第06話 ズルい女と同意書
「同意……書?」
広池の発した言葉は、確かに俺にはそう聞こえた、同意書、と。なにを同意するのかは知らないけれど、広池の目が俺から外れ、そして思い詰めたように細まったのを見ると、決して軽い話ではないと想像できた。
「なにを同意するん? それって」
「うん……、あんな……」
と、そこまで言った広池が言葉を詰まらせた。詰まらせたのは一秒二秒のことではない、たっぷりと十秒以上はかかっただろう。ようやく広池が口を開こうとしたその時、タイミングが悪くカランカランと店の入り口の鈴が鳴った。
喫茶店に入って来た間の悪い客は中年男性で、さっきの店員さんが「いらっしゃいませ~」と声を掛ける。その中年男は一見して分かるスーツ姿のサラリーマンだった。俺がその客を目で追うと、広池も同じように目で追った。そしてその男性がここから二つ離れた席に座るのを確認するようにして、広池は俺に視線を戻した。
「あんな……」
と、申し訳なさげに広池の話が再開する。
「今から私、野田くんを利用しようとしてるんや。ホンマに私……ズルい女やわ」
後年ヒット曲の曲名になる単語を広池が言った。もちろんこの時にはそんなことなんて、思いもしなかったけれど。
「ズルい、って。広池がか? ズルい女?」
俺が尋ねると、広池は自嘲気味に笑って何度も首を縦に振った。
「うん、ズルい女。私は野田くんが思ってるよりもずっとズルい女。だってこんな話、野田くんには何のメリットもないもん。ただ私が利用しようとしてるだけ、そやから私、……野田くんに軽蔑されてもしょうがない。ううん、こんな前置きしてる時点で野田くんに軽蔑されんように予防線張ってる。ホンマに私、なんでこんないい子ちゃんぶってるんやろ……」
広池は一気にそこまで喋って、それから大きく深呼吸をした。彼女のふくよかな胸が大きく動いて、良からぬ想像をした俺は思わず目をそらしてしまう。
「広池、そんな露悪趣味的なこと言わんでええやん……」
「なんで? ホンマのことやもん。野田くんは優しいし正義感も強いし、私も野田くんやったら話を聞いてくれると思って電話したんやから。ほら、いまでもこうやって同意書のことを話す前に、野田くんに同情を求めてるやろ。こんなことしたら無理難題を頼んでも野田くんが断られへん。そういうことを考えてるズルい女なんやわ、私。フフフッ」
再び広池はそう自嘲して、コーヒーカップに手をつけた。が、コーヒーはもうカップの中に残っていなかったようで、広池は諦めたようにカップを指でピンと弾く。
キンと、爪と陶器が触れる甲高い小さな音が響いた数瞬後、意を決したような広池の深呼吸が聞こえた。
「野田くん。同意書、ってな」
あえて無機質を装ったとしか思えない目をした広池が、テーブルの一角を見つめたまま口を開いた。
「同意書ってな……、堕ろすときに、子供の母親と、それから父親が、堕ろすのに同意します、っていう書類やねん。未成年やったらその保護者の同意もいるけど、私は一応二十歳を超えてるから、それは必要ないんや。そやから、今回は親にもバレへんし」
広池の口から『堕ろす』という単語が出るたびに、俺は胸を押しつぶされるような、いたたまれない気持ちになった。高校時代の広池はいわゆる高嶺の花っぽい存在で、こんな経験をするような女の子にはまったく思えなかった。それがいま、親にはバレないように中絶の手術をするなんて……。
そして、同意書の話だ。ここまで順に広池の話を聞いた俺は、なんとなくこの先が見えてきた気がした。俺の想像通りだとすると、確かに広池は俺を利用しようとしていて、それからこのことは確かに俺にとっては何のメリットもないだろう。
ただ、友達の窮地を救ったという自負が残るだけ。それも、悲しい自負が――。
「なあ……野田くん。野田くんは頭がええから、もうわかったかな?」
声の方を見ると、広池は目に涙を浮かべていた。そんな広池の期待に応える訳でもなかったけれど、俺は自分の思っているとおりのことを広池に告げる。
「それってつまり……、つまり俺が、同意書の、父親のところにサインするってことかな?」
「……うん、やっぱり、野田くんは頭ええな」
コクリ、と頷いた広池の頬を涙が流れていった。それは綺麗な顎先を通って、ポタッとテーブルに落ちたのだった。
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