静穏1

 アリスは完全に、オリヴァーを体の中に取り込んでいた。

 拒絶反応が見られないのは、エキドナのスキルのおかげなのか。先程からずっと興奮しているせいなのか。それも分からない。

 とにかく、体に異常がないことに安心した。


「……ん?」


 鼻血を拭いながら、アリスはふと気付く。知らないスキルを習得している。

 アリスの扱えるスキルは、全て幹部が所持しているもの。彼女自身の固有スキルなど存在せず、普段は膨大な魔術の知識と、部下のスキルを利用して立ち回っていた。

 だからそのどれでもないスキルが、脳裏に浮かんでいることがおかしいと思ったのだ。


 スキルは〈勇者の加護〉。オリヴァーを吸収した際に手に入れた、オリヴァーのスキルだった。

 魔王だというのに〈勇者の加護〉とは、なかなか皮肉めいている。


「おー、スキルも習得したみたい」

「おめでとうございます♡」

「〈勇者の加護〉か……フフッ、魔王なのにね」

「私はそれよりも、言いたいことがございます」

「なになに?」


 エンプティは、スゥウと深呼吸をした。それはそれは大きな吸い込みだった。

 まるでハインツがこれから怒鳴るかのような量で、流石のアリスも少しだけ構える。一体何を言うのだと、ハラハラしながら見つめていた。


「勇者をッ! 抱きしめてッ! 殺すというのは、如何なものでしょうかァあ!??!」

「うえっ!? ちょ……おちついて」


 クワッと見開かれた瞳。飛んでくるツバ。耳をつんざくような大声。広々とした玉座の間に、エンプティの抗議の言葉がこだまする。

 このままドラゴンブレスでも吐くんじゃないかというくらいの勢いだ。

 アリスの側に立っていたリーベは、エンプティの暴れ具合を見て怖がっている。


「私でさえその腕に、抱かれたことがないといいますのに! あの憎き勇者があぁあぁあぁ!」

「リーベ、お部屋に戻ってなさい」

「はい、母上」

「あぁぁぁぁぁぁあ!!!」


 暴れているエンプティをよそに、アリスはリーベを案じて〈転移門〉から送り返す。これ以上は〝教育に悪い〟のだ。

 リーベはエンプティを気にすることもなく、アリスの命令に従って元いた場所へと戻っていく。


 アリスは、とりあえずリーベを隔離できたことにホッとした。

 そして目の前で駄々をこねている部下へ向き直ると、バッと両手を広げる。ハグを待っている状態だ。

 もちろんこれは、吸収することなどない。普通の、何の変哲もない抱擁。


「はい。じゃあおいで、エンプティ」

「…………私が駄々をこねたからですよね?」

「んー、エンプティは私と、ハグしたくない?」

「したいです♡」


 エンプティがアリスのハグを断るはずない、という原理を利用して、アリスは少し意地悪な言い方をする。そんな言い方をされてしまえば、エンプティはまんまと飛び込んでくる。

 彼女の中では葛藤が渦巻いているだろうが、アリスの腕の中に収まってしまえば、そんなこと徐々に消えていくのだ。

 ぎゅうっと密着して、アリスの肌、肉、髪。何もかもを感じている。戦闘直後で汗と血の匂いが強いはずだが、エンプティは嫌がっていない。

 どれもこれもアリスの匂いだと思えば、全てがいい香りだと錯覚する。


「はうぅ……♡アリス様の匂いが……♡♡♡」

「エンプティ」

「はい♡♡」

「いつもありがとうね」


 チュッ、とリップ音が響く。

 それを誤魔化すように、アリスはエンプティの背中を何度かポンポンと叩いて、そのまま離れていく。

 エンプティは何が起こったのか理解していないのか、脳の処理が追いついていないのか、頓狂な声を出して驚いていた。

 アリスはエンプティの頬に、優しくキスをしていた。いつも好きだ好きだと言ってくれるエンプティへの、お返しみたいなものだ。

 アリスの住んでいた現代世界の、他国では挨拶のようなキスだった。唇にしたわけでもなく、片方の頬に軽く触れただけ。

 それでも日本人であったアリスには、少しだけ恥ずかしいものには変わりない。


「……………………………………ぇ」

「へへ、ちょっと照れくさいね。恥ずかしくてリーベも追いやっちゃった」

「ワ……ぇ? ノ、あ……オ? ニヮ……」

「え、エンプティが狂った……」


 状況をやっと把握したエンプティは、よろよろと倒れ込む。ペタリと床に座り込んで、そのまま動きを止めてしまった。

 いつものエンプティを考えれば、狂喜乱舞するだろうと構えていた。だが実際のエンプティは、突然の愛情表現に耐えきれずに、キャパオーバーしてしまった。

 普段から冷たい対応を受けていたせいで、そういった優しさへの耐性がなかったのだ。


 流石のアリスもかわいそうに思い、今後の彼女への態度について少し改めることに決めた。


「ニ……ん……ゅ、ぉ……ウ」

「そ、そろそろみんなも終わったかなぁ?」


 言葉として成立しない発言をボソボソと呟いているエンプティ。そんな彼女を横目に、アリスは他のメンバーが無事に作戦を終えたか確認することにした。

 一番はルーシーだ。戦場を東奔西走している、一番忙しい幹部。

 アリスはルーシーへと、通信魔術を飛ばした。


『はいっ! 今日も元気な、あなたの魔術師ルーシー・フェルです!』

「こっちは終わったよ」

『マジですかぁ!? こっちくる系ですか?』

「そのつもり」

『りょです! お待ちしてます!』


 簡単な会話を経て、通信を切る。ルーシーの様子からして、向こうの対王国軍の作戦も、無事に進行していると分かる。

 それに普段から魔王軍の育成に力を入れていた、あのハインツが率いているのだ。何の問題もないだろう。

 何事もうまく行っているのを確認すれば、アリスはほっと胸を撫で下ろす。


「さてと……エ〜ンプティ!」

「はっ!? 私は……一体……?」

(えっ、嘘でしょ。記憶飛んだの!? まあ……都合がいいや……)


 ルーシーに「そちらへ向かう」と言った手前、行く準備をしなければならない。

 いつまでもボソボソと独り言を言って、まだ我に返っていないエンプティを連れ戻すため、声をかけた。

 するとエンプティは、衝撃が強すぎるあまり、その瞬間の記憶を失ってしまっていた。

 一般的に、トラウマにより記憶を封じ込めることもあるが、エンプティの場合はその逆であった。普段冷たくあしらわれている分、記憶を失ってしまうほど、彼女には驚愕と喜びの出来事だったのだろう。


「立って。終わったから、人間を取り纏めに行こう」

「! 私はどうして座って……? いえ、失礼致しました。参りましょう♡」


 エンプティを立ち上がらせると、座り込んでいたことも分からなかったようだ。

 アリスとしては、恥を忍んで与えた褒美のつもりだった。忘れてしまわれて、少し寂しいような悲しいような。そんな気持ちになったのである。


 気を取り直して、アリスは〈転移門〉を生成した。

 転移先は、魔王軍が戦闘を繰り広げているであろう――戦場。魔王城近郊の、大森林の中だ。

 扉が開けば、その先には記憶とは違うボロボロの森が現れた。

 戦闘によって森が崩壊したのか、それとも戦闘をしやすくするために予め破壊したのか。どちらにせよ、見栄えの良いものではない。


 〈転移門〉を通れば、ハインツが出迎えている。


「随分見晴らしがよくなったねぇ」

「申し訳ありませんッッッ!!!」

「いいよいいよ」


 アリスが率直な感想を述べると、ハインツは謝罪を叫んだ。別に責め立てる意味はなかったため、アリスも軽く流した。

 それにこの程度の損害など、アリスの魔術をもってすればどうってことない。一瞬で元通りになってしまう規模だ。


「損害は?」

「大きな損害として、死傷者が全体の二割程度ですッ!」

「思ったより出たね」


 〝負傷者〟が出るとは思っていたが、まさか死んでしまうものも現れるとは。アリスが思っていたよりも、人間はタフなようだ。

 大きな損害と言っている以上、細かな負傷者も存在するのだろう。それらには、今後も励んでもらわねばならない。

 そのため、パラケルススの稼働が必須となる。パラケルススにはハードスケジュールとなるが、魔王軍のために、彼らの治療に専念してもらうことにした。


「私が甘く見積っていましたッ! 人間を侮っていたようです!」

「うんうん。学習することはいいことだよ。ちゃんと弔ってあげようね、上に立つものの役目だ」

「ハッッッ!」


 せっかく恐怖による支配ではなく、強者への敬愛として慕ってくれているのだ。そんな可愛い兵士達の死を、無駄に出来るはずがない。

 今後も活躍してもらうためにも、彼らを労う必要がある。亡くなったものは弔って、負傷者は手厚くケアをする。

 ただの魔王ではなく、下の者のことをきちんと面倒の見られる王となるのだ。


「さて、ヨース夫妻はどこかな?」

「ご案内致しますッ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る