同じ
オリヴァー・ラストルグエフは困惑していた。
生きてきた人生で、味わったことのない痛みを受けているのだ。
鼻からどろりと液体が落ちて、ただの鼻水ではなく鼻血だと理解した。口の中は血液だらけで、鉄の味ばかりがする。
口内にあるコロコロとした固形物は、衝撃により抜けてしまった歯だった。それを吐き出す力すら無い。
口からごぽりと血液が漏れた。自らの意思で吐き出したのではなく、溢れてしまったがゆえに漏れ出したのだ。
手指は震えていた。明らかに恐怖や武者震いの類ではない。あまりの体の損傷におかしくなってしまったのだ。
体の全ての骨が折れていて、動かすことすらままならない。
(なん、だ……これ)
彼の意識は、既に遠のき始めていた。それは死への緩やかなステップ。
体はピクリとも動かせることすらできない。それは全身が打撲と骨折、損傷によるものだけではなかった。
オリヴァーが吹き飛ばされた先の壁は見事に崩壊しており、瓦礫が彼の体に降り注いでいた。完全に彼を潰して殺さなかったのは、神の慈悲なのか、勇者の幸運なのか。
瓦礫はオリヴァーを潰し、彼の体を拘束していた。微かに漏れる光は彼を照らしていたが、何の役にも立たない。
「……げほっ」
咳き込むだけで全てが痛みだす。咳によって体が震え、その響きが全身に苦痛を与えていた。
何もかも初めてのことだった。
痛みを覚えて回復アイテムに手を伸ばしたくとも、手どころか、体全体が動かない。それどころか痛みが徐々に麻痺をしはじめて、寒気を感じ始めてきた。
オリヴァーの耳には、足音が遠くに聞こえた。耳鳴りのようにぼんやりとしたその音は、オリヴァーに耳があまり機能していないことを知らせる。
距離的にはもっと近い場所から聞こえていたのだが、オリヴァーにはどうしてもぼんやりとしか聞こえなかった。
視覚も痛覚も、聴覚も何もかもが失われ始めていた。
先程まで存在していた、あの復讐心と怒りは、どこにいったのだろうか。死を直前にして、オリヴァーは思考能力すら落ちていく。
そんなオリヴァーの上に降り掛かっていた、瓦礫がゆっくりと動いた。ふわふわと何かしらの力が作用して、瓦礫はどかされていった。
目の前に現れたのは、あの女魔王。
「ぁ゛お、う……まおう……」
「おぉ、すごい。ぎりぎり生きてる」
「しぶとい虫ですね。汚らわしい。とっとと死ぬべきです」
「まぁまぁ」
魔王・アリスはオリヴァーの髪を掴むと、そのまま雑巾のようにずるずると引っ張った。髪を掴まれて痛くて抵抗したいのに、体が言うことを聞かない。ブチブチと何本か抜けてしまっているが、オリヴァーは腕すら動かせないのだ。
瓦礫に潰されていた両手足が損傷しようとも、アリスには関係ないこと。かろうじて繋がっているそれを見ると、アリスはそのまま引っ張っていく。
床はオリヴァーの流した血液でべっとりと汚れ、線を作っている。
アリスはそのまま瓦礫のない床に、オリヴァーの体をべしゃりと投げた。
その衝撃でオリヴァーは「かはっ……」と血を吐いたが、アリスは気にすることなどなかった。
「このまま殺すべきでは?」
「えー、アレやりたいの。悪役が長くお喋りするやつ」
「……それって、悪役が死ぬパターンじゃありませんか?」
「まだ私は死なないもん」
「承知しました。ですが反撃して来る様子があるなら、私が仕留めますので」
「あっ、ハイ。気を付けます……」
アリスは床に無惨に投げ捨てられた、オリヴァーのもとへと歩いていった。オリヴァーはアリスの方へと体を向けるはずがない。動けないのだから当然だ。
そんなオリヴァーの代わりに、アリスは目線を合わせてやった。
視覚がぼやけているオリヴァーだったが、アリスの表情が微笑みを見せているのは、間違いなく分かった。
しかしそれに文句を言うなどという、力も残されていない。
「地球」
「ぁ……?」
「高校生。社会人。日本。異世界」
「
アリスがゆっくりと単語をつぶやいていく。それは現代社会であれば、馴染みのある単語たち。オリヴァーも昔、地球で暮らしていた頃は日常的に聞いていた言葉のはずだ。
だがオリヴァーの反応はいまいちだ。それもそうだろう、彼はこの世界で十数年生きている。そんな昔のこと、忘れてしまっている可能性だってあった。
覚えていた場合、懐かしい単語なのは間違いない。だが今この瀕死の状況で、感激できるはずもない。
オリヴァーから思っていた反応が返ってこないのを見ると、アリスは首を傾げた。
歯が抜けてしまって、返答がまともに出来ないオリヴァーだったが、懐かしい言葉を聞いて何か感化されるのではないかと思っていたのだ。
それによってまた何か、面白いものを見せてくれるのではないか――と。
「ん? 覚えてない?」
「ま……
覚えてない、と聞いて、オリヴァーはゆっくりと時間をかけて、理解をし始める。
まさか、彼女の言っている言葉は――本当にあの頃聞いていた単語なのか。ではなぜ、彼女がそんな単語を知っているのか。同じ場所から来ていたとして、どうしてこんな非道の限りを尽くせるのか。
疑問が浮かんだオリヴァーの頭で、一つだけ答えが思いつく。だがそれは絶対に有り得ないと首を振った。
それは、アリスも異世界転生者だという答え。――だってそうだろう。同じ世界から来ている人間が、こうして殺し合うはずがない。
しかしオリヴァーのそんな脳天気な考えは、アリスによって打ち砕かれる。
「そうそう。私も異世界転生してきたんだよ~」
「ふ、ひゅざけ…なん、れ! どぼして、ごんなごとォ!」
「ぷっ、んふふっ。歯が抜けてるから、真面目に叫んでるのに面白いね」
「ごだえろぉ!!」
アリスはずっとこの会話の中で、王たる振る舞いを捨てていた。これから死にゆくものに、そんなもの必要がないからだ。
それに、アリスは心の底から楽しんでいた。だから王として演じるのも、忘れてしまうほどだったのだ。
勇者の顔が歪み、表情を絶望に染める。絶対的な力の前では、正義など役に立たないことを知らしめる。
その瞬間に立ち会えただけではなく、それを行っているのが自分自身なのだ。楽しいということ以外で、なんと表現するべきなのか。
「どうしてって、そりゃあ……好きだからだよ」
アリスがオリヴァーの問いに答えれば、オリヴァーは理解できないという顔を作った。
今まで正義の味方として生きてきて、英雄の子として育ってきたオリヴァー。そんな彼には理解できないことだった。
「は……?」
「復讐でもある。快楽でもある。愛でもある。使命でもある」
「なに……」
「君だってそういった理由で、正義を振りかざしているでしょ? 私だって悪が好きなんだよ」
全く理解していないオリヴァーを無視して、アリスは自分のペースで話を続ける。
置いていかれている話し相手に気を遣うことなどなく、話したいこと見せたいことを全てやりたがっている。
何よりも、オリヴァーはもうすぐ死ぬのだ。死ぬ前に〝彼が見たいもの〟を見せてあげるのが、それこそ優しさだろう。
「あっ、そうだ。君にプレゼントがあるんだよね」
「…………」
指をパチンと鳴らすと、そこにベチャリと汚い音を立てて何かが落ちてくる。その音は、肉がぶつかり合う音に似ていた。
それもそのはず。アリスは別室に〝置いていた〟ある女を連れてきたのだ。
ボロ雑巾のようにその場にうつ伏せに倒れているのは、見覚えのある金色の髪。よく手入れされたツヤツヤとした髪ではなく、ボサボサで切り揃えられていない、汚い髪の長さだった。
だがオリヴァーは――オリヴァーの勘は、その女が誰だか分かった。
「ひゅ、りあな……?」
ユリアナ・ヒュルストは、オリヴァーの知らない姿へと変わってしまっていた。
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