洗脳完了

 それは、まさしく天女であった。

 パラパラと氷が降る空から、ゆっくりと降りてくる女は、イルクナーにとって救世主である。絶望に陥っていた国は、この一人の女によって救われた。

 その〝なり〟がたとえ、人間ではないとしても。

 レースのあしらわれた黒い羽衣は、血色の悪い鱗のある肌を包み込んでいる。白い頭髪が煌めく頭部には、人間には有り得ない漆黒の角がついていた。気味の悪い目の色も、何もかも全てが人と違うとしても。

 イルクナーの人間には、国を、自分達を救った女神に映っていた。


 イルクナーの地に降り立っていたのは、他でもないアリス・ヴェル・トレラントである。もっと言えば、この地を破壊して地獄へと変えていたのも、アリスの部下なのだが――そんなこと、イルクナーの人間は知る由もない。


「女神様だ……」

「戦の女神様が、我々をお救いになった!」


 一部の国民がそう言えば、他の者たちも倣って声を上げる。広場は一気に歓声に包まれた。人々は降り立ったアリスを取り囲むようにして、彼女の元へと駆け寄っていく。

 まさに現人神。この世界に降り立った女神。いくら祈っても救ってくれない、アリ=マイアという空想上の神とは違う。


「左様です!」


 歓声が響き渡る広場に、その一言がこだまする。凛とした声は広場を再び静寂へと戻すにはちょうどよく、アリスの方へ向いていた注目は、その声の主へと移った。

 人々の視線が集まる先にいたのは、優しく微笑む美しい女。修道服に身を包んだ、シスター。ユータリスである。

 ユータリスがゆっくりと動き出すと、群衆は彼女を通すように波が割れる。ぴんと伸ばされた姿勢を保ちながら、ただまっすぐアリスの元へと歩いて行く。誰もそれを邪魔することなく、むしろ、ユータリスの次の言葉を待っていた。

 国を救った神たる彼女を、この修道女は知っている。興味があるに決まっている。


「このお方は、トレラント教を率いる現人神――アリス・ヴェル・トレラント様です!」


 ユータリスはアリスの真横へ立つと、再びそう叫んだ。すると、広場は一気に湧き上がった。神の名前を聞けた。何と喜ばしいことだろうか。

 しかし、一部ではざわめきが起こった。それはいい意味ではなかった。猜疑心を伴ったものだった。


「トレラント……聞いたことあるか?」

「いや、初耳だ……」


 見聞きしたことない物事には、人間は不安になるものだ。アリスが救ってくれた、ということで興奮して感動していたが、冷静になってみれば「おかしい」と思うこともあるだろう。

 それにイルクナーは大きな国ではないとはいえ、アリ=マイアの中では主要国である。他国との繋がりがある港も存在するので、情報は遅くとも、様々な知識が溢れている場所だ。

 どんぐりの背比べではあるものの、イルクナーに住んでいれば自慢にもなる。アリ=マイアの中ではきっての、〝都会〟なのである。

 だから余計に、知らないことというのは〝疑うべきこと〟につながるのだ。


「知らないのも当然でしょう。アリス様は地上にやってきたのは、ほんの数ヶ月前のことです。人々の嘆きや苦しみを受け取り、自らの手で導こうと降り立ちましたから」

「なんと……」

「だが……」


 ユータリスがそう説明しても、まだ暗い顔をしている。広場は一気に盛り下がっている。ひそひそと話し込む声が聞こえ、それに比べればいい話ではなかった。


(決定打に欠ける、か。何かやってやろう)


 このプレゼンテーションは、失敗が許されない。イルクナーは一番潰すべき場所。勇者がここに降り立つ可能性が、最も存在する場所。他国との交通網が、唯一ある場所。

 邪竜との決戦で、彼らがアリスへの感情を強くしたのは確かだが、普段から魔物に襲われるアベスカとは違って、いまいちピンとこないのだろう。

 この魔法と剣の世界であるのならば、ドラゴンに襲われることに対しての理解はある。しかし、イルクナーは平和すぎたのだ。首都が河川のある港に面している上に、土地の殆どが丘だ。魔物もいなければ、襲われる心配も滅多になかった。


 アリスはキョロキョロと周りを見渡した。何かいい材料はないか、と。

 ふと、目に映ったのは群衆の片隅で涙する女。腕の中には今にも死にそうな男が抱えられていた。アリスのことにも目もくれず、ただ静かに涙している。

 彼女の腕の中は、男とその血で汚れていた。男は両腕と片足を失っていて、大量に出血している。もう数分の息だろう。

 アリスは、ゆっくりと動き出した。群衆をかき分けること無く、ただ歩いた。ユータリスの時と同様、群衆が勝手に避けていくのだ。

 男女の元へとたどり着き、しゃがみ込んだ。そっと手をかざして、魔術を呟く。


「〈全治全能ヒール・ザ・ワールド〉」


 すると、どうだろう。失われていた手足は、魔術に包まれた瞬間もとに戻っていた。瀕死だった男は、顔色を取り戻した。減っていた体力も、血液も、何もかももとに戻っていく。

 アリスの魔術によって、男は死を免れた。無くなっていたはずの手足を見て、女とともに驚いている。

 流石にこればかりは、イルクナーの人々も感心せざるを得なかった。


「な、なんと……!」

「馬鹿な……」

「素晴らしい!」


 誰もが口々にそう漏らしている。魔術に対する知識が薄いアリ=マイアだからこそ、ここまで感動した――のではない。魔術の知識があっても、必ず、アリスのやったことには驚くだろう。

 むしろ知識があったほうが驚く。

 アリスの使った〈全治全能ヒール・ザ・ワールド〉は、人間では到底辿り着けないSランク魔術なのだ。それを知れば、彼女がどれだけ化け物――神に近い存在なのかを、知ることができる。


「アリス様ともなれば、このような事が簡単に出来るのです!」

「おぉ…!」

「トレラント様……!」


 ユータリスがそう言うと、国民は目に光を持ち始めた。アリスを〝トレラント様〟と呼び始める人々も現れ、彼らの中での神という存在が揺らぎ出す。

 そこに叩きつけるように、アリスは再び叫び始めた。


「私は今、ウレタとエッカルトで教育をしようと思っている」


 それは魔術連合国の話だった。人員も足りていない連合国では、こういったプロモーションは双方の利益となる。

 何よりも、魔術連合国は単純に住民も募集しているのだ。カフェで働くもの、武器屋を運営するもの。全てが全て、アベスカだけでは補えないのだ。


「アリ=マイアに足りないのは、力だ。知恵だ。魔術と技術だ。それを補うべく、学校を設立する」

「当然、あなた方にもチャンスはあります。アリス様はご寛大でいらっしゃいますから、立候補がいれば、是非テストや面接をと申しております」

「魔術……」

「これで、俺も街を守れるのか……?」


 アリスが言うのならば……と、教育に関して前向きな言葉をつぶやき始める。

 これだけの力を持つものから教えを請える機会など、滅多に存在しないこと。しかもアリスから直々に、学校へ通ってみないかという申し出があったのだ。


「まずは国の立て直しだ。瓦礫を取り除き、国を直そう」


 アリスが指を鳴らす。すると、国民の目の前には〈転移門〉が生成された。そんな物を知らない国民達は、目を丸くして驚いている。

 重々しい音を立てて門は開いていけば、奥には見知った景色が広がっていた。

 そこは、アベスカの王城前であった。兵士がアリスを見つけると、満面の笑みで彼女を迎える。


「アリス様! 本日も麗しく存じます!」

「ありがとう。見ての通りこの場所は、モンスターに襲われていてな。腕のいい職人達に修繕を任せたい」


 アリスがそう言えば、兵士は更に目を輝かせた。この御方はどれだけ功績を残せば気が済むのだろう、と感嘆している。

 兵士の中では、アリスはもう既に数多くの偉業を成し遂げた素晴らしい存在だ。それだというのに、まだ彼女は何かをしようと言うのだから。驚愕を通り越して、尊敬の念を抱かずしてどうするのだろう。

 兵士はアリスからの命令を受けると、ひどく嬉しそうに反応を見せた。


「おぉ……! お任せ下さい、ただいまお連れします!」

「門は開いたままにする。準備出来次第、こちらへよこすように」

「承知致しました!」


 スキップでもするのではないか、というくらいに元気よく駆けていく。ここまで喜々として、上の者の命令を受ける兵士も、珍しいだろう。

 しかしそれよりも、イルクナーの人間が驚いたのは違う場所だった。


「おい、あれって……?」

「見たことあるぞ、アベスカの兵士だ!」

「じゃ、じゃああの門はアベスカに繋がっているのかい!?」


 あの門はアベスカへと通じている。アリスがよく使うせいで当たり前になっていたが、そのことが非日常であるイルクナーの人々は、一瞬にして遠方であるアベスカと繋がった門――魔術に、驚きが隠せないでいる。

 ユータリスは「しめた」と言わんばかりに、そこに食いついた。まだまだ決定打の足りないイルクナー国民へ、アリスのいい部分を布教するチャンスだ、と。


「アリス様はどこへでも、移動することが可能なのです。あの御方は神であらせられますから」

「お、おぉ……!!」


 実際に目の前で見せられれば、国民も納得がいく。何もなかった場所に、突如として重厚な門が生成され、そこから兵士が顔をのぞかせたのだ。

 そして間違いなく、アベスカの兵士であった。

 アベスカの兵士――人間が仲間なのであれば、このアリスという存在は、危険なものではない。国民たちの脳内に、そんな思考が巡っていく。


「さて……しばらくすれば、職人達がこの国へ来て仕事を始めるはずだ。私は他の仕事もあるし、帰るとするか」

「かしこまりました」

「ここの指揮はユータリスに任せる」

「お任せ下さい」


 ユータリスが深々とお辞儀をしたのを見ると、アリスはフッと笑った。

 ユータリスを残して〈転移門〉を再び生成し、パラケルススとディオンを連れて魔王城へと戻っていった。

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