二人と一人
「……アリス・ヴェル・トレラント」
一人の少女がそう呟いた。
彼女はリュシー・カナル――もとい、リュシー・レイバである。ヘルマンという荒々しい船乗りに惚れ込んだ、一人の魔術師だ。ヘルマンの船に共に乗り込み、運搬や整備などのサポートをしている。
本来であれば彼女レベルの魔術師は、アリ=マイアでは珍しい上に、こんな場所で留まっていていい人材ではない。きっとパルドウィンに行けば、喜んで受け入れられるだろう。
彼女がこの船を選んだのは、ヘルマン・レイバという男に恋をしたからであった。
それ故に彼に迷惑をかけていたのだが、それもアリスという我儘な魔王によって終わりを告げた。
「やっぱり、あのときの」
「リュシー?」
「あ、うぅん。ヘルマン、ごめん」
ここは、イルクナーの港。あの戦いの後、アベスカから職人たちが押し寄せてきたおかげで、随分と整備が進んだ。
驚くことに、その職人の中には魔族も混じっていた。最初は困惑していた。
しかし、あの女神たるトレラント様が派遣した者たちであること、何よりも人間に対して敵意も殺意もなく、ごくごく普通の当たり前のように接してくれている姿。それらもあって、あっさりと受け入れられた。
もちろん初めは怯えて、拒絶を見せている者たちも居た。そんな人々を見て、エルフやウルフマンを筆頭とした魔族達は、苛立ちを見せることなどなかった。
まるで「人間にそういう反応をされても仕方ない」と割り切っているようだった。少し距離をおいて、迷惑がかからないよう振る舞っていたりもした。
そんな姿を見ていれば、人々も少しずつ心を開いていった。
今ではアベスカと同じように、魔族が行き交っている。
交流を続けていれば、異文化の有り得ないギャップもありつつ、今後の生活に役に立つ情報なども手に入った。
アベスカからやって来ている人間たちは、そんな魔族を否定するどころか、「ここがいい」「こういうところが便利だ」などと勧めてくるのだ。
リュシーは変わっていっている街並みを、港から遠く見つめている。
パルドウィンとジョルネイダの戦争が終わったことで、イルクナーの港は再開していた。今は活気を取り戻しているものの、再び戦争が始まるのだ。
これもそれに向けて、最後の忙しさだ。
とはいえ、ヘルマン率いる船〝レッド・シー〟の面々は、相も変わらず暇であった。
「体の調子でも悪いか?」
「違うの。ちょっと思い出して」
「?」
「気にしないで。こっちの話だから」
「気にするだろ。もう一人の体じゃねぇんだから」
リュシーの腹には、ヘルマンとの子供が居た。膨らみのある腹部は、リュシー以外にもう一つの生命が宿っていることを教えてくれる。
レッド・シーの評判は、アリスを送って以降変わっていった。まだまだ閑古鳥が鳴くような営業状態だったが、少しずつ彼らの噂が変化したのだ。
リュシーが天候操作を行わなくなったことで、レッド・シーは月に何度か人を乗せる日が通常よりも増えていた。港からの評価も変わり、仕事を任される日が増えていった。
とはいえ、豪快なヘルマンの性格は人を選び、圧倒的に増えていくということはなかった。
それでも以前よりも遥かに改善されていたのは、間違いない。
しかし、リュシーが身籠ったと知ってからは、ヘルマンは仕事をあえて減らした。リュシーを最優先にしたいという彼の意見を、部下たちが断るはずもなかった。
何よりも慕っているヘルマンに、妻が出来たのだ。これを喜ばずしてどうしようというのだろう。
「……そう、ね」
「それで、何を考えたんだ」
「もうすぐ、トレラント様が大掛かりなことをされるでしょう」
「あぁ。なんでも、勇者の野郎がトレラント様の強大な力を恐れて、魔王に仕立ててるって話だろ?」
スラスラとヘルマンは言葉を並べた。
シスター・ユータリスの働きによって、イルクナーの民の洗脳はそのように済んでいた。
アリスのやっていること、やることを隠し通すには無理がある。だからアリスは、国民に素直に内容を話した。これから戦争が起きること、勇者が攻めてくること。
そしてアリスが勇者を迎え討つに適した理由を添えて、だ。
「……ええ、そうね」
「ひでぇやつもいるんだな。アベスカだって、ボロボロのままじゃねえか」
「まぁ……」
優秀で天才であるリュシーは、あのトレラント様なる存在を疑っていた。口にしないのは、恐ろしいくらいに国を挙げて彼女を称えているからだ。
ただでさえやっと普通の地位に戻ってきた、ヘルマンたち。そんな家族のような仕事仲間たちを、再びどん底に落とすわけにはいかない。
不信感を持ちつつも、悪い方向に行かないのならばと口をつぐむ。
それにヘルマンの言う通り、アベスカは〝放置〟されていた。勇者は魔王を〝慈悲〟で生かしたどころか、崩壊したアベスカの土地を何も直さないまま帰ったという。
アベスカの民は勇者を恨み、日々その憎しみを増やしている一方。それは遠方に住んでいるリュシーでも聞いていたこと。
(そう考えると、アベスカにとってはどっちが悪なのかはっきりするのかしら)
魔王も勇者も、捉える立場が違えば考え方が異なってくる。
アベスカにとっては、何も対処しないどころか放置して帰った勇者は、悪だ。自分たちは無事に帰っているくせに、アベスカの土地は荒れ果てて人々は死んでいったのに。
慈悲だと片付ければ簡単だが、単にもともと人間だった魔王を殺したくないというエゴではないか、と勇者をおかしいと思う声が上がっていく。
イルクナーは普段から平和な国であるがゆえに、そういったことには疎い。勇者は勇者、正義。魔王は魔王で悪。そういう〝普通〟の考えだ。
だが今回の邪竜襲撃で、イルクナーの考えも変わった。
こんな非常事態だというのに、勇者は遠方の国にいるだけ。アリ=マイアの神も、救いの手を差し伸べるわけじゃない。
死ぬかもしれない。国が滅ぶかもしれない。そう思った時、アリス・ヴェル・トレラントが現れた。
「心配するこたねぇだろ。トレラント様が、俺たちにゃ被害が出ないよう立ち回ってくれるらしいぜ」
「らしいわね」
「なぁ、本当に大丈夫か?」
「もう。あの男らしいあなたはどこにいったの?」
はてさて、ここにいる体躯のいい男・ヘルマンにとって、国の問題や勇者や魔王なんて、二の次だった。現在の彼の中心は、愛らしい妻であるリュシーのみ。
じろじろとリュシーの全身を観察して、どこか悪いところがあるのではないか、と探している。
何よりももとより彼は難しい話は得意じゃない。気付けば海――河川に船を浮かべていた生粋の船乗りだ。リュシーが難しい顔をして、魔王だとか話をしていると頭が痛くなるのだ。
「しょ、しょうがねぇだろ! お前がし、心配……だし。俺だって、その、愛する女を、その……」
モゴモゴと歯切れの悪いヘルマン。彼にはストレートに愛を告げるというのは、なかなか難しい行為なのである。
いつだったかリュシーとの結婚が決まった時に、港を行き来する年配の女性に叱られたものである。ガサツで大雑把な彼のことだ。大した愛の告白すらしないのだろう、と酷く指導を受けた。
「もう。無理しないでいいわよ。分かってるって。今日はもう仕事がないんだから、早く買い物して帰りましょう」
「あぁ! 夕方になっちまえば冷えるしな。荷物は持つぜ!」
「ふふっ、ありがとう」
リュシーは彼なりに気を遣おうとしているヘルマンを見て、柔らかく微笑んだ。過去の自分が望んでいた光景だった。
そうだ。彼女にとっても、アリスが悪魔だろうが魔王だろうがどうでもいいのだ。今は愛するヘルマンと、一緒にいれればそれでよかった。
あの時、船で彼女は殺されなかった。そして幸いにも、邪竜襲撃時にも生き残れた。それが全てなのだ。
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