第五章 幕間 嵐の前
美を売る少女
「おや、ロージー!」
一人の女が声を高らかに上げる。この世界の平民だというのに肌の艶がよく、髪も潤っていた。少々荒っぽい口調ではあるものの、年齢はまだまだ若いほうだ。
ここはアベスカの街。日はまだ昇りきっておらず、あたりも薄暗い朝方だ。それでも賑わいを見せているのは、朝市があるからだ。
早起きは三文の徳、ではないが、朝早くから店が立ち並んでいる。野菜から始まり、日用品、小物まで出している店もある。
女が立ち寄ったのは、魔王城から出店している一つの露店だ。そこに立っているのは、見目麗しい少女。名をロージー。
彼女はアリスに気に入られ、美容品を作っているサキュバスだ。
店には彼女が得意とする香水から始まり、ヘアケア用品、ボディーソープ、化粧水などなど。女性が見たら誰もが手に取る商品が並んでいる。
「おはようございます!」
「この間の試供品、すごく良かったよ」
「本当ですか! よかったぁ」
「それで……欲しいんだけど」
「え!?」
本来ならば、客が商品を欲しがれば喜ぶところだ。しかしロージーは驚きの声を上げた。
それもそのはず。この女の夫が、そういったグッズを買うなと声を荒らげているのだ。
そんな身内の会話まで、ロージーはよく知っている。彼女はサキュバスとしての仕事はイマイチであれど、人を魅了するという力は、人間よりも優れている。
だから男に使う魅了を少し応用して、販売員やカウンセラーとしての才能を開花させていた。
今店に来ている女も、その才能を惜しげもなく振るわれて、家庭の事情をポロポロとこぼしたのだ。
「この間、旦那さんがこういうのは駄目だって……」
「実はね。この美容品のこと、アリス様が投資されてるって伝えたら、今度は「何で買わねぇんだ!」って怒鳴って」
「なんですかぁ、それぇ」
「お金まで握らされちゃったの」
「あっははは」
ロージーはけらけらと笑ってみせた。
確かにこの事業は、アリスが酷く気に入って始まったこと。バックアップもさることながら、アベスカにより浸透するようにプロモーションを行ったのもアリスだ。
若い女性の中ではもう既に大きな話題となっているし、ロージーが一番力を入れている香水は男性の中でも人気だ。
狭い城下町とはいえ、まだよくわからないことに関して、人々は恐る恐る近づいている。だから広くは知れ渡っていない。
そんなわけで、この女性の夫のような状況を知らない人物が出てくるのだ。
もとからアリスの事業だと知っていれば、彼も声を大きくして拒絶することなどなかっただろう。
アリスの推奨する事業はまだまだマイナーであれど、アリスの存在は大きく色濃く染み付いている。
「でもそれだけじゃなくって」
「?」
「あのね。旦那が、褒めてくれるのよ」
「え!」
「綺麗だなんて、何年ぶりかしら……」
女は静かに微笑んだ。確かに試供品を渡す前と今とでは、だいぶ違う。十二分に効果が出ているということだ。
それは商品を提供しているロージーとしても、いいことだ。効果が見られれば、さらなる顧客につながるのだ。
「それなら、このまま誘われるんじゃないですか!?」
「そいつはどうだろうね……。一度目は戦争で流産しちゃったから、あの人も私を抱くのを怖がってるのよ」
「……あぁ、そっか……」
彼女は今、夫と二人暮らしだ。しかし数ヶ月前には、腹の中に新しい家族がいた。だがもう、その愛しい子供はいない。
あの憎き魔王戦争にて、子供を失ってしまった。
アリスのやっているホムンクルスの件は、この夫婦も聞き及んでいた。しかし彼女たちの場合は腹の中。
もちろんパラケルススも、胎児のホムンクルス生成をやろうと思えば可能だ、と言っていた。それでも二人は辞退した。
てっきり、新しい命をまた二人で……と思っていた。だが状況は思っていたよりも、悪かった。
女が悲観にくれている以上に、男の精神的なダメージが強かったのだ。
戦争のあとから、夫と床を共にする日が減った。それどころか、避けられている節がある。話し合おうにも、意気消沈した夫は逃げるように仕事に励んでいた。
そんなとき、女が出会ったのはロージーだった。
ロージーはボロボロの彼女を見て、目を丸くした。そして店の商品を小瓶に詰め替えて、女へ押し付けたのだ。
彼女が何を言おうが「一ヶ月使い切ってください」としか言わず、そのまま追い返してまで。
一ヶ月分の試供品を渡され、夫の小言を聞きながら毎日言われたように試した。ストレスでギシギシになった髪の毛も、ボロボロの肌も、カサカサの手も。まるで魔術のように綺麗さっぱり、十代の頃のように戻ったのだった。
「これ」
「なんだい?」
「アロマキャンドルです。男性に効く媚薬入り」
「なっ……」
「下手くそなサキュバスとか、まだ経験が浅い子に持たせたりするんです。途中で萎えちゃう方もいますから」
「で、でも……」
受け取りを拒否する女の手を、ロージーは両手で優しく包み込んだ。
最初の頃の強く拒絶するように押し付けた彼女とは違う。出来れば受け取って欲しい、そんな声が聞こえた。
「嬉しかったんですよね」
「……え?」
「褒めてもらえて」
「まぁ……」
ロージーの言うとおりだ。口下手なあの夫が、数年ぶりに褒めた。あんな悲劇があったというのに、色々と悩んだだろうに。
彼女にとっては、天変地異も同然だった。
たいした恋愛も経ているわけじゃないし、甘い新婚生活だって経験していない。それでも、彼女は夫が好きだ。きちんと口にできなくても、思っていることがわかったから。
だが、実際に言われてみるとでは違う。
数年ぶりに聞いた「綺麗」という言葉は、戦争と子を失った悲劇、様々なストレスを受けてきた彼女にとって、とてつもない喜びであり薬だった。
「私は魔族ですし、亡くなったお子さんを乗り越えろだなんて、軽率には言えません。けど、今の気持ちも大事にしたっていいんですよ」
「……」
「ま、お守りとしてでも持っててくださいよ!」
「ふっ、そうね」
ロージーの手をどけると、そっとポケットにしまい込んだ。
彼女の言う通り、見た目だけでも十分に可愛らしい。夫と二人の部屋には少々似つかわしくないが、お守り――インテリアとしても上々だろう。
「にしても……こんな時間にここに来てるだなんて、珍しいね」
二人が会話している間に、市場は賑わいを見せていた。食事処も開いているため、家族連れやらで人が増えていく。
朝市というわけで、今は早朝だ。昼頃まで市場は開催されているとは言え、いつもロージーが店を出す時間ではなかった。
彼女はいつも昼過ぎにふらりと現れて、新作の商品や定番商品を並べていく。夕方になるころには何もかも売り切れていて、住民とお喋りを続けたいロージーだけが立っていることが多々ある。
「今の魔王城は忙しくって。居場所がないので、ここに」
「どうしてだい?」
「そろそろ、勇者との戦争が始まるそうですよ」
「な……」
女は酷く驚いた。最近噂で聞いていたが、もうすぐ始まるとは思わなかったのだ。
パラケルススからの通達がないことから、まだ国民に対してはっきりとは言えないのだろう。
だがロージーが嘘をつくはずもなく。いつもいない時間帯に顔を見せている時点で、彼女の言うことは事実にほかならない。
「でも大丈夫です。慈悲深くお優しいアリス様ですから。アベスカやイルクナーですら上陸させず、魔王城へ直接転移させるそうです」
「そりゃまた……」
アリ=マイアに全く被害が出ないよう振る舞うと聞いて、遠くにある魔王城を見やる。その瞳は、敬愛する神たるものに向ける目だった。
なんと素晴らしい御方なのだろうか――誰もが口を揃えて、それをつぶやくだろう。
アベスカ国民がアリスの作戦を知るまで、時間はあと少しだった。
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