第10話 ストレス

◇  ◇  ◇


 教員採用試験が始まっているのなら、あんまり邪魔しないようにしようと、僕は『貸して!』と涼子さんに言われたビデオテープを、この前と同じようにドアノブに引っかけることにした。やっぱりポッキーを一緒に入れて。


 すると、当然そのリアクションは一両日中には返ってきて、やっぱり長電話をすることになった。話題はおもに涼子さんの教員試験に対する悩みや、繰り言だったのだけれど。


『あんな和田君、来週末は試験も何もないんやけど、気晴らしにカラオケでも行かへん!? それとももう前期考査?』


 それは突然のストレス発散へのお誘いだった。口調からして涼子さんは相当ストレスが溜まっていそうな感じがした。


「えっと、来週の週末……」


 僕は立ち上がってカレンダーを見る。来週末はプロ野球の試合があった。つまりはアルバイトがある。けれどまだシフトを変えて欲しいといえば何とかなる日程だ。


「ああ、いいですよ。前期考査はその次の週の金曜日からなんで、まあ大丈夫やと思います」


『ホンマに! なんか久しぶりやわ~、もう二ヶ月以上もストレス発散してへんし!』


「溜まってそうですね、宮本さんのストレス」


『もう、メッチャ溜まってる!!』


 の部分にかなり力が入っていた。そのストレスの原因の一部は久保井先輩のことなのだろうと想像はしたけれど、そんなことを言えるはずもない。


 僕は来週土曜の夕方くらいに迎えに行きます、と約束をして電話を切ったのだった。


 △


 その約束の土曜日、天気は朝から雨が降ったり止んだりで、とりあえず午前中に洗濯をした僕はベランダではなく部屋の中に衣類を干した。


 実は前日に同級生の田口が部屋に来ていて、僕はよほどのこと田口にも『明日、宮本さんとカラオケ行かへんか?』と誘おうかと思った。いままで涼子さんと行ったカラオケは久保井さんと合わせて三人か、もしくはもっと大人数の集団だったのだ。


 僕は二人きりで涼子さんとカラオケに行ったことなど無かったし、田口のことを涼子さんもよく知っていたので『三人で行ったほうが……』などと最後まで悩んだ。


 けれど結局僕は田口には何も言わず、田口も深夜に何も知らずに帰っていった。


 昼までに洗濯をして、部屋の掃除を済ませ、そのあとカップラーメンを食べて少し寝た。昨夜田口が帰ったのが午前二時くらいだったので、僕もちょっと眠たかった。


 目覚ましの音で起きると、時間はもう午後三時になっていた。エアコンのタイマーが切れていて、部屋干しした洗濯物の関係かどうなのか、湿度の上がった部屋で僕は結構な寝汗をかいていた。


「ああっ、もうっ!」


 とにかく汗臭いままで涼子さんのところへなんか行けない。僕は自分自身に八つ当たりをしながらシャワーを浴びたのだった。


 △


『ゴメン! ちょっとだけ待って!』


 四時過ぎに涼子さんのアパートに着き、僕がピンポンを鳴らすと、しばらく間があってそんな返事がスピーカーから返ってきた。もちろん声は涼子さんの声だったのだけれど、どこか焦っている感じはあった。


 数分間待っただろうか、涼子さんの部屋の鍵の音が響いて、ガチャンとドアが内側から開いた。


「おまたせ、ちょっと準備するから入って待っとって」


 内側から顔を覗かせた涼子さんの頭には、大きなヘアバンドのようなものが巻き付けられていた。うわっ、もしかしてシャワー浴びてたのかな、と少し後悔をしながらドアの隙間から首を突っ込むと、やはりと言うべきか、風呂上がり特有のいい匂いが玄関にも充満していた。


 この状態の部屋に入るのはヤバイ……かな。涼子さん、今から髪を乾かしてメイクとかする……よな。


 そう感じた僕は、「ちょっと路駐が心配なんで、車で待ってます。急がなくてもいいですよ!」とだけ告げて、返事も聞かずにドアを閉めたのだった。


 △


「もうっ、気を遣いすぎと違う? 和田君」


 僕が車で待ち始めてキッチリと十五分後、涼子さんが助手席のドアを開けてそう言った。いろいろ反論をしようと思って涼子さんを見た僕は、反論なんて忘れて思わず呟いてしまった。


「り、あ……、宮本さん、髪、切ったんですか?」


 思わず涼子さんと言いかけて、僕は慌ててストップをかける。なにしろ涼子さんの髪の長さが半分くらいになっていて、ビビってしまったのだ。


「うん……。やっぱり、変?」


 涼子さんが髪を触ると、車内にはシャンプーの香りが広がっていく。


 この前会った時の涼子さんの髪は、記憶が正しければ背中の真ん中より下くらいの長さがあった。それが今の涼子さんの髪は鎖骨の下くらいで切りそろえられている。ちっとも変ではないけれど、見慣れたロングヘアではない涼子さんは、なんだか涼子さんではないような感じもした。


「いえ……、全然変じゃないですよ。でも、なんで……」


 そんな僕の質問などとっくに予想していたのだろう。涼子さんはちょっとため息をつきながら事情を説明をしてくれた。


「あんな、面接試験の時に、あんまり長い髪やったら印象悪いとかいう話を聞いて。まあ、確かに小学校の先生で私くらい髪の長い先生って見たことないなあ、って思って、……切った」


 、の部分だけやけに残念そうな口調になった涼子さんは、そのあと「やっぱり変?」と僕を見る。


「いえ、全然変じゃないですって。でもそうか……、確かに企業面接でも男のロン毛は……おらんような気がしますね。よっぽどユニークな会社やない限り」


 ましてや教員採用試験の面接だ。たとえ優秀な受け答えをしても真っ赤に染めた髪でアウト、なんてことがあっても不思議じゃない。涼子さんの髪は確かに長かった。余計な心配といえば余計な心配かもしれないけれど、髪の長さで印象が悪くなるのを避けたいという涼子さんの気持ちもよく分かった。


「先生になるのも大変ですね」


 僕がため息交じりに言うと、涼子さんも同じように息をフウッと吐く。


「うん……、でも民間の就職と比べてどうなんやろ、とか思うけどな。まあ、来年になったら和田君も分かるって、このストレス!」


 そう言ってニヤッと微笑む涼子さんは、なぜかちょっと嬉しそうだった。

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