第03話 妊娠……したみたい
「うん……、あの……」
広池は、彼女にしては珍しく逡巡していた。
言い出したのはいいけれど、本当に言ってしまっていいのか迷っている様子だった。
それは俺にもハッキリと分かるほどで、なにがそんなに言いにくいことなのだろうと、かえって無駄に想像が膨らんでしまう。
――『実は前から好きだったの』
などと、絶対にあり得ないだろうことも一瞬頭をよぎる。
それがあり得ない、というのは広池には彼氏がいるのを俺は知っているし、俺に彼女がいることを広池も知っていたからだ。
だから色恋沙汰で呼び出されてどうこうというのはあり得ない。となれば、
父親は確か県の役人で、そこそこのお偉いさんと聞いている。それから母方の実家がこれまた資産家らしく、お金に困るなんて考えられない。
そんな良家のお嬢さんが困ることなんていったい……、と俺はぼんやりと考えた。
「野田くんに、ちょっと相談したいことがあって……」
「えっ、ああ、そういや電話でも相談や言うてたな」
ぼんやりと広池の困りごとを想像していた俺は、彼女の声で現実に帰ってきた。目の前の広池は相変わらず逡巡の色を浮かべている。
「うん……、相談」
そこまで言って広池はまた俺から目を外し、テーブルの端に視線を落とした。とにかく迷っている。広池の表情から俺が読み取れるのはそれしかない。
金でもない、色恋沙汰でもない、不審者につきまとわれている、といった相談なら彼氏にすればいい。じゃあいったい俺に相談ってなに?
考え込んだ俺の視線の中に、トレーを持った店員さんが映り込んだ。
『お待たせいたしました。アイスコーヒーになります』
結局二人の間にある沈黙を破ったのは、アイスコーヒーを持って来た女性の店員さんだった。
年の頃なら俺たちとそう変わらなさそうな店員さんは、学生のアルバイトだろうか。彼女は敢えて無愛想を装ったのか、アイスコーヒーをテーブルに置くとニコリともせずにさっさと踵を返した。
確かにこの状況は『それではごゆっくり』、とにこやかに言える雰囲気でもないだろう。なにしろ外から見る限りでは、俺たちは別れ話でもしているようにしか見えなかっただろうから。
俺は早速ストローの袋を破り、アイスコーヒーに刺してカラカラと氷をかき混ぜた。そのままストレートにアイスコーヒーを飲むと、当然ながら苦い。
そこで、ガムシロップを入れようと俺がその封をプチッと折ったところで、ようやく広池が次の言葉を吐き出す。
「あんな野田くん。私、野田くんに……ついて行って欲しいところがある……んやけど」
「ああ、そうなんや。ついて行って欲しいところ? 俺に?」
そう言いながらガムシロップをたらたらとアイスコーヒーに垂らし、次いで俺は無意識にメロディアンミニを入れた。メロディアンミニとはコーヒーフレッシュのことで、コーヒーフレッシュとはつまり――ミルクのことだ。なぜコーヒーフレッシュと呼ぶかなんて、俺は知らない。
そのガムシロップとメロディアンミニが混ざったアイスコーヒーを、俺はストローでガチャガチャとかき混ぜる。ストローが回転するたびに混ざって茶色になっていく黒い液体を見ながら、いったいどこに付き合わされるのか、と俺は疑問に思った。
広池と一緒に買い物な訳はない。デートなんてもっとありえない。帰省の話をするのはまだ少し早い。それより何より、広池の表情からしてそんな前向きな話な訳がない。彼女は「うん……」と頷いたきり、再び沈黙が始まる。
「で、俺はどこについて行ったらええん? まさか買い物とかやないやろ」
最後は多少おどけて言ったものの、広池からはクスリとも笑いは起こらなかった。それどころか広池は冷め切ったコーヒーを一口飲んで、大きめのため息を吐き出したのだ。
「えっと……。深刻、なんやな」
ポツリとこぼした俺の言葉に、広池は小さく何度か頷く。そして、いよいよ勇気を振り絞ったのか、小さな声で言ったのだ。
「あんな。病院に……行って欲しいんやけど、一緒に」
「病院?」
完全に、まったくノーマークだった単語が飛び出しきたので、俺は思わず変な声を出してしまった。
「病院って……。広池、病気なんか!? どっか悪いんか? それやったら俺なんかより先に実家の親御さんに言わんとアカンやろ。でも、どこが悪いん? なんかの検査で引っかかったんか?」
俺の立て続けの質問に、広池は目を細めて首を横に振った。
高校時代から振り返っても、そんな表情の広池を俺は見たことがなくて、これは深刻な病気なんだと早合点する。
「いや、広池の頼みやったら病院には俺ついていくけどな、でも病気やない可能性もあるんやろ? ずっとめまいがするとか、頭が痛いとか、お腹が痛いとかなんか?」
お腹が痛い、と俺が言ったところで、広池の瞳がピクリと動く。それと同時にお腹のあたりを彼女が手でおさえた。
「広池、お腹が……痛いんか?」
恐る恐る俺が聞くと、また広池はゆっくりと首を横に振り、やがて完全に俯いてしまった。俺はもう訳が分からなくなって、自分の首を傾げたままで、俯いた彼女の顔を見るしかなかった。
そして数秒後――
「あんな、私、妊娠……、したみたい……で」
その言葉は、不意に俺の耳に届いたのだった。
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