亡霊の蛹

下村りょう

亡霊の蛹

 教室の窓に蛹が張り付いている。

 それは1週間前の早朝にはそこにあった。まるで昨日もそこにあったように、教室に入った僕達の目に飛び込んできた。教室から見る空を埋めるように張り付いた青葉色のそれを、このクラスの誰もが『蛹』と形容する。それは1メートルをゆうに超える大きさで、虫ではない何かの蛹であることは明白だった。

 女子生徒の1人は教室に入った途端に泣き叫んで、しまいには過呼吸を起こして保健室に運ばれたきり姿を見せなかった。残った女子は怒ったり泣いたりとまさに阿鼻叫喚。男子は男子で「きもちわりー」とからかう奴から無関心な奴までおり、しかし女子よりかは落ち着いているようだった。

 ホームルームのチャイムが鳴ってから教室にやってきた担任はというと、教室に入るなり視線が蛹に釘付けで、眼鏡の上げ下げを繰り返してから「自習で」と漏らしてフラフラと教室を去ってしまった。

 奇妙なことに、その蛹はクラスの人間以外には見えないらしい。担任が連れてきた教頭にどれだけ必死に訴えても「見えませんね」の一点張りで、クラスメイトが他のクラスの人間を呼んで見せても首をかしげるばかりだった。

 かくして僕たちは巨大な蛹との共生生活を送るようになったのだ。

 クラスメイトはその蛹の正体について、地球を侵略しにきた宇宙人だなんだと言っていたが、僕はその正体を知っている。

 あれは紗友里の亡霊だ。


 紗友里は僕のクラスメイトで、恋人である。「だった」と表現する方がより慥かだろう。

 死んだのだ。紗友里は。

 紗友里のあだ名は「イモ女」だった。恰好がイモ臭くて芋虫のようにトロいからだと誰かが言いはじめたのを覚えている。別にそれが真実だったわけじゃない。ただ、何かが誰かの琴線に触れて、「紗友里がイモ臭い」のは公然の事実になっていた。紗友里がいじめられるようになったのも、ごく当たりまえのこと。

 初めは可愛いものだった。女子が示し合わせて悪口を言ったり、紗友里の一挙手一投足を笑ったりするだけ。紗友里も当初は笑うばかりだったが、それでエスカレートしたのは言うまでもない。

 体操服が隠されて、教科書が破れて、身体は男子のオモチャにされて。いつ見ても全部が汚いその様は、土に埋もれる芋虫そのものだった。

 いたずらされた紗友里の身体は写真に収められて、積極的に悪口を言っていた女子生徒のアカウントからクラスのグループチャットに送信された。その写真をアイコンにして作られたアダルト掲示板のプロフィールページと一緒に。男子が下品な感想を言い合う中、紗友里はただ一言「やめて」としか言わなかった。

 その次の日に紗友里は死んだ。自宅マンションの非常階段から落ちたのだ。

 紗友里の死は地元の新聞に小さく載った。学校側はいじめはなかったと主張して、担任はホームルームの冒頭で僕たちに「災難だったな」とだけ言った。紗友里の裸はいつの間にかグループチャットから消えていて、僕たちも紗友里の話題を出すことはなくなった。

 僕は紗友里を助けられなかった。僕は昔から人と話すことが苦手で、誰かと話すときはいつだってびくびくしていた。そんな僕は恋人がいじめられていても「やめろ」の一言すら出なかった。紗友里もそれをわかっていたし、仕方のないことだと言ってくれた。

 恋人の直感というやつもあるのかもしれないけど、蛹が紗友里であると確信したのには理由がある。まず、蛹の出現場所。蛹は教室中央の窓に張り付いている。その真横にあるのは件の過呼吸を起こした女子生徒。彼女は紗友里を積極的にいじめていた、いわばいじめっ子だ。紗友里はきっとそいつに復讐をするためにその場所を選んだのだ。

 次に、紗友里のあだ名。彼女は「イモ女」、つまり芋虫ように生きる自分をひどく憎んで、芋虫の自分を捨てて蝶になることを選んだのだということは、現実的ではないが理屈はわかる。紗友里は火葬場でドロドロに溶けて、それがあの蛹の中身なんだろうということも。

 そして、蛹が出現した日は、ちょうど彼女の四十九日だ。


 蛹が現れてから教室の雰囲気は変わった。特に顕著だったのはいじめっ子だ。いつも廊下に聞こえるほど大口を開けて笑っていたとは思えないほど大人しくなった。蛹が目の端にいるのがよほど耐えられないらしく、授業中はずっと嗚咽を漏らして、休憩時間中はトイレに引きこもっている。

 他のクラスメイトも同様で、賑やかだった教室内は幽霊が通ったみたいに静かになって、たまにヒソヒソと声が聞こえるだけになった。まるで蛹の中にいる何かに監視されているように。粛々と、あるいは競々と過ごしている。皆、その中身が誰であるかを薄っすらと感じ取っていた。

 初日には明るいこげ茶だった蛹は、1週間経った今では黒ずんでいる。調べたところによると羽化直前にはそうなるものらしい。慣例に従って、もうすぐ紗友里は羽化するのだ。

 赤赤しい太陽が教室を対角に照らす。そこには僕と亡霊の蛹だけだ。放課後には蛹を置いていってみんなとっとといなくなる。

 運動部の掛け声が遠くに聞こえる。逆光で蛹のシルエットはより黒く目に焼き付いた。いないものにはさせないぞと存在感を主張するようだった。

 その美しさに僕は息を吐く。復讐の象徴に。嘲笑の欺瞞に。

 可哀想な紗友里。弄ばれて今度は見ないふりをされる紗友里。僕だけが紗友里を認めてあげられる。僕だけは羽化のその瞬間まで見てあげる。僕だけが……。口許が緩むのを抑えられず、僕は思わず窓越しに蛹とキスをした。舌を這わせれば微かな苦みのある冷たい無機物に自分の息が跳ね返る度、ひどく興奮する。

「何やってんの?」

 静かだった教室に突然声が響いて、僕は反射的に後ろを振り返った。教室の入り口に立っていたのはムードメーカーと称されるクラスメイトだ。サッカー部のユニフォームを着て少し息を上げる今の彼を見れば、女子のほとんどは黄色い声援を上げるに違いない。

 でも僕は彼の裏の顔を知っている。彼は紗友里に性的ないじめを行っていた最たる人物なのだ。嫌がる彼女を無理やりホテルに連れ込んで行くのを僕は見たことがある。きっと紗友里は初めてだった。それなのにこいつは紗友里に生涯消えない小さな傷をつけておいて、平気な顔をして青春を謳歌しているんだ!

 僕の敵意を感じ取ったのか、クラスメイトは取り繕うように言った。

「ほら、……きみ、帰宅部だろ? みんな部活か帰るかしてるのに、なんでいんのかなって」

「…………い、いや……蛹が」

 長考の末に出てきた言葉が震えていて、そこで僕は度を越えた恥ずかしがり屋であることを思い出した。続く言葉が出なくて、粗を探しているような視線が俯いていても感じられて、顔が熱くなる。そんな僕を見て面白くなったのか、彼はいやに明るい口調で言った。

「ああ、蛹。どっから来たんだろうな。女子は紗友里だ~って言ってたけどさ、君はどう思う?」

 紗友里に決まってる。と言いたくても言葉が出ない。緊張で下を向いたままあ、あ、と口をパクパクとさせるしかできなくて、顔が熱くて。クラスメイトと話しているだけなのに汗さえ流れている気がした。

「俺さ、まだ信じられなくて、紗友里が死んだって。自殺なんかするはずがないって。だって前の日まで普通に喋ってたのにさ。人間って理性的なつもりでもそうじゃいられないのかな」

 バカにするなよ、という一言でさえ出せない。紗友里の名誉よりもこの瞬間の羞恥が勝ってしまっていることが恥ずかしくて、情けない。こいつは自分の罪を認められないのか、きっと罪を罪と思っていないんだろう。紗友里の思いなんて一つも伝わっていなかった。

 顔を上げると、クラスメイトは怒っているのか眉をひそめて僕の方を見ていた。俯いていた時にも感じていた見張るような視線が、目を合わせるとより強くなった気がして、僕は尻込みした。けれど怖気をグッとこらえて彼を睨み返した。

「俺たちも合理的なつもりで、本当のところは屁理屈をこねてるだけなのかもな」

 僕は何も返さない。いや返せなかった。彼の言いたいことがうまく掴めずに、気付けば変なダンスでも踊らされているような気になる。

「俺、忘れ物取りに来たんだった」

 唐突にそう言うと、彼はロッカーの方へ歩み寄って、そのうちの一つに手を入れながら続けた。

「調べたんだけどさあ。蝶って1週間くらいで羽化するらしくて、黒くなったらその合図らしいんだよ。それも最初に比べて大分黒くなったけど、一体何が出てくるんだろうな」彼はロッカーから教科書を1冊引き抜いて「急に話しかけてごめんな。まあ、気を付けて帰りなよ」

 それだけ言うと、小走りで教室を出ていった。

 最後の一言が僕の思いを見透かしているみたいだった。声をかけられた時の、背骨の抜けるような感覚がまだ残っている。

 ガサガサと雑音の混ざった『夕焼け小焼け』が遠くから聞こえる。6時のチャイムだ。

 これを聞いても焦らなくなった自分は大人になれたのだろうか。きっと慣れない。図々しいだけで性根は変わらなくて、答えが分かっているのに手を挙げられない小学生のそれと同じなんだろう。

 今日は早く寝よう。それで朝は誰よりも早く教室に入って、紗友里の生まれ変わる姿を見るんだ。誰にも汚されていない、ありのままの紗友里を。


 それは突然だった。クラスメイトと話をした次の日のホームルーム。授業中にいじめっ子の金切り声が耳に刺さった。

「ねえ、やばいって!」

 その恐怖と驚きの中に怒りが多分に含まれたような声を、僕は待っていた気がする。そして振り返る。蛹を。

 蛹の上部は割れ、その隙間から現れたのは紛れもない人間の手だった。病人のように真っ白な両の手は窓ガラスを叩き、その音をかき消すような悲鳴が教室中に反響する。

 ナイフみたいな夏の日差しが照明の代わりとなって蛹を差す。透けた中身を少しずつ動かしながら、窓に張り付けた腕だけを頼りに、それは必死に出ようとしていた。そして皆が静かに見守る中、頭が見えてきた。

 紗友里だ!

 クーラーに当てられた肌が汗ばんでいくのを感じる。僕は興奮していた。ただどうしようもなくいきり立っていた。罪の表出がただ喜ばしかったのだ。

 そこからは早かった。紗友里はサッシに手をかけて一気に足まで抜け出した。冬服を着ている姿がなんだか暑そうだと思ったのと同時に、そういえば彼女が死んだのは衣替えの前だったと思い出す。真っ黒な服の後ろで不釣り合いな淡黄が見え隠れしていた。

「窓、あけてよ」

 およそ1カ月半ぶりの紗友里の声はいやに明るかった。

 いじめっ子の前の席に座っていた女子生徒が恐る恐るといった具合で窓を開ける。火傷をしそうなほど蒸し暑い風が舐るようにすり抜けて、冷や汗をかいた背中とシャツが張り付いた。紗友里はサッシに掴まったまま、開いた窓からいじめっ子の机に降り立った。

「みんな久しぶりー。元気だったー?」

 緊張した室内にそぐわない、間延びした声が耳に留まる。葬式の光景はもしかしたら嘘だったのではないかと思えるほどに。

「あれの中に入ってる間にさ、ずっと考えてたんだよね。なんでこんなことになったんだろうって」

 紗友里は隣の机へと足を運ぶ。彼女の足に教科書が張り付いて、机と机を移動する間に自重で落ちていく。

「きっとこうやってみんなに伝えるためだったんだよ。大切なことをさ。こんな不思議なことが起こるなんて、神様がいるみたいだよね」

 両足を揃えたらまた隣へ。

 ゴトン、ゴトン、ゴトン、「でも神様がいるんなら、こんな最低最悪なことにはならないよね」ゴトン。

 紗友里は僕の机で立ち止まる。そしてこちらを向く。見上げれば紗友里と目が合った。周囲の視線が僕に集中する。翅に目を移すともう開ききっていて、近くで見るとピクピクと震えていた。

「なんであたしのこと殺したの」

 殺した?

「あたしさ、あんたのことなんとも思ってなかったよ。しょーじき背景と変わらなかった。机とか壁とかと一緒だったの。喋ったこととか、あの時に言われてそんなこともあったっけなって思ったくらい」

 僕が? 紗友里を?

 理解が追い付かない。言葉が脳の隙間をすり抜ける。だって僕たちは恋人で

「そんな程度でさ、あの日わけわかんない事、あたしがいじめられてて、助けてあげるとか、あたしと付き合ってるとか……それで急に襲い掛かってきてさ。突き落とされたとき、なんであたしがこんな目に遭わなきゃいけないんだろうって思ったよ。……お前も同じ目に遭えばいいって思ったよ!」

 舌、じゃない。紗友里の口から何か丸いものが




 一瞬だった。紗友里の口から――蝶の口のような――丸まった黒い筒が出てきて、それが伸びたかと思うとクラスメイトの右目に飛び込んでいった。何を言うでもなくずっと蛹を見ていて、昨日は教室に1人残って蛹を見ていたクラスメイトだった。

 そして彼のふくよかな身体は徐々に細くなっていった。体中のものを吸われているみたいに。紗友里は怒るでも悲しむでも、喜ぶでもない、なんとも思っていない目で彼を見下していた。その姿は花の蜜を吸う蝶のようだった。俺はそれに釘付けになっていた。恐怖と説明がつかない現状に目は逃げられず、声すら出なかった。

 彼の紗友里を見る目が異様なことに気が付いていなかったといえば噓になる。恋人だった紗友里を見ていると、不思議と彼も目に付いた。けれどもその目は思春期の男子なら普通の、どの異性に対してでも一時的に向けられる猥褻なものだと思って見過ごしていた。紗友里は彼に殺されたのだと聞いて、心のどこかで「ああ、やっぱり」と思っている自分がいた。

 頬骨が浮き出るまで体の中身を吸われたクラスメイトは、何の反応も示さないまま、紗友里の黒い筒が抜けるとそのまま横へ倒れた。きっともう死んでしまったのだ。黒い筒は丸まって、紗友里の口の中へと仕舞われた。

「はは。これ、なんていうか、全然すっきりしないね」

 こんなことしても生き返ったりできないのに。と紗友里は続けて、教室に入ったときと同じように机の上を歩いて、窓際へと戻っていった。そして窓枠を乗り越えると翅を大きく動かす。

 天国へ飛んでいってしまうのだと、わかった。俺は立ち上がり紗友里の背を目掛けて走った。クラスメイト達の机が腰から下にぶつかるのもお構いなしで。

「さゆり!」

 窓から身を乗り出して叫んだ俺の声は、もうはるか上空に行ってしまった紗友里には届かなかった。

 彼と俺は何が違ったんだろう。憎みながらも紗友里が最後に考えていたのは彼のことだった。彼のために不可思議な現象を起こして俺たちの前に現れた。俺の方を見向きもせず、俺の知らないところへ行ってしまった。

 紗友里は俺を想っては逝かなかった。

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亡霊の蛹 下村りょう @Higuchi_Chikage

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