②『先輩からもらったコンドームのせいで彼女と後味の悪いことになってしまって、こんなことなら捨てておけばよかったと思った話』

第01話  ’92 彼女が来る日の朝に

◇  ◇  ◇


 ――あの日の朝のことは、いまでもよく覚えている。


 テーブルに置いてある目覚まし時計に目をやると、その針は八時五十分になろうとしていた。


 僕は「そろそろ行くか」と独り言を呟いて、それから部屋を出る準備を始めたのだ。


 一人暮らしのアパートは大きな窓が東向きに面していて、カーテンの向こう側から初夏の日差しを照らしていた。


 カーテンを少しあけて、「暑いかな」と、また独り言を吐いてから僕は半袖のシャツを着て、いつものジーンズを履く。


 そのジーンズのポケットに財布を入れるときに僕は中身を確認し、上原先輩から無理矢理渡されたソレがまだ入っていることに、「はあ……」とため息をついたのだった。


 彼女が最寄り駅を出たのはおそらく七時前のはず。電話で言っていた通りに電車を乗り継いだとすると、九時十五分頃にはこちらに着くはずだった。


 彼女――、そう僕の彼女の倉本小夜香くらもとさやかは一つ年下の高校三年生だった。大学で一人暮らしを始めた僕のところに遊びに来るといって、彼女は電車を乗り継ぎ二時間もかけてここに向かっていたのだ。


 電車を乗り継いで、といってもあの時はまだ電化されていないところが半分もあって、僕の田舎ではディーゼル機関車が長々と客車を引いていた。携帯電話なんて下々まで普及もしていなくて、ポケベルがちょっと流行りはじめた、そんな時代。


 早朝に「今から家を出る」、と彼女から電話をもらったのが一番速い連絡手段だったような、いまから考えると――そんな不便な時代だった。


 △


 アパートの三階から階段を降りようとすると、煙ったような海峡の向こうに大きな島影が嫌でも目に入った。海の向こうにあるのは淡路島だった。


 今では吊り橋で繋がっている本土と淡路島だけれど、当時はそんな巨大な吊り橋は影も形もなく、海峡はキラキラと水面を反射させているだけだった。


 もちろん橋の工事は始まっていたし、テレビで大きなケーソンが沈められたニュースも見ていた。けれど未だ橋の主塔も何もないこの海の上に、本当に大きな吊り橋が架かるのだろうかと、大学生になったばかりの僕には半信半疑だったことを覚えている。


 そんな海の向こうに見える淡路島から腕時計に視線を移すと、時間はもう九時を過ぎようとしていた。僕は「やばっ」と小さく呟いて階段を駆け下りた。


 アパートから駅までは歩いて十五分程度で、片側二車線の主要道路は交通量もそれなりに多い。行きはいいけど帰りは少々疲れる坂道を僕は軽快に下り、いつも買い物をしているダイエーの前を通って、ようやく電車の架線が見えてくるところまでやってきた。


 ここまで坂道を下ると、もう淡路島の島影も見えず、排気ガスのにおいで潮風も感じない。ここから十分も歩けば舞子の海岸線に出ることになるのだけれど、この周囲で海を感じるのは、「釣りエサ」とか「釣り具」とか書かれた看板くらいのものだった。


 やがて前方に小さく見えていた電車の架線が近づいてきて、道路と並行に高架を電車が走るようになる。


 その線路上を舞子駅には止まることのない新快速電車が、全速力で東に向かって走っていった。それを見た僕は、『まさか小夜さやちゃん、アレには乗ってないよな、でもあの子のことやから……』と不安に思いながら、二年前に彼女と出会った時のことをふと思い出したのだった。

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