第21話 全力で走ってくれ


「は……、はあ!?」


 僕は丸椅子から腰を浮かせて久保井さんを凝視した。久保井さんは身体ごと前に倒したままで頭を上げない。


「ちょ、ちょ、ちょっと! なに言ってるんですか? はあああ!?」


 自分の語彙が小学生レベルだと感じながらも、次の言葉が出てこずに僕は口をパクパクとさせた。


 ――涼子を、頼む。


 意味は分かった。それが『東京から連れて帰るときの面倒もよろしく頼む』という、近視眼的な意味合いでないことも分かった。久保井先輩が言っている『頼む』は、先輩と別れたあとの涼子さんのことを僕に頼むと言っているのだ。分かりやすく言えば、涼子さんと付き合え、ということ。


 僕は何秒固まっていただろうか。軽く五秒や六秒は硬直していたはずだ。


 目の前の久保井さんがゆっくりと身体を起こした。僕に正対した目は真剣だ。無精髭が精悍にさえ見えた。


「和田は、涼子のこと好きやろ」


「す、す、すき……って、あ、いや。そんなん、急に……」


 冗談まがいでなく真剣な顔で言われると、僕は返事もできず、久保井さんの目をまともに見ることもできなかった。


「いや、否定せんでもええんや。否定されたら俺が困る。それに……、それに俺が言うてることがお前に失礼な話やということも、俺は分かってる。分かってるけどな、それでも和田やから言えるんや。俺も、周りのヤツらがお前になに言うかくらいは想像できるで。『アイツ、車だけやなくて女も――』みたいなこと言うヤツもおるやろ。そやから俺はここで和田に殴られるくらいのことをされても仕方ないと思ってる。でも――、実際いま顔を殴られたら俺、ヤバいけどな……」


 そう言って苦笑をした久保井先輩は、自分の手で首の固定器具を触った。


「殴りませんよ。怪我してなくたって、僕は久保井さんとそんなケンカなんてしません」


 中腰のままだった僕は、丸椅子に座るか立ち上がるか迷った末に立ち上がった。そしてそのまま窓際まで歩いて外を眺める。今日の東京はよく晴れていて七階の病室からは遠くまで見通せた。

 

「そうか。そうやな、和田はそういうタイプやないな、確かに。なあ和田、ドーナツ、開けてくれへんか」


 振り返ると、久保井さんはテーブルに置いてあるドーナツを指さしていた。涼子さんがサービスエリアで買った、お見舞いの甘そうなドーナツを。


「涼子から最後にもらったヤツやからな、和田と一緒に食べたいんや」


 そう言われて僕は素直にドーナツの箱を開けて、中から小さめのドーナツを取りだした。一つを久保井先輩に渡し、そしてもう一つを自分の手に持つ。久保井先輩はニコリとしたあと、ドーナツをかじった。


 僕も同じように無言でドーナツを口に入れ、久保井さんと僕は一分もしないうちに黙ってドーナツを食べきった。それは端から見ていれば異様な光景だったかもしれない。病室で怪我人と見舞い客がお互いに黙ってドーナツを食べていたのだから。


「美味かった」


 久保井さんの言葉に僕は頷いた。


「美味しかったですね」


「さすが涼子が選んだだけあるわ」


「サービスエリアで買ったんですよ」


「それでも涼子が選んだんや、有り難いやろ」


 言ってから久保井さんはちょっと寂しそうに笑って、指についたドーナツの粉をティッシュペーパーで拭いた。


「で、和田」


 手の中でティッシュをクルクルと丸めて久保井さんが言った。


「はい……」


 僕は次の言葉を予想する。たぶん、当たるだろうなと思いながら。


「涼子のこと、好きやろ?」


「やっぱり、それですか」


 小さくため息をついた僕に、久保井さんは続ける。


「それに決まってるやろ、今日の最重要課題や。和田の返答次第によっちゃあ、俺、首吊らなアカン」


 首の固定具をさすりながらそんな冗談を飛ばした久保井さんに、僕は思わず吹き出してしまった。


「な、和田。俺の首を差し出すから、涼子を、頼むわ」


「もう、さっきから首のギャグばっかりやないですか。はあ……、でも久保井さん……。いや――」


 僕は観念して、久保井さんの前で初めて涼子さんへの気持ちを言葉にした。


「いや、確かに涼子さんのことは綺麗だなと思ってますし、好きといえば、好きですよ。あんな彼女ができたらいいなとか、思ったこともあります。でも久保井さん、涼子さん相手やったら誰でも思うでしょ? それに、頼むとか言われても涼子さんはモノやないんですからね。車を貰うんとは意味が違いますやん」


「だから言うたやろ、お前に失礼な話や、言うて。それに――」


 涼子にも失礼な話やけどな。と久保井さんは続けた。


「でもな和田、この先に涼子が……変な男に捕まったら、和田も嫌やろ?」


「変な男、って」


 僕は久保井さんの言葉で想像した。涼子さんが変な男に言い寄られたり、騙されたりした場合のことを。涼子さんはまた泣くだろうか、久保井さんに別れを告げられた時以上に泣くだろうか。


「変な男って、もう変な男に捕まりましたよ。涼子さん、二年前に。で、さっきその男に泣かされてましたけど」


 思いきり嫌味を言ってやった。すると最初久保井さんはポカンと口を開けて、次にニヤッと笑う。


「な、和田。俺みたいな男にまた捕まるくらいやったら、お前と付き合った方が涼子は幸せやと思うやろ。お前は涼子を、大事にできるやろ」


 久保井先輩の言わんとしていることは分かっているつもりだった。僕だって涼子さんが好きなことに間違いはないし、涼子さんを頼むと先輩に言われれば、何とかしたいと思う。けれど、けれど――。


「あのねえ久保井先輩、でもね。僕はいいとして、涼子さんが……僕なんかに――」


 振り向くはずがない。と言おうとしたときだった。


「和田っ!!」


 思いもかけない久保井さんの怒声ともいえるその声に、僕は思わず息をのんだ。


「和田、俺は二年間やけどお前と一緒におって、お前のことをもっとヤツやと思うてた。本気になったらもっと凄いヤツやと思うてた。いや、今でも思ってる。俺と和田は違う、俺はいつも背伸びして精一杯やってコレや。大学も、就職も。そやけど和田は流してる、勉強にしても、アルバイトにしても、キツい言い方したら生き方自体を流し気味に生きてるやろ、なるようになるわ、って」


 ゴメンな、キツいこと言うて。と続ける久保井さんに、僕は何も反論ができなかった。久保井さんの言っていたことは、当たっていたからだ。


「でもそれはな、それがお前の生き方やからそれでええ。俺は『もったいないな』とは思っても命令なんかできへん。俺ができるんは、お願いだけや。和田、お願いやからこの一回だけでも本気になってくれ。流すんやなくて、なるようになるんやなくて、本気で好きな相手にぶつかってくれ。お前の真価は涼子だってわかってる。頼むから、今回だけでええから全力で走ってくれ。頼む、和田圭輔」


 またしても先輩に頭をさげられた僕は、やっぱりなにも言い返せなかった。

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