第07話 なんやそれ、評価高すぎるやろ
「泣くなや……」
俺はテーブルにあった紙ナプキンを取って広池に渡した。彼女はそれを素直に受け取り、濡れた目元を押さえていく。
これはどこからどう見ても女を泣かせている悪い男の構図だ。泣きたいのはこっちの方なのに。
「それ、アレか? 同意書は、やっぱり相手の男には貰われへんのか?」
できる限り落ち着いた声で俺は尋ねた。が、広池は口元を引き締めて首を横に振る。完全に拒絶のポーズだった。
「ごめん。もう会いたくもないし、『同意書ください』なんて、なんで私がお願いせなアカンのか悔しいし」
「そうやなあ……」
確かにその気持ちは俺にもわかった。それに、逃げ回るような相手が素直に同意書にサインするとも思えない。広池が頭を下げてまで同意書をもらうのは筋違いだろう。考えれば考えるほど悔しいけれど。
「じゃあ、父親の同意書がなかったら、手術ってできへんのか?」
次の質問に、広池はピクリと反応した。一瞬の間があいて、「できるよ」と意外な答えが返ってくる。
「え、できるん?」
思わず背筋を伸ばした俺が食いつき気味に言うと、広池は極めて事務的な口調で告げる。
「暴行されたとか、父親が誰かわからへんとか、そんな時は必要ないみたい」
「ああ……」
妙な感嘆符とともに、俺は溜まった息をふうっと吐き出した。
暴行はもってのほかだけど、父親が誰かわからないなんて、広池は認めたくないのだ。たとえ病院で手術をするためだけの方便だとしても、そういう乱れた交際をする女だとみられることに、広池は我慢がならないのだ。
それが分かった俺は、広池の言っていた『野田くんを利用しようとしてる』の本当の意味を理解した。自分のプライドのために元クラスメイトを父親役に仕立てることは、確かにズルい女なのかもしれない。――けれど。
「広池は……、なんで俺に連絡してくれたん?」
俺はさっきからどうしても聞きたくてたまらなかった疑問を尋ねた。
その問いは、広池にとっては予想していたことだったらしい。俺の方を見てから、少し微笑んだのだ。
「これでも私、何日か一人で考えたんやで。そやけど……、野田くんしかおらへんな、と思って。いまの大学の友達とかに相談するなんて絶対に無理やろ。それから高校時代の他のクラスメイトの男子も……、まあ無理やろなって」
「太田とか、倉持のこと?」
「うん。あの子たちは無理やなと思った」
それはこちらの大学に来ている高校の同級生で、最初の頃はよく集まって会っていた仲間だった。
「じゃあ、俺がもし同意書にサインせえへん、って言ったら、どうするつもりやったん?」
俺の心はもう決まっていた。悲しいけれど、同意書にサインをしないという選択はできなかった。それでも俺は、どうするつもりだったのかを広池に聞きたかったのだ。
「その時は……諦めて、同意書なしで手術するつもりやった」
静かに、そして落ち着いた声で広池はそう言った。
「次のヤツに、当たることもせずに?」
それは少々意地悪な質問だったかもしれない。俺という人間にどれほどの価値があるかを、広池に語らせようというのだから。
すると広池は嫌そうな顔一つせずに、淡々と答えた。
「あんな野田くん。私な、自分の恥を晒す相手なんて一人でええねん。それが野田くんやったっていうだけ。野田くんやったら、断られても黙っておいてくれると信じてたから」
「なんやそれ、評価高すぎるやろ」
思わず苦笑をして俺が呟くと、広池は笑顔で首を振った。
「ううん。評価高すぎとか、そんなことないよ。野田くん、高校の時も黙っててくれたやん、覚えてるやろ?」
「えっ……、なにを?」
大して思い当たる節も無かった俺は、そう言ってからしばらく考えた。考えたけれど、そんなに重要な口止めを高校時代の広池からされた覚えはない。
すると広池は可笑しそうにクスリと笑みを見せて、俺が完全に忘れていたことを告げたのだ。
「ほら、私が学校をズル休みして映画のロケを見に行った時のこと。黙っててくれたやん。野田くん、忘れたん?」
「ああ、あったなあ。それ、懐かしいわ!」
俺は同意書のことなど一瞬忘れ、高校時代に広池と約束した口止めの記憶を取り戻した。
「あったやろ? 懐かしいやろ?」
いたずらっぽく笑った広池千佳の顔は、俺の知っている高校生のときのそれに戻っていた。
そして俺は当然のように、あの日のことを思い出していたのだった。
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