邪悪な来訪者
その日、イルクナーに住む誰もが絶望を覚えた。死に対する恐怖だった。どれだけ足掻こうと、どれだけ藻掻こうと、希望など現れないという現実が突きつけられた。勇者など都合よく存在しないことを、知らしめるかのように。
現在――イルクナーの地には、悪魔が来訪していた。悪魔は淡々と、作業のように破壊行動を始める。いとも簡単に都市を破壊していくのだ。
アリ=マイア諸国の例に漏れず、イルクナーの戦力は乏しい。ただただ相手の力の通りに、虐殺が続けられていく。
「あぁ、神よ……」
「やめろ、馬鹿馬鹿しい! 神などいない!」
「……おかあさん……おとうさん……」
「アリ=マイア様、我々をお捨てになるのですか……」
突然の厄災の来訪に、イルクナーの人々は神に祈るしかなかった。助けてなどくれない、アリ=マイアの神に。アリ=マイア教徒連合国でも、信心深いと言われているイルクナーだったが、この救いようのない現状を見て、神はいないのだと悟る。
今でも必死に神を信じて祈る女の横で、家族を失い絶望した男が叫ぶ。そんな事をしても誰も戻らないというのに。
親は子供だけでも逃がそうと、体を張った。冒険者でもなんでもないただの一般市民である親達が、生きて戻れるはずもない。イルクナーの崩壊した街には、取り残された子供の泣き声が虚しく響いているだけだ。
それでも親が繋げてくれた命を捨てまいと、必死に息を殺して隠れている。大人と合流できた者、ただただじっと隠れて全てが終わるのを待っている者。
数少ない兵士達の必死の抵抗虚しく、まるで子供が玩具で遊ぶように人が殺されていく。どこに行っても血液と肉の臭いで、馴染みのある街だというのに歩くたびに噎せ返る。
必死に逃げ場所を探して歩き回る人々は、所々に知人の影を見つけてはむせび泣いた。
自宅が燃えて、友人の家が崩れ落ちる。よく行った青果店も、雑貨屋も、食事処も。見る影もなく、すべてが変わっていく。もちろん、悪い方へと。
「なぁ、角のあそこの家、嬢ちゃんがいただろ。どうした?」
「……」
「おい?」
「あぁ、いたさ」
「それで?」
「家族と同じ場所に、置いてきてやったよ」
尋ねた男は、ばつが悪そうに俯いた。
男たちの共通の知人である者には、一人娘がいた。まだ年端も行かぬ可愛らしい少女だ。そしてその両親は、つい先程遺体になっているのを発見した。
遺体、と形容していいものなのか、男達は戸惑う。正しくは肉片とも肉塊とも言える。恐らくあの二人の体であろうという部位と、何となく顔が分かる程度の頭部。
それを見つけた者は、誰もがあまりの非道さに涙した。驚くくらい、吐き気はなかった。この二人を見つけるまでに、幾人もの遺体を見てきたからだ。
それらを見つけては、安全そうな土地へと連れていく。この地獄が収束したのち、もっときちんとしたいい場所へ埋めてやろうと。
逃げ惑う住民達は、見つかり次第その生命を狩り殺された。
美しい港町だったイルクナーは、もうそこにはない。
国は兵力を動員し、来訪した悪魔たちを処理しているが、アベスカ程度の兵力で敵うわけがない。蟻を踏み潰すかのように、兵士達は殺されていくだけだ。
それを見て「役立たずだ!」と叫ぶ者もいるが、心のなかでは勝てるはずがないのだと理解していた。あの残虐な遺体を見れば、誰もが口をつぐむ。それでも何かに当たらねば、己の中に生まれたどうしようもない恐怖を拭えなかった。
イルクナーの兵士が弓を絞り、矢を放とうとしている間に――化け物達は一人二人、数人と命を奪っている。そんな者に誰が勝てると言うのだろう。
元々魔王戦争の後ということもあったが、アベスカに比べれば被害は軽いほうだ。だが元からの兵士の人数が少ないのだ。
何よりもイルクナーは港町で、全てが沿岸部に位置している。そして攻め込まれているのは、陸地側からだ。逃げる先は海――実際は巨大な河川なのだが――しかない。逃げようと海へと駆け出して、運良く船に乗り込める者も存在した。
しかし、船の速度なんてたかが知れている。逃げ切れるはずがないのだ。
「前線はどうなってる?」
「見ての通りさ。この狭い街じゃ、前も後ろもない」
「はぁ、そうだよな。何だよドラゴンだなんて。ここはパルドウィンでもない、アリ=マイアだぞ……!」
イルクナーを襲っていたのは、漆黒のドラゴンだった。邪悪な双翼で空中を舞って、何もかもを凍り尽くすブレスを吐き、人々を蹂躙している。そして引き連れているのは、他の魔物。人の形になりそこねた化け物が数百体に、蛇のような化け物、獅子のようで獅子ではない化け物。
どれもイルクナーでは見たことがない。そして誰も知識にそれを有するものはいなかった。対応策も分からぬまま、出来る限りの戦闘を行うしかなかった。
けれども、それもいとも簡単にかわされる。
「おい、こっちに来たんじゃないか……!?」
「くそっ……。遺体安置所まで行かせるな、止めるぞ!」
安全地帯などない。後方であっても、それはそうだ。主に街を破壊しているドラゴンは、空を飛べるのだ。前線などないも同然。満遍なく街を飛び回り、全てを壊して回っている。
彼らは前線に行った友人が、どうなったのかを知っている。だから抵抗しなければ、街を、人を守らなければと理解していても、本能はそれを拒む。体が強張り、足が止まる。
「ひ、怯むな! 立ち向かえ!」
「ぐっ……わかってる!」
「あれって、やっぱり魔王軍なのか!? 勇者が倒したはずなんじゃ――」
「喋っている暇があれば――ぐあっ!」
必死に抵抗する兵士たちに、クリーチャーが飛びかかる。上空ばかりを気にしていたせいで、近くまでやって来ていた小型の化け物たちに気付かなかった。
クリーチャーは兵士達に飛びつき、頭、首、腕――体の各所にかぶりついて、噛みちぎる。鋭利な爪で引っ掻けば、鮮血が溢れた。見えなくて良い場所まで顕となった。反撃も出来ぬまま、切り裂かれた兵士はドサリと倒れて動かなくなる。
――かと思えばクリーチャーは人を食い、無造作に街中へ捨てていく。鮮やかで美しい景観であったイルクナーは、血の色で塗り替えられている。
「うわぁあぁ!」
「ひぃいい!」
「逃げるな!」
絶望にまみれ、その場を逃げようと走り出した。数メートル走ったところで、兵士の男に氷のブレスが空から降り注いだ。次の瞬間には、男は凍りついていて、二度と動かなくなった。
そしてその凍結した人間を、頭が幾つもある蛇の化け物が破壊する。解凍すれば生きていられたかもしれない男は、とどめを刺されてしまったのだ。
「……ひ、お、終わりだ……」
残された男は絶望した。ガタガタと足が震えて、手に持っている武器を振りかぶろうとも出来なかった。ただ化け物から自分に、向けられたその瞳を見ているだけ。
男がぽろりと涙を流した時。蛇の化け物は慈悲もなく彼を葬った。
一方、教会――
都市の中心部でもある教会は、国民における頼みの綱だ。信心深いイルクナーの民は、アリ=マイア教の教会を最も頑丈に作った。
もし万が一、国に何かが起ころうとも、希望たる教会が無事でいるならば。まだ望みは残されている――とそう信じて。
その際に少しでも励みになれるように、強い造りにしたのだ。
しかし、どうだろう。そもそも街全体が、まるで紙切れのように易々と破壊されている。ドラゴンのブレスの勢いと威力は計り知れない。
人間程度の技術で、それらの攻撃を防げるとは思えなかった。
「まずい! 教会は!」
そして、街一番で頑丈な建物となれば、それは必然的に避難場所へとなっている。現在この教会には、戦いに出られない女性や子供、そして高齢者が隠れていた。非常時には教会へ逃げ込む訓練がなされており、今回も例に漏れずそれを実行した。
だがその行動は、教会が守れる攻撃に対してのみ有効なのだ。つまるところ、圧倒的な力を持ったあのドラゴンの攻撃は――防げない。
きっとブレスひとつで教会ごと、中にいる人間もろとも破壊するだろう。そうなれば守ってくれるはずだった場所は、ただの目立つ的でしかない。
今回の侵略にて、その頑丈さが仇となってしまった。頑丈に出来ているせいで、他の建物が崩壊しているのにも関わらず教会は残っている。攻撃してくれと言わんばかりに、その姿を目立たせていたのだ。
だが、イルクナーの人々には、ドラゴンのブレスから教会を守る力などない。もう終わりだ――そう思った時だった。
どこからか、女の声が響いた。
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