第02話  ’90 最初は普通に倉本さんと呼んでいた

 ◇  ◇  ◇


 倉本小夜香くらもとさやか、それが僕の彼女の名前だった。


 周囲には倉本ちゃんくらもっちゃんとか、小夜香さやかとか呼ばれていたけれど、僕は小夜さやちゃんと呼んでいた。


 別に小夜香の“香”までキチンとつけても良かったのだけれど、僕はどうしてか小夜ちゃん止まりになっていた。いつからだとか、なにがきっかけだったのかとか、そんな細かい部分までは思い出せない。でもたしか最初はファーストネームではなくて、普通に倉本さんと呼んでいた。


 小夜ちゃんと初めて出会ったのは、僕が高校二年になった春。つまりは、彼女が高校に入学してきた時だった。


 そのとき僕は文芸部に入っていた。お堅い名前で『文芸部』、なんて名乗っていても小説を書くような奴らが集まっていた訳ではなくて、イラストを描いたり、マンガを描いたりする生徒や、中には僕のように何も書かずに本やマンガを読むような輩がいたりして、とにかくそこは比較的何でもありな部活だった。


 そんな文芸部に入学早々顔を覗かせたのが小夜ちゃんと、そして彼女の友達の村澤さんだった。


 正直に言うと最初の印象では村澤さんの美少女っぷりに目が行って、隣にいる小柄な女の子はあんまり記憶に残らなかった。なにしろ村澤さんは新入生にしては背も高くスラリと大人びていて、髪の毛もセミロングで色も白くて本当に綺麗だと思ったのだ。


 言葉遣いもハキハキとしている村澤さんと比べたら、隣でフニャフニャとしている小夜ちゃんは、僕には結構子供っぽく見えたものだった。高校のセーラー服よりも、まだまだ中学の制服がお似合いな感じといえばいいのだろうか。ただ後から考えてみれば高校一年にしては村澤さんが大人びていただけで、小夜ちゃんは年相応の女の子だったのだろう。


 とにかくその年は小夜ちゃんと村澤さんの凸凹コンビを含めて、男女合わせて五人の一年生が『文芸部』に入ることになった。小夜ちゃんはキャライラストが得意で、文芸部の先輩女子とともに放課後楽しそうにイラストを描いていた。


 ◇


 そんな小夜ちゃんと話し始めたきっかけは、彼女が描いている途中のイラストをチラ見して、僕がボソッと呟いた言葉だった。


「へえ、ナディア上手いやん。すごいな、フリーハンドで」


 小夜ちゃんが描いていたのは、四月に始まったばかりのアニメのヒロインのキャライラストだった。最初はトレースか模写かと思ったけれど、どうやらそうではないらしく、フリーハンドで描き上げているのを見て僕は思わず口に出してしまったのだ。


 イラストを描いていた小夜ちゃんの手がピタッと止まって、僕の方を振り仰いだ。


「えっ、尾崎センパイ、し、知ってるん……ですか?」


 大きな目をさらに大きくさせ、そしてどこか恥ずかしそうに小夜ちゃんは僕に聞き返す。


「えっ……、ああ、まあ、知ってる……けど」


 キャラクターを知らない人間がキャラの名前など言うはずもない。僕は少しだけ『しまった……』と思いながらも、知らないとも言えずにそう答えるしかなかった。


「えっと……、見てます?」


 なぜか描きかけのイラストを腕で半分隠すような仕草をとりながら、小夜ちゃんが僕を見上げている。その目は不安げに揺れていて、僕は何か触れてはいけないものに触れている気がした。


 小夜ちゃんが言った『見てます?』の意味は、テレビで見ているか? の意味だと僕にもすぐに分かった。けれど、高校生でNHKのアニメを見ている部活のセンパイってどうなんだろうと、僕は一瞬躊躇をした。が、返事をしない訳にはいかない。


「そうやな、うん、まあ、一応……」


 なにが一応なのか自分でもわからないまま僕が生返事をすると、小夜ちゃんは「意外……」、と言って少し恥ずかしげに笑ったのだ。


「そうかな、意外……、かな」


 と、僕も少々ぎこちなく頬を動かして笑い返す。すると、小夜ちゃんはプッと吹き出して、「尾崎センパイって、そういう人やったんや」と、笑顔を見せてくれたのだった。


 でもその時はただの一年生の後輩で、僕は特別に小夜ちゃんのことを意識していた訳でもなくて、近い未来にこの子と親しい間柄になるとは思ってもいなかったのだった。

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