第20話 お願い


「涼子さん、泣いてましたよ」


 僕はそう言って、丸椅子の上に座った。ギッという音がして、丸椅子が少し軋む。


「うん、泣かせてしもた。やっぱり俺、そういう男やったんやな。情けないわ」


 久保井さんはそう言うと、大嫌いで飲まないはずのブラックコーヒーのプルタブを開けた。プシュッという音の後に「罰ゲームや」という久保井さんの声が響く。


 首が固定されているので上手に飲むことはできないけれど、久保井さんはブラックの缶コーヒーを口に入れていた。


「うわ、エグッ」


 顔全体をゆがませてから、久保井さんは缶コーヒーをベッド脇にコトリと置いた。僕はそれを眺めながら、小さくため息をつく。


「なあ和田」


「はい」


「ホンマに怒ってええぞ」


 そんな台詞に、僕の心はなぜか落ち着いていく。


「怒りませんよ、っていうか、悲しいです」


「でも和田、お前は分かってたやろ? 少なくとも、なんとなくは」


「まあ、そうですね」


 僕の心を見透かすような久保井さんの言葉には、反論のしようがなかった。


「だってお前は俺のことよう知ってるからな。やっぱり俺は、遠距離やったらアカンのや」


「だったら!」


 一瞬語気を強めた僕を、相変わらず久保井さんは優しそうな目で見ている。


「だったら……、なんでもっと早く涼子さんと話し合いとか、打ち明けるとかせえへんかったんですか? おかしいじゃないですか、久保井先輩やのに」


 その言葉に、うん、と声だけで頷いて、久保井さんは目を閉じた。


「そうやな、たぶん涼子のこと、今までで一番好きやったからかな。なんとかなるんと違うかと思ってた。それに、俺も社会人になるし、今までとは違うと思ってた。そやから、ダラダラ引っ張ってしもた」


「そんなん――」


 そんなん言い訳ですやん! と言いかけて、僕はやめた。いや、やめざるを得なかった。なぜなら久保井さんの目に涙が見えたから。


「久保井さん、……泣いたら卑怯ですよ」


「ああ、卑怯やな。でも、俺、割と涼子に本気やったんやなって、いま気づいたわ。もしここに涼子がおったら、『さっきのウソや』いうて言いそうや」


「今からでも、言うたらええやないですか」


「うん、そうやな。でもそれ言うたら、涼子は先生になられへん。俺にアイツの夢を潰す権利はないからな」


 僕には久保井さんが言っている言葉の意味がわからなかった。久保井さんと涼子さんが付き合い続けることと、涼子さんが先生になれないことの関連が全然思いつかなかった。つまり僕は久保井先輩よりも確実に二歳年下で、それだけお子ちゃまという訳だった。


「なんや、不思議そうな顔してるな」


 もしも首が固定されていなければ、久保井さんはその言葉とともに小首を傾げただろう。


「そうか、やっぱり涼子と一緒で、和田でもわからんかったか。まあしょうがない。俺も真剣に考え始めたんは就職してからやったからな」


 そう言って久保井さんは一度下唇を噛んだ。


「俺は銀行員を辞めん限り転勤がある。二年か三年に一回の転勤や。俺の場合は全国どこに行かされるかわからへん。で、涼子がなりたいんは先生や。先生は基本的に地方公務員やろ。二年に一回転勤する俺について来られるか? 一回くらいは違う県の教員採用試験を受け直すにしても、結局は先生を辞めるんや。まあ、将来のことはわからへんよ、数年で俺が銀行辞めるかもしれんし、先生になった涼子が『教師に向いてない』とかいって辞めるかもしれん。そやけど……、どのみち涼子が東京都とか首都圏の採用試験を受けへんかったら、当分のあいだは遠距離恋愛やからな。涼子に訊いたんや『東京都の採用試験は受けてないやろ』って」


 順を追って話す久保井さんの言葉一つ一つに、久保井さんの悩みや葛藤を僕は感じていた。久保井さんは涼子さんと交際を続けたその先を本気で考えていたのだ。そして僕は知っていた、涼子さんは東京都の教員採用試験なんて受けていないことを。


「受けて……ないですよね。涼子さん」


「うん。そない言うてた。そやから、もう別れた方が涼子のためや、って俺が言うた。俺のことは忘れて欲しいとも言うた。涼子のことは好きやけど、ゴメンな、って言うた。フフッ……、ホンマに情けないな、俺」


 やっぱり久保井さんは久保井さんだった。僕の考えていた通りに行動をしていた。


 ただ四ヶ月引っ張ったところに、久保井史哉という人の涼子さんへの未練を感じた。もしかするとこんな事故がなければ、あともう少し未練が長引いたのかもしれない。けれど結局久保井さんは涼子さんに別れを切り出していたのだろう。そんなことを確認しなくても、僕にはわかっていた。


「久保井さん、ひどいですね。それやったら……、いや、いいです」


 思わず僕は言いそうになってやめた。それやったら都市銀行じゃなくて、転勤が限られる地方銀行にすれば良かったのに、と言うのを。


「そうやな。地銀とかにしてたら別れんで済んだかもな」


 僕の考えを読み取ったように久保井さんが言う。僕は呆れてしまって肩をすくめた。


「久保井さん、せっかく僕が言うのをやめたのに……。まあしょうがないですよね。商社か都市銀行ってずっと言ってましたもんね、久保井さん」


「やっぱり和田、お前は優しいわ」


 フフフ、と久保井さんは自嘲気味に笑う。


「それでな、その優しい和田にお願いがあるんや」


「お願い……ですか? なんです? ブラックやないコーヒー買ってきましょうか?」


 僕はもう久保井さんには怒っていなかったし、ブラックコーヒーを飲ませたことを少し可哀想だとさえ思い始めていた。だから少し笑いをとろうとボケてみたのだけれど。


「ああ、お願いや。和田に、涼子を頼みたい。涼子を他の男にとられるんは嫌やけど、和田やったら納得できる。いや違うな、俺より和田の方が涼子には合ってる。涼子を、頼む」


 久保井さんは首を固定したまま、身体を倒すようにして僕に頭を下げたのだった。

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