第21話   〃 僕の頭は空白になった

 僕の手に引き寄せられて、目の焦点が合わなくなるほどに小夜ちゃんの顔が近づいてきた。小夜ちゃんは戸惑ったようにゆらゆらと瞳を動かしたけれど、やがてゆっくりと瞼を閉じた。


 唇と唇が触れる。僕の味覚は、小夜ちゃんが食べていたミートスパゲティの残滓をかすかに感じ取った。僕の頭の中の冷静な部分が、小夜ちゃんは僕が食べていたトンカツの味を感じているのだろうか、などと自分の感情の高ぶりに邪魔をかける。


 キスをしていた唇を離すと、小夜ちゃんは目をつむったままだった。身を硬くはしていても、決して僕を拒否してはいない。僕は生唾を飲み込むと、もう一度彼女の唇に自分の唇を重ねた。


 冷静な僕と、興奮した僕が、自分の中で殴り合おうとしていた。とはいっても冷静な僕はまったくもって劣勢で、例えていえば殴られっぱなしのサンドバッグ状態。もう多分このまま最後までしてしまうんだろうな、と冷静な僕がノックアウトされる様子を、更に冷静なボクが眺めていた。


 もしかして多重人格なのかな、と更に冷静なボクは自分の行為を天井から眺めているような気分になる。なんだかもうよく分からなくなっていた。


 興奮状態の僕は小夜ちゃんの華奢な体を抱きしめて、唇を重ねていた。狡猾にも彼女を怖がらせないように力をセーブしながら。でも興奮した僕は初めて感じる小夜ちゃんの体の柔らかさにますます昂ぶっていて、もう下半身などは痛いほどに張っているのだ。


 Tシャツの上から触った胸は予想していた通りに、僕の手のひらに収まるほどだった。そんなことは分かっていたけれど、のぼせてしまった僕はそのことを確認するように何度も手のひらを動かしている。


 そんな様子を天井から眺めているボクは、なんやコイツ、イヤらしい、アホか、などと冷静に突っ込みを入れ、そしてノックアウト寸前の理性に向かって、まあしゃあないかな、とこれもまた冷静に言っていた。


 女性経験のなかった僕は、この先どうすればいいかなんて自分の勘に頼るしかなかった。服を脱がすのかと思ったけれど小夜ちゃんの着ていたのはTシャツで、脱ぐのには彼女の協力が必要だった。だから僕は小夜ちゃんの足の方へと手を伸ばし、彼女の履いていたキュロットスカートの腰の部分から先へと指先を入れようとした。


 そんな僕の行為にノックアウト寸前だった僕の理性は、いい加減その先はやめろ! と虚しく叫んで、天井から見ていた更に冷静なボクは、もうちょっと後先考えろや、と呆れていた。


 ただもう興奮した僕は止まらなかった。いや、止まったら終わりだと、自分に言い聞かせていたのだった。バカみたいに。


 震えそうな僕の指先に、小夜ちゃんの柔らかい肌と下着の感覚が伝わっていく。爪の方には下着の布の感触が、そしてより鋭敏な指の腹の部分には初めて触る小夜ちゃんの皮膚の温かさが。


 やがて僕のその指先に、柔らかいけれど繊維状のものが少し触れたような気がした。興奮しきっていた僕でさえそれが何かわかっていたし、その先には何があるかも知っていた。そして、そこからさらに指先を伸ばそうとして、「そうか、このまま触っちゃうんだ」、と僕がボンヤリと思ったその瞬間――。


「……ううっ」


 そんな小さな小さな、うめき声ともいえないような声とともに、小夜ちゃんの細い体が完全に固まったのだった。


 太ももはきつく閉じられ、手は必死に握りこぶしを作っている。体の震えは、下半身に滑り込ませた指先だけではなく、抱きしめた僕の体にも衣服越しに伝わっていた。


「小夜ちゃ――」


 小夜ちゃん? と言おうとして僕は右手の指先はそのままにして彼女の顔を見た。部屋はカーテンが閉めてあったけれど十分に明るく、小夜ちゃんの色白の顔にはすぐに焦点が合った。


 多分恥ずかしいのだろうと想像をして、「大丈夫だから」なんて詐欺師のようなことを言おうと思っていたアホな僕が見たものは、――小夜ちゃんの泣き顔だった。


 これ以上ないほどギュッと閉じられた目からは、じわじわと涙の粒があふれ出てこようとしていた。それは僕が見ている目の前でどんどん増えていったかと思うと、次の瞬間には目尻から決壊して流れ始め、やがて数秒もしないうちに頬をつたってポロポロと滝のようにこぼれていった。


 いままで見たことのない小夜ちゃんの泣き顔を見て、僕の頭は空白になった。


 本当に真っ白で、まったくの、空っぽ状態に。


 あ~あ、アホやなあ。と、天井から見ていたボクが言った。


 そやからその先はやめろって言うたやろ! ええから下着から手を抜け! このアホ! と、理性の僕が喚いた。


 僕の下半身はまだ痛いほどに張っていた。けれども興奮していた僕は、小夜ちゃんの涙にあっと言う間に逆転ノックアウトされる。その反動であまりにも冷静になった僕は、後悔と言うには言い表せないほどの悔いという感情に支配されていったのだった。


 そっと小夜ちゃんの下半身から手を離し、かすれた声で「ごめん、な……」と僕は謝った。


 そして本当に僕に必要だった諺は『備えあれば憂いなし』なんかじゃなくて、『後悔先に立たず』だったんじゃないかと、また上原先輩に身勝手極まる八つ当たりをしていたのだった。

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