第32話  ’93 私が男の子の友達を作っても、センパイはええんかな?

◇  ◇  ◇


「ちょっ、ちょっとセンパイ、靴っ、靴っ!! 待って、ちょっと待って!!」


 真新しい紺色のスーツを着た小夜ちゃんが、僕の後ろで可愛らしくも慌てた声を上げた。どうやら履き慣れない革靴が、坂道の途中で脱げてしまったらしい。


 小夜ちゃんは靴を拾いに行きたいけれど、着慣れないスカートスーツに履き慣れない革靴の装い。そのうえ坂道の途中では片足跳びで取りにも行けない様子だった。


「しょうがないなあ」


 僕は坂道をちょっと下って彼女のもとに歩み寄り、少し離れたところに転がっていた革靴を片手で拾った。


「だってこんなん着慣れてないし、革靴なんか履いたことないし」


 頬をプクッと膨らませてちょっと拗ねたようなその顔は、まだ高校生の女の子だ。大人っぽくなったとはいっても、着慣れない紺色のスーツよりも高校セーラー服の方がまだ似合いそうな感じ。


 そういえば高校に入って来たときの小夜ちゃんを見て、まだ中学の制服のほうが似合いそうだと僕は思ったっけ。


 と、そんなことを考えながら僕は、小夜ちゃんに肩を貸して革靴を履くのを手伝った。


「うん、オッケー、センパイありがと」


 小夜ちゃんはそう言ってニコッと笑い、今度は僕の腕を掴んで正門の坂道を登りだした。


 残念ながら今年の桜はもう散り始めていて、入学式まで綺麗な満開がもたなかった。


 小夜ちゃんの他にも新入生の子たちが坂を登っている。親子連れ、友達同士、たまに一人という子もいるけれど、在学生と新入生という組み合わせはなかなかに珍しいと思う。普通の在学生はサークルや部活の勧誘で、チラシを配ったり声かけをしたりしているのだ。


「なあセンパイ……。あとで、さっきのマンガ研究会のチラシ貰って……きて」


 小夜ちゃんは微妙に僕から視線を外してそう言った。


「俺が? この格好で? 在校生やのに?」


 今日の僕は普段着だ。自分が入学式に出るならいざしらず、小夜ちゃんの付き添いに去年着たスーツを引っ張り出すこともない。


「ええやんか、今日ぐらい甘やかしてくれても!」


 また、小夜ちゃんがプクッと膨れた。


 ホントに、なのだろうか、と僕はふと思った。去年の年末に仲直りして以来、僕は以前にも増して小夜ちゃんには甘くしているような気もするのだが……。


 例えば、絶対にツルッと滑らないように小夜ちゃんをエスコートした初詣の凍った道とか、一年ぶりに受験生に戻ったつもりで一緒になって解いた数学の勉強とか、あとは受験日当日の送り迎えとメンタルケアーとか……。


 でもまあしょうがない、仲直りをするときに『今度は小夜ちゃんのことを、絶対にもっと大事にする』と、僕は約束をしたのだから。


 手始めにいま僕の心の中には、小夜ちゃんに手を出すのは彼女が二十歳になった時にしよう、などと守れるかどうか自信の無い誓いを立てている。どうして二十歳なのかといっても、それくらいならもういいんじゃないかという漠然とした考えだけで、ほかに特に理由は無い。


 でも、ただなんとなく僕は感じていた。僕の本心はまだ小夜ちゃんを可愛い妹の延長で扱いたいのだ、と。あの日の夜、部屋のゴミ箱に捨ててあったいちごヨーグルト味のピクニックを見つけた時のような、大切な何かを失った気持ちにはもう絶対になりたくはないのだと。


 そんなことを考えていた僕の隣で、小夜ちゃんは歩きながらちょっと寒そうに肩を揺すった。僕は自分の着ていた薄手のコートを脱いで彼女に着せる。


「な、小夜ちゃん、言うたやろ。羽織るもんがいるって」


「だって、このスーツ結構温かそうやったんやもん。でも、ええん? センパイは、寒ないん?」


 上目遣いで僕を見上げる小夜ちゃんに、たとえ自分が寒いからといって『やっぱり返せ』なんて言える僕な訳がない。


「ええで、大丈夫。あとでマンガ研究会のチラシも貰って来るし、入学式とオリエンテーションが終わるまでは図書館で待ってる。ああ、でも昨日も言うたけど、ちゃんと新入生同士の友達とかも見つけとかなアカンで。えっと、なんやったっけ、オリエンテーションの後にあったヤツ」


「新入生の歓迎会、みたいなヤツ?」


 疑問と確認が混ざった感じで小夜ちゃんが小首を傾げる。


「そうそう、それそれ。それにも出たらええと思う。俺、一応去年はそこでちょっとは友達できたから」


 そんなことを僕が言うと「ふーん」と、なんだか小夜ちゃんは僕を試すような目になった。


「じゃあセンパイ、ええんかな?」


 続いて口から出た小夜ちゃんの声は、なんだか意味深な口調になっていた。


「なに……が?」


 僕が慎重に尋ねると、小夜ちゃんは一転していたずらっぽい目に変わる。


「私がさっそく男の子の友達を作っても、センパイはええんかな?」


「えっ……」


 僕は一瞬固まって、その場で歩みを止めてしまった。小夜ちゃんが、男子の友達を作っても……。


 「ええんかな?」と言われて、「どうぞどうぞ、いいですよ」と簡単に言えるほど僕は自信家ではない。けれど、「ダメ」というのは、あまりにも男として狭量な気がする。


 情けなくも一~二秒ほど悩んでしまっただろうか。そんな僕の耳にクスクスと笑い出す小夜ちゃんの声が聞こえてきた。


 気がつくと、隣を歩いていたはずの小夜ちゃんが僕の前に回り込んでいた。


「センパイ、心配せんでもええで。センパイ以上に優しくて、センパイ以上に私のことを想ってくれる男の人やなかったら、乗り換えたりせえへんから」


 ニッと笑ってそんなことを言う小夜ちゃんを、僕は抱きしめたくなった。でもここはグッと我慢をしなければならない。なんといっても入学式当日の大学の構内なのだから。


 そのかわりに僕は小夜ちゃんに言った。


「そっか、確かにそんな男に出会う確率なんか、砂漠で宝石を見つけるようなもんやからな」


 すると小夜ちゃんは吹き出した。可笑しそうに目が笑っている。


「なにセンパイ、自分のことを砂漠の宝石やと思ってるん?」


 なるほど、確かに言われてみれば、意味合い的にはそうかもしれない。


 ――ということは。


 『いや、俺は小夜ちゃんを砂漠の中の宝石やと思ってる』と、そんなことを口に出す直前で、僕はなんとか踏みとどまった。さすがにこれは恥ずかしい。


「よう見つけたもんやな。お互いに」


 僕はこれだけを言った。それを聞いた小夜ちゃんは「ん?」という表情をしたあとで、うん、と頷く。


「ホンマに。な、センパイ!」


 小夜ちゃんの伸びた黒髪に、風に運ばれてきた桜の花びらが一枚、フワッと舞い降りた。


<②『先輩からもらったコンドームのせいで彼女と後味の悪いことになってしまって、こんなことなら捨てておけばよかったと思った話』:終わり>

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