第09話 ポッキーと長電話
◇ ◇ ◇
涼子さんから貰った唐揚げは翌日に、そしてカレーも三日目には僕の胃袋のなかに消えていった。
残ったのはガラス製のタッパー二つ。大きさは二十センチ四方よりもちょっと小さめの、プラスチックの蓋が付いたタッパーが二つ僕の手元に残った。
僕はそのタッパーを綺麗に洗って、そして乾燥させた。油分なんて残さず、指でこするとキュッキュと音がするまでスポンジで磨いた。
すぐにでも返そうかと思ったけれど、アルバイトもあったし学校も当然ある。夜中に返しに行くのはいくらなんでも失礼だと思って延ばしているうちに、あっという間に一週間が過ぎたのだ。
次の日曜日は先週がウソのような晴天になった。この天気だとスタジアムのアルバイトは絶対にある。アルバイトに行くまでに涼子さんの部屋に寄って、と計画だけは立てたものの結局計画は計画倒れに終わり、二つのタッパーは僕の車に積まれたままで日曜は終わってしまった。
結局涼子さんにタッパーを返したのは二週間後になった。つまり、六月も月末になろうとしていたのだった。
△
よし今日こそは返すぞ、と僕は昼頃に家を出て、涼子さんのアパートへと向かう。梅雨明けはまだもう少し先という感じで、空はなんとなく曇っていた。雨が降らなきゃいいけどな、と思いながら僕はハンドルを握っていた。
涼子さんのアパート近くに路駐をして、タッパーの入った袋を持って階段を上る。『返すの遅れてすいませんでした』と謝らなきゃな、とか思ったり、『美味しかったです』ってお礼を言う方が先か、とか思ったりしながら僕はピンポンを押した。
この時僕は完全に思い込みをしていたのだ、涼子さんは部屋にいるものだと。
「ん?」
ドア横のピンポンを鳴らしても、中からの反応は無かった。もう一度鳴らす、やっぱり反応は無い。時間は昼の二時、涼子さんは不在だった。
「留守かあ……」
僕は思わず顔をしかめてしまった。完全に予想外。どうしようかと手にブラさげているタッパーを見つめる。
「出直すのもなあ……」
首を捻った僕の目に入ったのは、ビニール袋を引っかけるのに具合の良さそうなドアノブだった。
△
「これでヨシ! なのかなあ……。まあ物騒といえば物騒だけど、中身はタッパーとポッキーだしなあ」
約十分後、僕は再び涼子さんの部屋の前に立っていた。コンビニに行って涼子さんの好きなポッキーを数種類買って、タッパーに入れたのだ。
ドアノブに引っかけたポッキーの入ったタッパーは、固定されている訳ではないけれど、どうみても落ちそうにはない。悪意ある誰かが持ち逃げでもしない限り、涼子さんが帰って来るまでここにいてくれるはずだ。
僕は「ごちそうさまでした」と一礼して部屋の前を去った。
△
反応はその夜にあった。涼子さんから九時過ぎに電話が掛かってきたのだ。
僕が日曜九時のドラマをダラダラと見始めると、電話が鳴った。出てみると相手は涼子さん。挨拶もそこそこにタッパーの話を切り出す。
『ごめん和田君、もう、ポッキーなんて気を遣わんでもよかったのに!』
涼子さんはそう言って、「でももうさっそく一個開けたんやけどな」と笑っていた。
「いや、僕の方こそ二週間も経ってから、すいません」
僕が謝ると、「そんなん良かったんやで、同じタッパーまだ二個あるし」と多分涼子さんは僕を気遣ってくれた。電話をしはじめた僕の後ろでは、ドラマが始まっていた。
『あっ、そうか。もう九時や!』
なにかに気づいた涼子さんが電話口から遠ざかった。そして帰って来て僕に言う。
『なあ和田君もそのドラマ見てるん?』
「ああ、聞こえました?」
僕は振り返ってテレビ画面を見た。電話口から聞こえて来る音声と微妙にズレて台詞が聞こえてくる。
『あんな、私先週見逃したんやけど、どうなったん、アレ?』
「先週ねえ、僕、アルバイトやったから見てへんのですけど……、録画はしてたんですよねえ。でも、まだ見てへんのですけどね」
ぶっちゃけた話、僕は飛ばしてしまったドラマでもそのまま見続けるタイプだった。でもまあ一応録画はしている訳で、それはどうしても見たい場合に備えてのことだった。
『ええ! 貸して貸して』
電話口の向こうで涼子さんが叫ぶ。
「はあ、いいですけど……」
と、そのまま僕と涼子さんはドラマを見ながら電話を続け、結局十時前まで電話は切れなかった。
こういう電話の仕方を僕は同級生の田口とよくしていた。野球の試合を見ながらとか、音楽番組を見ながらとか、もちろんドラマを見ながらとか。同一市外局番だから三分で十円、三十分で百円。
涼子さんも市外局番は同じだった。だから今回は涼子さんが二百円払うのか、と僕が時計を見ながら思っていると電話はまだ続いた。
教員採用試験がもう始まっていることや、涼子さんが四国と関西の両方を受験していること。実は今日も筆記試験があったのだけれど、あまり自信がないことなどをポッキーの音を響かせながら僕に喋ったのだ。
涼子さんがこんなに電話が好きだなんて僕は知らなかったし、先生になるのも大変なんだなと思い始めていた。ところ、が――。
『なあ和田君。久保井さんから……和田君にも電話なんかないやんなあ……』
話のネタが途切れた瞬間を狙ったように、涼子さんは僕に訊いてきたのだ。僕は一瞬にして緊張したけれど、無いものは無いとしか言いようがない。
「うーん……、ないですね。宮本さんにないくらいやったら、僕のところに掛かってこないと思いますよ」
涼子さんをフォローするつもりでそう言うと、涼子さんも『そうかなあ』と呟いて黙り込む。
「宮本さん、電話掛けてみたらどうです?」
『うん、掛けたんやけどな、誰も出えへんかったんや』
「ああ、やっぱり忙しいんでしょうねえ」
素直に僕は久保井さんが忙しいのだと思うようにする。
『留守電に入れたんやけどな、元気ですか、って』
その涼子さんの言葉に僕は胸が詰まった。それでも返事がないということは、もしかしたらそうなのかも知れないと思いながら。
「僕も入れましたよ、車の譲渡証明の時に。『返事ください』って入れても、結局僕が掛けるまで掛かってきませんでした。ハハハ、だから、多分、いまは……」
僕は咄嗟に嘘をついた。涼子さんを傷つけないために。本当は留守電なんかにメッセージを入れたことはない。
『やっぱり忙しいんかなあ』
涼子さんの声がほんの少し明るくなった。それに反するように、僕の胸には痛みが走る。
「ああ、そうや宮本さん。前期考査が終わったら、東京行きます? 久保井さんに『来いや』って言われてましたし、僕の名義になった車、見せに行こうかな、とか思ったりして」
久保井先輩に『来いや』と呼ばれていたのは事実だけれど、それは四月の終わりで、もう二ヶ月も前の話だった。けれど僕にはそれくらいしか涼子さんに言えなかった。
『あっ、うーん、そうやなあ……。うん、前期考査と――』
涼子さんは前期考査と採用試験のスケジュールを見ておく、といって長電話は終わった。
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