妖怪の銅像損壊のニュースを、過去に僕は見た記憶があったのだ。
「ああ……、ありましたね。覚えてますよそのニュース。妖怪の銅像を壊すとか盗むとか、罰当たりっていうか怖いことするヤツもおるなあ、って思いましたもん」
あれは二年前だっただろうか。観光の目玉にといって設置された妖怪の銅像が壊されたというニュースを見て、僕はそんなことを思ったものだった。
「それそれ、そのニュースのとこなんやけど、行ってみたい! ええやろ? 夏休みやし」
「ええ……、涼子さん、妖怪とか、鬼太郎とか、好きやったんですか? ホンマですか?」
僕には涼子さんと妖怪の接点がまったく思いつかず、ちょっと引き気味になる。
「アカン? 子供の時にテレビで見てたんやけど。子泣きじじいとかちょっと可愛いやん」
「か、可愛い……ですか? 子泣きじじいが」
訳が分からない。と僕は思ったけれど、これが何を見ても可愛いという最近の風潮だろうかと考えを改めた。
「で、鳥取のどこにあるんですか? その水木しげるロードって」
「え、知らんけど……、和田君も知らんの?」
無邪気な瞳で僕を見つめる涼子さんの顔を見て、この僕が何か反論できるはずがなかった。ただ同じ鳥取県とはいえ、まさかその水木しげるロードがここ鳥取砂丘から100km以上も離れている境港にあるとは、この時の僕は思わなかったのだった。
△
「楽しかったな、和田君」
砂丘から思わぬ遠出となって、もうすっかりと夕方になってしまった帰り道、涼子さんは助手席でニッコリと笑っていた。
昼食には境港の新鮮な刺身定食を堪能し、そのあとご希望の水木しげるロードをブラブラしながら、妖怪アイスやら、妖怪まんじゅうやらを食べ歩き回った涼子さんが満足をしなかった訳がない。それはハンドルを握っている僕にも十分に伝わってきた。
「楽しかったですね、まあ、ちょっと帰りが遅くなりましたけど」
いまの時刻は午後五時半を少しまわったところ。アパートに帰ったら夜中も夜中で、日付が変わるかもしれなかった。
「ごめんな和田君、運転大丈夫?」
涼子さんが心配そうに覗き込む。
「え? 全然大丈夫ですよ! だってほら、このまえ東京往復したことを思ったら、それよりは近いですし」
「ああ……、あの時なあ。でも最後の方は和田君も疲れてたやろ? 無口になったし」
「ええまあ、ちょっとは」
たった一日で東京往復をしたあの日は、さすがに疲れて最後の方は何も喋らずに運転に集中していた。涼子さんはそのことを言っているのだ。確かあの時は翌日の朝イチの講義を絶対に休めなくて、僕は何が何でも帰らなければならなかった。
あれからもう二ヶ月近くになるのか……、月日が経つのも早いな。などと感傷に浸ってハンドルを握っていた僕を、涼子さんの声が現実に引き戻した。
「和田君」
「はい?」
声を掛けられたのでチラリと横を見ると、涼子さんは助手席側の車窓を眺めていた。
「和田君、この先の看板に書いてある温泉街、あれってなんて読むん?」
「ああ、
「へえ、
涼子さんはそう言って、後ろに流れて行く看板を見送ったあとに、思いがけないことを口にする。
「なあ、九月の平日なんて、温泉街の旅館もガラガラやと思わへん?」
「まあ、……空いてるでしょうね」
この瞬間、僕の心にはほんの少しだけある種の期待が生まれたのだけれど、そんなことは無いだろうと慌てて自分で打ち消した。
――ところが
「和田君、明日バイトあるん?」
その、ある種の期待を膨らませるような言葉を、涼子さんが言ったのだ。
「いえ……」
まさかなあ、と思いつつも小さな声で返事をすると、そのまさかのセリフを耳にすることになった。
「じゃあ、もし旅館が空いてたら泊まって帰ろっか?」
「えっ!」
僕はさっきの返事に比べて、自分でも驚くほど大きな声を出してしまった。よく前方の赤信号を見落とさずにブレーキを踏めたものだと、後になって思ったほどに。
車が停車したのを確認してから、僕は恐る恐る助手席を見た。そこには含み笑いとも、探るようなともとれる表情をした涼子さんがいた。
「――和田君、いまイヤらしいこと考えたやろ?」
ちょっと目を細めながら、指さし確認でもするように涼子さんに言われた僕は、「なっ、いや、そんなんっ、だって」としか返事ができなかった。なぜなら今年二十一歳になる健康な男子が、『旅館に泊まる』といわれて普通にイヤらしいことを考えない訳はなかったのだから。
とはいえこの夜、そのある種の期待は自然に叶えられて、僕と涼子さんは初めてそういう関係を持った。まさに、なるようになった、というべきだろう。
夜中に目が覚めた僕はすぐ近くにあった可愛い寝顔を見て、本当に涼子さんが自分の恋人になったことを実感したのだった。
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