第22話 割と本気を出した
◇ ◇ ◇
廊下の長椅子のところに、涼子さんはもういなかった。
僕と久保井さんが病室で話していたのはどれくらいだっただろうか、多分二十分くらいだったような気がする。さすがに待ち切れなかったのか、それともこんなところで泣き顔のまま座っていられなかったのか、とにかく長椅子のところに涼子さんはいなかった。
僕はエレベーターの前まで進んで、下へ向かうボタンを押した。ポーンという音とともに扉が開く。中には誰も乗っておらず、僕は指で一階を押してからため息をついた。
「全力って……いわれても」
全力で走ってくれと言われても、ダラダラ生きてきた人間がいきなり全力疾走できる訳がない。肉離れを起こすのに決まっている。
けれど久保井さんの前ではそんなこと、言えなかった。久保井さんが泣いていたからだ。
僕は人生の中で女性に告白したことなんて一度もない。そう、ただの一度だってない。どう言えばいいのかわからないし、できれば向こうから言ってくれないかな、などと思いながら生きてきた人生だ。それをなんとかしろなんて、久保井先輩に強要された罰ゲームの中でもぶっちぎりで難易度が高いと思った。
「でも罰ゲーム……って、違うよな。本当の罰ゲームは、涼子さんに別れを言った久保井さんの方が罰ゲームやったんやな。僕は、全然罰ゲームやない」
誰もいないエレベーターの中で僕は自問自答をした。
これは罰ゲームなんかじゃなくて、久保井さんからバトンを渡されたリレーなんだと考えた。久保井さんは本気で走った、だから僕にも本気で走れというメッセージ。人生で、この一回くらいは本気で走れ、という久保井さんからの発破。
再びポーンという電子音が鳴って、扉が開いた。エレベーターが一階についたのだ。一階のロビーはさっきと同じような感じで、広い割には静かだった。ただ先ほどと違っていたのは、並んでいる長椅子に涼子さんが座っていたことだった。
△
「私、振られた……」
僕が近づいた気配が分かったのだろう。涼子さんは顔をあげて、まだ赤く充血した目で僕に言った。
「なんとなく、そんな気はしてたけど……。振られた……」
そんなことを呟く涼子さんに、ここでも僕は何も言えなかった。さっきからずっと、久保井さんにも涼子さんにも言うべき言葉が見つからない。
「和田君、なんか……言うてよ」
「はい……」
「私……、ホンマに振られたんやから。なんか、言うてよ」
涼子さんは俯いて、鼻を啜り始めた。こんな状況に身を置かれるなんて、やっぱり罰ゲームなのかなと思ったけれど、泣いている涼子さんだってかなりの罰ゲームだ。僕よりもずっと悲しい罰ゲームだ。だから僕は、自分が今からすることは罰ゲームなんかじゃないと信じて、口を開いた。
「涼子さん」
僕の言葉に、涼子さんの肩がピクリと反応した。彼女の前で『涼子さん』と呼んだのは初めてだった。
「和田……君?」
赤い目をした涼子さんが僕を見上げる。
「涼子さん。僕は、久保井史哉とは違います。久保井さんみたいに格好よくもないし、前向きでもないし、人生を真剣に生きてる訳でもありません。ただ、涼子さんのことを好きな気持ちは、久保井さんに負けないくらいにあります。僕は、自分が久保井さんの代わりになんてなれないことは知っています。でも、それでも僕でよければ、これから涼子さんの隣にいさせてください」
言い終わってから、果たしてこれで伝わったんだろうかと僕は不安になった。付き合って欲しい、と直接的に言ったほうが良かったんじゃないかと、後悔をし始めたときだった。
「わっ……、和田君。それ、久保井さんに、言われたん?」
予想外、といえば予想外の質問が涼子さんから飛んできたのだ。
「え?」
「そやから、久保井さんに、『言え』って言われたん、かな?」
言え、と言われたかどうかといえば、答えはノーだ。久保井さんにお願いはされたけれど、強要はされていない。それに『言え』と言われて告白しました、なんて情けない。もう一旦言葉にしてしまったものなら、久保井さんが言うように全力を出してやろうという気持ちに、僕はなっていた。
「いえ、久保井さんには、『お前は涼子のこと好きなんやろ』って言われて、僕もそれには気づいてて。だから、最終的に結論を出したのは僕です。他の誰の責任でもありません。僕が涼子さんを好きだから告白しました」
自分でも思っていたよりもハッキリと言えたと思った。けれど――。
「和田君……、めっちゃ標準語で、顔も怖いけど、怒ってるん?」
涼子さんがちょっとだけ怯えたような目をして、僕を見上げている。
「え……、いや、そんな、怒ってなんかないですよ。僕が宮本さんに怒るわけないじゃないですか!?」
「あっ、宮本さんに戻った……」
「なっ……。もう、からかわないでください。今まで生きてきた中で、割と本気を出したんですけど」
僕は小さくため息をついて涼子さんの隣に座った。涼子さんも涼子さんで、大きく息を吐き出す仕草をしている。
そうしてしばらく座ったままで時間が経ったのだけれど、涼子さんからの返事も何もないことに、僕は段々焦ってきた。ダメならダメで、全力疾走が肉離れで終わりました、という僕らしい結果でお似合いじゃないかとさえ思え始めてくる。
そんなことを考えていた僕の思考が伝わった訳ではないのだろうけれど、涼子さんが、ふう、と小さく息を吐き出してから僕の方を向いた。チラリと顔を見ると、真っ赤だった目が元に戻ろうとしていた。
「なあ和田君?」
「はい」
「いまの返事って、ちょっと先でもええかな」
涼子さんのその言葉は、僕に嫌な予感しかさせなかった。直感的に十中八九がお断りの返事だと思った。
「ええ、もちろんいいですよ」
僕は見栄を張って立ち上がり、ポケットの中から車のキーを取り出す。とはいえ、これから帰りの七時間とか八時間、車の中では針のむしろだと思うと僕の心はドップリと沈んだ。
「それで和田君、あの……、ここから東京タワーって、行ける?」
「へっ?」
まったく今までの話題とは関係のない話を切り出した涼子さんに、僕は面食らって変な声を出してしまった。
「さっき、病室から見えてたんやけど、行きたいなと思って」
「ああ、見えてましたね。ここから三十分も……掛からないと思いますよ。じゃあ東京タワーに行きますか?」
帰り道にプラスして針のむしろの東京タワー見物かと感じながら、僕は車のキーを指に引っかけてクルクルと回したのだった。
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