第19話 ブラックコーヒー
僕は久保井さんの側から離れ、背を向けて個室の出口に向かった。
ドアのところで振り返ると、首を固定された久保井さんは優しい目で僕を見ていた。そして涼子さんは、その隣で不思議そうな目をしていた。さっきのコーヒーの話が、涼子さんには意味不明だったのだろう。
「じゃあ、ちょっと行ってきます」
少し微笑んで引き戸を閉める。その瞬間に見えた涼子さんの安心したような顔の残像に、僕は胸がギュッと締め付けられた。
僕の予感が正しければ、そして久保井史哉が久保井史哉であったならば、おそらく次に会った時の涼子さんは泣いているはずだ。さっき久保井さんと再会して泣いた時とは、まったく別の意味で。
引き戸を閉め切った僕は大きく息を吐き出した。僕は涼子さんの泣き顔なんて見たくないし、僕だったらこんな時に決断なんてしない。
けれどこれが久保井先輩なんだと、改めて思った。そしてこの結果を予想していたんじゃないかと、僕は自分で自分を責めた。結果的に涼子さんを泣かせるのは自分なんじゃないかと。
P.V.Cの白い床は相変わらずゴム底と擦れて、歩く度にキュッキュと鳴った。ナースステーションの辺りでお見舞いと思われる見知らぬ三人組とすれ違う。その三人組が口々に、「よかったな、元気そうで」などと言い合っているのが僕には妬ましかった。
△
エレベーターで一階まで降りて、僕は自動販売機を探した。
何台か並んでいる機械のうちで、ブラックのコーヒーを置いている自動販売機を探す。久保井さんはブラックのコーヒーを飲まない。ゼッタイに飲まないのだ。
僕は百円玉を入れると、迷わずに冷たいブラックコーヒーのボタンを押した。ガタン、という音とともに真っ黒の缶が落ちてきたのが見える。僕は半分腰をかがめてその黒い缶を取り出して、またため息をついた。いま、涼子さんはどんな気持ちで久保井さんの話を聞いているのだろうと想像をして。
日曜の病院はなんだか不思議な空間だった。平日なら人で混雑しているはずのロビーは静かで、長椅子に座っている人も数人だけだ。自分が歩いた足音が天井に跳ね返って気味が悪い。その天井に設置されたスピーカーからは、呼び出しコールも何も鳴る様子もなかった。
僕はしばらくロビーで待ったあと、もと来た通路を戻り再びエレベーターに乗った。腕時計を見ると十五分くらいは経っただろうか。それを見た僕は、もっと時間を掛ければよかったと、ちょっと後悔をする。
ポーン、という電子音ともにエレベーターが開いた。七階、僕がボタンを押した通りにドアは開く。
僕は意図的にゆっくりと廊下を進んで、ナースステーションのところまで歩いた。そんな僕の目の端に長椅子が映る。四人掛けくらいの茶色い長椅子で、どこにでもある背もたれのないタイプだ。それが無機質な廊下の壁際にポツンと置かれていた。
「はぁ……、ここで、待とう」
誰に許可を得るものでもないことなのに、僕は独り言をいって長椅子に座った。
△
ここから7021の個室までは十メートルくらいだろうか。涼子さんが部屋から出てもすぐに分かるし、誰かが入ろうとしてもすぐに分かる。
できれば他のお見舞いの人には来て欲しくない。と、そんなことを思いながら僕は長椅子に座っていた。
手に持っているのはブラックの缶コーヒー。それをクルクルと回し、意味もなく成分表を確認する。カロリーはゼロ、ナトリウム一ミリグラム、カリウム六十ミリグラム、糖類はもちろん――。僕がそこまで読み取ったときだった、左の耳にカラカラと乾いた音が聞こえた。
聞こえてきた音の方角は7021の個室の方。身動きの出来ない僕の左耳に、パタン、と力なく引き戸の閉まる音が続いて聞こえる。
キュッキュと床を鳴らして個室の方から誰かが来た。それが誰か僕にはもう分かっていた。涼子さんだ。涼子さんがゆっくりとこっちに歩いて来ているのだった。
足音が僕の前で止まる。僕は、やっぱりブラックの缶コーヒーから顔を上げられない。そんな僕の頭の上から、鼻を啜る音が降ってきた。
「和田君……、久保井さんが……呼んでる」
鼻に掛かった泣き声。それは間違いなく涼子さんの声だった。
身動きの出来ない僕は、満足に返事すらできない。
涼子さんはそんな僕の隣にストンと座った。僕にはもう涼子さんがどこかへ走って行ってもらった方がマシに思えた。けれど涼子さんは僕の隣で「……久保井さん、呼んでるよ」と、消えそうな声でもう一度囁いたのだった。
「……はい」
僕が顔をあげてゆっくりと隣を見ると、涼子さんの綺麗な頬には涙が幾筋も光っていた。
△
「和田、……ありがとう」
無言で引き戸を開けた僕に、久保井さんは窓の方を向いたままで言った。
僕は何も返事をすることなく部屋に入り、久保井さんのベッドに近づく。久保井さんは僕が近くまで来た気配を確認したかのように、身体をこちらに向けた。
「俺、ブラック飲まへんのやけど」
久保井さんの視線が僕の左手に注がれる。もちろん手に持っているのは黒い缶。僕はそれを突き出すように前に出して、久保井さんのベッドに転がした。
「だから買ってきました。ダメですか?」
転がったブラックの缶コーヒーをちょっと眺めて、久保井さんが微笑をする。
「和田、アレやな。怒ったら完全に東京弁になるんは、変わってへんな」
「怒ってません」
「ほら、怒ってるやんか」
「怒ってないです!」
「ホンマに……、怒ってへんか? 俺は怒ってもええと思うぞ、こんな時は」
久保井さんはそう言って、再び微笑を浮かべたのだった。
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