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「はぁ、はぁ、はぁ……。 こ、この先か、ウィル?」
息も切れ切れ、腕と足には乳酸が溜まり、事が進展もしない内にダメージが秒刻みで季人の肉体を蝕んでいく。 季人は今年一番の疲労度レコードをこの瞬間更新した。
というのも、カードリーダーを高電圧でショートさせ、強制的に開錠はできたものの、自分が通れる分の隙間を空けるまでが大変だったからだ。
『そこのゲートに入室記録が出てる。 資料室の時と同じICカードが使われてるから、間違いない』
膝に手をやったまま目線を少し上にあげると、第一製造工場という表記が掲げられていた。
またICカードか……と胸の内で呟いてから、上体を起こす。
「よ、よし。 それじゃあ、ふぅ。 い、行くとしよ――」
そろそろじっとしていて欲しいという思いと同時に、グローブをはめた右手を顔の横まで持ち上げた時。
――パァン!!
季人の声を遮るように、そんな乾いた音が鳴り響いた。
「……は?」
一瞬、それが何を意味するのか理解できなかった。 自分の脳内でその音に類似したものが候補としていくつも上がる。
その中で一番近かったものが風船の破裂音だった。 だが、それも一瞬で脳内から除外された。
今この場で、その音の意味する事は何なのか? 季人は持ちうる妄想力で予測を立て、十中八九間違いないと確信し、鼓動が速くなる。
『季人、今のは?』
ヘッドフォンの向こう側でウィルが尋ねるが、季人はそれに反応出来なかった。
「……っ」
気付けば、足を縺れさせながらゲートに手をつき、カードを読み取るパネルに向けて腕を再度振りかぶり、渾身の力で殴りつけた。
インパクトと同時に高圧電流が接触点へ流れ込み、火花と煙がパネルから吹き出した。
季人はそれを見計らって両手を取っ掛かりに引っ掛け、全力で扉をスライドさせる。
「セレン……!!」
やってしまったのか、事はもう起ってしまったのか……。
そんな考えを振り払うように季人が叫んだ。
僅かに開いた扉から気圧の差で入り込む風が、季人の頬をなでる。
肩口から体を潜り込ませるようにして工場内に入った季人は言葉が続かなかった。
「……っ」
確かに、そこにセレンはいた。
季人は前のめりになりながらセレンの下まで近づき、膝を折る。
セレンは床に横たわっていた。 ただ、彼女の着ていた純白のドレスは、今では深紅のグラデーションが腹部から広がり、今もその割合を増している最中だ。
そして、セレンを挟んだ向こう側には、今まさに撃ったばかりであろう拳銃を手にした那須が、足元に転がってきたフルートを踏みつけながら面白いものを見たような視線を季人に向けていた。
「おや、君は先日我が社に不法侵入した青年じゃないか」
なぜそれを、とは思ったが口にはしなかった。
どういうわけか知られている。
監視カメラの類はウィルが管理していた。
もしかしたら、フランクのいた部屋に何かしら仕掛けがあったのかもしれない。
季人があの真っ白い部屋に行った時にフランク自身から、侵入があった事は那須に知られていると告げられている。
……だが、今はそんな事は重要じゃない。
季人は目の前の状況に頭を切り替える。
「あんた、動けるのか?」
セレンが優勢に立ち回れていたのは、催眠効果が働いていたからのはずだ。
しかし、今の状況はその前提が覆っているようにしか見えない。
「もちろんだ。 こういう時の為の対策をしていないと思っているほうがどうかしている。 そもそも、自社の製品に対策を施しておくことなど、企業としては常識なんだよ」
那須は自身の左耳を指さす。 よく見れば、灰色をした補聴器のようなものが耳孔にはめ込まれていた。
「私は以前、実験中にちょっとした事故から交感神経の異常からくる筋肉の減退と、聴覚異常を起こしてしまってね。 以来そのサポートとしてコイツの世話になっているわけだが、業界最先端であるサウンドメディカルの補聴器が、単なる名前通りの代物だというのなら、それは大きな間違いだ」
まるで新製品を宣伝するかのように、その口上は滑らかで聞き取りやすかった。
しかし、今の季人にとっては害虫の羽音のように耳障りで仕方がない。
「それも、彼女の力を研究しているのなら尚更だ。 毒を研究している者が解毒剤を常備していることと同じだよ。 実験の最中に研究者が催眠状態にかからない為に、異相の周波数でセレンの声をノイズキャンセルしておけば、何ら問題はないというわけさ。 なにより、ビジネスとして毒を撒くのなら、予め解毒剤は接種しておかなくてはな」
那須のいう事は至極もっともではある。
炎に立ち向かう消防士が防火服を纏う事が当然のごとく、何事にも安全策、対応策は必要だ。
そも、元研究者でもあり社長と言う立場であるならば、それは顕著なのかもしれない。
だから、これは偶然不運が重なったと自身を納得させる以外にない。 このような事態を想定しての事ではないとは思うが、那須がそのような物を着けている事はセレンにとっては想定外の事だったのだと。
しかし、それでも一つ解せないことがある。
「……セレンが視界に入っていたら、駄目なんじゃないのか」
彼女の力は奏でる音楽だけにあるわけじゃないはずだ。
まだはっきりと断定できているわけじゃないが、音楽ホールで季人を気絶させた二つ目の効果である、セレンを視界に収めてはならないという力がまだある。
しかし――。
「視界に入っていたら……か。 的を得ているようだがそれは少し違う」
「何?」
「セレンを視界に収めるのではなく、……セレンを前にして、生の演奏が届く範囲に居たらと言うべきかな」
「生の……演奏?」
季人の言葉と、ヘッドフォン越しに聞こえるウィルの言葉が重なる。
那須は間を置いてから口を開く。
「いいだろう。 こんなところまで来た褒美に教えてやる。 当初セレンの力は、自身が楽器を演奏する事によって発露するものだと思われていたが、そのメカニズムはもっと複雑なのだ。 例えるならば、そう、オペラ歌手がいい例だろう。 オペラ歌手は、自らの体を楽器として響かせ、その声量、声質をもって、多くの人々を魅了する。 それと同じように、セレンの演奏は、楽器から直接作用するのではなく、一度自らの体を通して、その音色を反響させることによって、ただの演奏が特殊な力をもつのだ。 言うなれば、自らの体を通した際の、音の僅かな波形の変化こそ、セレンの力の本質なのだ。 その波形は聞くだけでなく、浴びただけでも効果を発揮する。 まさに、魔笛と呼ぶに相応しい力だ」
「……」
それが、ハーメルンの笛吹き男やセイレーンを彷彿とさせた能力の真実。
だとするならば、音楽ホールで、セレンを視界に収めたから昏倒したのではなく、セレンの体から発せられた演奏の特殊波形を浴びた事による能力の影響ということになる。
聞いても効果を及ぼし、近くでその波形を浴びても効果がある。
那須が魔笛と言ったのも頷ける。 これはもう、神話や民間伝承クラスの力だ。
「しかし、その力をデジタル化するにあたり、どれだけ鮮明に再現しようと、どれだけ真に迫ろうと、ノイズキャンセラーやミュートデバイスによる能力の無力化は避けられなかった。 加えて特殊波形の解析は進まず、完全な能力のデジタル化や機械を通すことによる能力の劣化はどうやっても防げなかった。 結果、出来上がったのはフランクの残した研究資料からのデッドコピーというわけだ。 しかし逆を言えば、セレンの演奏をリアルタイムで機械を通さずに聞いた場合は、それを阻害するフィルターが在ろうが無かろうが、対象者は確実に催眠効果状態へと遷移するがな」
それは、那須以外の者にとっては不幸中の幸いと言えるだろう。
もし仮に、セレンの演奏中に発する特殊波形まで解析されてしまっていたら、音楽を聞かせるなんて方法を取らずとも、その波形を発する音波なりを対象に向ければ、容易く催眠効果を発揮してしまうのだから。
そしてもう一つ、確かな事がある。
恐らく、セレンは新宿で那須の車に乗った際、車内で演奏したのではなく、何らかの方法を使って車載のオーディオからあらかじめ用意していた音楽を流したのだ。 きっと、フランクの言っていた協力的な同僚とやらに手伝ってもらったのだろう。
そして、補聴器をつけていない他の者達は催眠効果によりセレンの傀儡となり、補聴器兼セレン対策を施していた那須はそれを回避した。 これがもし、オーディオではなくセレン自身が奏でる生演奏だったとしたら、現状は違っていたかもしれない。
いや、その場合は即座に那須が引き金を引いただろうか……。
「それにしても、銃とは難しいものだな。 慣れてはいないとはいっても、しっかりと心臓を狙ったつもりだったのだが。 まぁ、その出血量なら死ぬまで時間はかからないだろう」
セレンの額には玉のような汗が浮かび、呼吸も荒い。 顔色は秒単位で血の気を失っていく。
致命傷は避けたのかもしれないが、それが何の救いにもならない事は季人にも分っていた。
「さて、一体何のつもりで我が社の工場見学をしようとしたのか……。 まぁ、その様子からしてセレン目当てのようだが。 そういえば、どうやら先日は機密データを吸い出していたようじゃないか」
那須の持つ拳銃の銃口がゆっくりと季人へと向けられる。
「返してもらおうか? そうすれば、直ぐに彼女を医者のところへと連れて行けるだろう」
狡猾に立ち回るだけの底の浅い男じゃない。 流石は大学時代、マーケティングに注力していた過去を持つ男だ。 自分の持つカードと相手の思考、攻め際と引き際をしっかりと把握している。
「……俺達を見逃せば、データは返す」
追い詰められた時にこそ発揮する持ち前の軽口も、思うように出てこない。
目の前に突き付けられた拳銃に臆しているからではない。 緊張のし過ぎで頭が回らないからでもない。
むしろ、この後の展開が予想出来すぎて、準えられたシナリオを消化するように台詞を吐くことしか出来ないのだ。
「駄目だ。 優先順位はまず、データの返却だ」
当然、那須がそう返すことは予想できた。
「……ここには、無い」
正直、これは意味のない問答だ。
データの明け渡しや消去は、それが唯一のマスターデータなのかがはっきりしないと意味がない。
仮に、直接ウィルにここまで来てもらって目の前でデータの明け渡しを実行しようにも、それまでセレンがもつわけがない。
「ここで俺たちを殺したら、データは二度と戻らないぞ。 これまであんた達がやってきた誘拐騒ぎも、数分後には世界中に知れ渡ることになる」
手持ちのカードで切れると言えば、これくらいだ。
エースでもジョーカーでもない。 単なるブタのカード。
「そうか、君は単独犯ではないのか」
「……そうだ」
「ならば、どの道データが帰ってくる可能性は低く見積もる必要があるな。 現状我が社のデータはそこの女にあらかた消されてしまってね。 君達が返してくれるのなら、私は何重にも封をしたバックアップを開けずに、労せず復旧も早く済むと思ったんだが。 やはり、楽をしようと思うとろくな事にならない。 何事も地道が一番というやつだな」
カチリ、と那須は親指でリボルバーのハンマーを下げる。
「とりあえず君たち二人には死んでもらうとしようか。 どの道、私もここで引くという選択肢はない。 なに、この程度の逆境は、これまでにも幾度となくあったんだ。 そういう時はな、まず行動を起こして、後から考えた方が、時間を有効に使える。 だいたい、誘拐事件にしても、真相を話したところで頭の固い連中には与太話にしか聞こえないだろう。 結局、どうとでもなる問題なのさ。 この程度はね」
目を細めるようにして、笑みを浮かべているのか、狙いを定めているのかどちらとも取れる顔を浮かべる那須厚貴。
「……あぁ、そうかよ」
季人は捨て鉢にそう口にして、目を瞑った。
項垂れ、自分の行く末を悟ったが故の、未練すら手放したその姿。
誰が見ても……那須にですらそう映っただろう。
それも当然だ。
初の邂逅の場で交渉にすら発展せず、劣位性が覆りそうもないこの状況。 ただ一方的な死を受け入れざるを得ないと、この場なら誰もがそう判断するだろう。
それだけ拳銃と言う存在は、イメージと威力を持っている。
大抵の人間なら、生に対しての執着から体が悲鳴を上げ、それが震えと言う形や、叫びと言う形で現れる。 より保身を考えるのなら、命乞いをする為に、それこそあらゆる手段を講じるだろう。
自分の命とは、何ものよりも代えがたく、それを守ろうとすることは生物である以上、自己保存というDNAレベルで刻まれている絶対の大原則なのだ。
――もし、世の中に例外があるとすれば……。
しかし、銃を向けられ、血に染まる少女を抱えている青年はそうではなかった。
目を瞑ったのは、全てを投げ出したから。 そこに間違いはない。
だが、それは命をではない。
全ては、仕切り直す為……。
意識を切り替えるために、余計な考えを全て投げ捨てるためだ。
御伽を探すために音楽ホールを訪れたあの日、季人が唯一持ちえた武器は、余裕という仮面を被ること。
形だけでも飄々とすることは、凝り固まった自身の頭に、精神に、体に次へ動く為のリラックス状態と瞬発力を作る。 自身を客観視し、事態を俯瞰から見る事によってあらゆる方角から優位を探る。
季人はこの時、確かに恐怖は感じていた。
神秘の力を持つ少女の命が目の前で失われることに。
同時に季人は、確かに怒りを覚えていた。
神秘の力を奪おうとしている目の前の男に対して。
水越季人にとって、セレンの力が闇に葬り去られることなど、絶対に許されない事だ。
季人の根幹を成すその絶対条件に、DNAの自己保存命令は届かなかった。
そして再び目を見開いた時、季人は冷水を頭からぶっ掛けられたかのように、視界も脳内も冴えきっていた。
異常な緊張感、非現実性が、普段とは比にならないほど、アドレナリンの分泌量を過剰に増加させる。
「……」
目は逸らさない。 那須はさっきほど、拳銃で心臓を狙ったつもりが腹部に当たったと言っていた。 なら、次の発砲が確実に命中するとは、一概にも言えない。
那須との距離は約十メートル。 発射姿勢を特に定めない、片手だけでの発砲。
那須自身は殆ど拳銃に関しては素人と見ていいだろう。 加えて、筋肉の減退と言っていたことからしても、反動を抑え込めていない。 きっと、動く目標になんてそうそう命中は望めない。 なら、動く目標に自分がなればいい。
「……」
だがまだ動けない。 一発目の反動で確実に二発目は時間がかかる。 それを狙う。
セレンを撃った後、那須はもう一度ハンマーを操作した。 ということは、奴の持っている銃はシングルアクション、一発づつハンマー操作が必要なモデルの可能性が高い。
もし仮に、銃弾が自分の体の一部に命中した場合も、プランは変わらない。
きっとすごく痛いだろうが、めちゃくちゃ痛いだろうけど……覚悟しているのといないのとでは、初動に差が出る。
季人は奥歯をかみしめ、その瞬間を覚悟しつつ、脳内の片隅では別の事を考えていた。
――一番の問題が脳天か胸部を撃たれた時だが……。 その時は……PC内のエロ画像どうしよう……と。
那須が引き金に力を籠めようとした瞬間……。
季人と那須の視界は白色の煙によって遮られた。
「っ!? 何だ!?」
那須の見上げた先、天井の消火装置から二酸化炭素のガスが噴射され、それに怯んだ那須はあらぬ方に拳銃を発砲していた。
季人は一切の迷いも無駄な動きも見せずにセレンを抱き上げ、射線から逃れるべく駆け出した。
「ちぃ……っ!」
舌打ちをしつつ那須は続けざまに発砲するが、動く目標に加え、天井から吹き付ける消火剤に視界を遮られ、放った弾丸は命中しない。
背後に発砲音と兆弾の気配を感じながら、季人は全速力で距離を離す。
消化剤の噴射が止み、一度だけ背後を振り返ってからこの機会を作った相棒に語りかけた。
「ふぅ、助かったぜ、ウィル。 神がかりなタイミングだ」
那須との会話を聞いていたウィルが、最良のタイミングで消火装置を作動させたのだ。
コンテナの陰に隠れながらセレンの身をゆっくりと下ろし、一息つきながらそう口にする。
『無事で何よりだよ。 僕も少々肝を冷やした』
施設の管理システムは、オンラインである限りはウィルが掌握している。 災害に対する防火設備などは、管理上その最たるものだ。
「ひとまずここから早く出ないと、セレンの出血がやばい。 このままだとショック死するかもしれない」
汗で額に張り付いた髪を払い、顔色を再度見る。
意識は失っていないが、いつ手放してもおかしくない。 無理に動かした影響で、負担も掛かったはずだ。
『直ぐに救急車を手配する。 だけど、救急隊員がそこまで行くのは時間がかかるし、きっと難儀する。 どの道そこからセレンを移動させないと』
「そうか……そうだよな」
現状で脅威となっている男を何とかしない事には、救急隊の下に行くにも、救急隊がここに来る事も出来ない。
「……くそ」
季人がセレンを抱えて走ってきた方角、距離が開いた入場ゲートをコンテナの物陰から除くと、那須が半開きになっていたそれを再び閉じるところが見えた。
それを見て舌打ちする季人。
続けて放たれる那須の言葉。
「セレンがその様子だと、二人して逃げるというわけにはいかないな」
静まり返った工場にその声はよく響く。
二人が消えた方に向かって那須が声を上げるのに対し、若干声を張り上げて返答する季人。
「ああ。 どうやら、あんたを否が応にもなんとかしなくちゃいけないらしいな。 だがいいのか? ここにはもうすぐ人が来るぞ。 そうなったら困るんじゃないのか」
「ここは私の工場だ。 人目に付かずに行動することなど容易い。 それに言っただろう。 全て終わらせてから考えると」
那須はゲートの前から動かない。 それもそのはずだ。 季人が那須を打倒しなければ詰みなのは分りきっているのだから、危険を冒してまで那須がその場を動く必要はない。 ただその場で、獲物が耐え切れなくなって顔を出すのを待っているだけでいい。 非常口でもあれば話は別だが、あればとっくにウィルが提案しているだろう。
「うっ、く……っ」
横たえていたセレンが呻き声をあげる。
無理に起き上がりろうとしてバランスを崩したセレンを、季人は後ろから肩を抱いて受け止めた。
「セレン、もう少しの辛抱だ。 がんばれよ」
そう言うことしかできない。
それが彼女の容体を好転させるとは思っていない。
しかし、季人は本気でこの場を乗り切ろうと思っていたし、セレンを助けようと思っている。
自分は彼女の為に、ここまで来たのだから。
「はぁ……ぁ……」
薄く目を開け、季人の姿を今初めて確認したセレンは何かを訴えようとするかのように唇を震わせる
「大丈夫だ。 体力を消耗するから今はしゃべるな」
続けて語りかけようとしたが、出来なかった。 息を飲んだとも言っていい。
なぜなら、目元を細腕で隠し、その下から大粒の涙を零す少女がそこに居たからだ。
「はぁ……っ、はぁ……く……うぅ……くやし、い……っ」
喉の奥から絞り出すように出てきたのは、苦悶と嗚咽の声。
「……おい、しゃべるな」
「これじゃ、……結、局。 はぁ……あいつ、の、手、のひら……う、え……」
震える声で吐露する間にも、その瞳からは涙が途絶えることがない。
「しゃべるなっての。 お前はよくやったさ。 大企業の社長をここまで追い詰めたんだからな。 しかもあんな……」
「うぅ、ぐすっ……はぁ、あ……はぁ……」
きっと、ここで何を言っても彼女にとって慰めにはならないと季人は判断して、出かかった言葉を飲み込んだ。
代わりに、自分とセレンにとって最も前向きな事を口にする方がよほどいい。
何せこれからそれが現実となるのだから、セレンを安心させるにはもってこいだ。
季人はそう考えて、音楽ホールで初めて出会った時の様に、努めて明るく、気さくに言い聞かせた。
「……セレン、今は体力を温存しておけ。 少し休んで、次に起きた時は、あいつの吠え面を拝ませてやる」
それだけは変わらない事実。
自分の興味本位で踏み込んだセレンのいる世界は、想像以上の非現実性を季人に体感させたが、ノンフィクションであることもまた事実。
ドラマの終幕を迎えるのなら、この環境、現状、タイムリミットは申し分ない。
だからこそ、そんな大口も決して言い過ぎではない。
「……ぅ、ん」
セレンは僅かに首肯して、深く息を吐いたのちに体を弛緩させた。 気を失ったのだ。
季人はゆっくりと抱いたままだったセレンの肩を床に横たえさせる。
そして、意識を切り替えると同時にウィルの声が耳に届く。
『季人、やるんだね』
「あぁ。 どの道、那須の野郎を黙らせねぇと俺も帰れないからな。 このまま何もせずにセレンに死なれるのも、寝覚めが悪い。 それに、女の涙には答えてやらないと、男じゃねぇだろ」
自分は今、一般的に言うところの熱くなっている状態だ。
ただ、それが苛立ちとか、義勇からくるものじゃないことは自覚している。
このテンションの上がりようは、もっと別のところからくるものだ。
『季人……』
「俺はこんな性格だから、悔し涙なんて流したことないけどよ。 それがすげぇ純粋なもんだっていうのは分かる」
那須を打倒する理由が、もう一つ増えた。
それが歳幅もいかない少女の悔し涙だというのなら、報いてやりたい。
圧倒的に不利な状況下にあってもなお、単純に、シンプルにそう思った。
『……うん、そうだね』
「ま、あとは能力者っていうすげぇ人間を死なせるわけにはいかないだろ」
『へはは。 それが本音なんじゃないのかい?』
それも否定はしない。 もしかしたらレートとしてはそちらの方が上かも知れない。
だが、どちらも心の底から思っている事である以上、間違いではないのだ。
「とにかく、飛び道具持ちの相手にどうやって突破口を開くかだが、妙案あるか?」
脅威となるのは那須の手にするリボルバー。 反応出来ない速度で迫る弾丸に対して、対抗手段がどうしても必要だ。
『手持ちの武装はそのグローブだけだしね。 まわりに使えそうなものは?』
グローブの嵌め心地を掌を握ったり閉じたりすることで確かめながら、ここに来てから短時間の中で見て、把握した工場内の物資を頭の中に再構築する。
しかし、季人の表情は芳しくない。
「使えそうな物って言っても、でっかい機械があるばかりで……緑の大男でもなければ振り回せそうにないな。 さっきみたいにもう一度消火剤を出すことは出来ないのか?」
『出来るけど、あれは二酸化炭素を利用したものだから、これ以上は君が酸欠になって身動きできなくなるよ。 同時に那須も無力化できるだろうけど、結局セレンは助からない』
「なるほど。 通りで、少し息苦しいと思ったぜ。 緊張のせいじゃなかったのか」
水や粉末の消火装置と違い、精密機器などを扱う施設の場合、後に機材を傷めない二酸化炭素の消火装置を用いる場合が多い。
消火能力においては前者二つに引けを取る物ではなく、消火後の処置も簡単であることから、様々な場所で用いられている。
しかし、使用されている物が二酸化炭素である以上、閉鎖空間ではその使用は厳重な管理体制の下で行われる。
消火媒体が目に見えないというだけで、使用された空間はそれが充満すれば人の身体に重大な影響をもたらすからだ。
『……よし、じゃあこうしよう。 周りに大きな機械はあるんだよね? なら、それを起動させて気を散らせよう。 彼は補聴器をつけているんだろう? 音でも何でも、機械を稼働させて気を散らせれば、向こうも聴覚と視覚からの情報量に少なからず混乱するはずだ。 こっちはこっちで……』
ウィルが「これだ」と言うと同時に、工場内の明かりが黄色灯のランプに切り替わり、ガクッと工場内全体の光量が落ちる。
「いいアイデアだ。 よし、俺は那須の死角にある機械からどんどん動かしていくぜ……って、あれ?」
『どうしたの?』
季人が身近にある機材に中腰で近寄り、目線の高さにある様々なボタンに向けて手を伸ばす。
しかし、返ってくるのは応答のない機械の反応だけ。 他の機械にも同様の操作をしていくが、どれも同じだっだ。
「いや、電源が……入らない。 ていうか、電力が来てないっぽいぞ」
『……セレンが工場を無力化しようとしたことが裏目に出ちゃったか。 ……物理的に電力供給がカットされてるね。 こっちじゃ操作できない』
残念だが、仕方が無いと言うほかない。 むしろこの場合は、セレンの手際のよさを褒めるべきだろう。
彼女は間違いなく、那須を追い詰めていたのだ。
「プランBは?」
『あ~、時間もないし……物陰に隠れながら距離を詰めるしかないかも』
いきなりの極論に季人が流石に口を挟む。
「それ最終手段じゃない? 頼むよ軍師」
『う~ん、けど時間もないしね』
それは、暗にセレンの事を言っているのだと直ぐに分った。 ウィルの言う通り、ここでちんたらしている時間的余裕は季人にはない。
だからこそ、時に開き直りが大切なのだ。
「……まぁ、そうだな。 ここまで出来過ぎだったしな。 そろそろ気張らなきゃいけない頃だと思ってた」
『そうさ。 ここからが、水越季人の本領発揮だ』
ウィルが発破をかけてくれる。
こういう追い詰められている時こそ、背中を叩いてくれる友が本当に頼もしい。
「……よしっ」
意識を切り替え、季人は機械や機材の物陰に身を潜め、セレンから距離を離しながら、那須の方へと回り込むように進んでいく。
障害物で射線を外しているとはいえ、季人の心臓のBPM《テンポ指数》は人生最高値を叩きだしている。 一息つくたびに、ふにゃりと全身の力が抜けそうになる。 こうも連日の様に心臓を酷使し続けたら、そのうち心不全を起こしそうだと季人は苦笑いを浮かべた。
冷静に考えれば無茶な話だ。 向こうは飛び道具で、こちらは近接武器。 引き金を引くだけで相手を殺せる殺傷武器と、殴りつける動作が必須な鎮圧アイテム。 もとい、ハッキングツール。
余程の好条件でなければ、こんなこと自殺行為にも等しいだろう。 いや、だろうなどではなく、もうこれは身投げと同義だ。
「こうなったら、ウィルに依頼する次のガジェットは、根性機能が搭載されていて、身体機能が急激に上がって、銃弾なんかもバリアとかで跳ね返せるようなものに決まりだな」
そんなファンタジー染みた代物を妄想している間にも、じりじりと距離を詰めていた季人は、ナメクジといい勝負が出来そうなくらいのスローな動きで、顔を物陰から出して、那須との相対距離を測る。
遠目に見える那須は予備の弾丸も用意していたのか、弾倉から薬莢を取り出し、新たな弾を込めているところだった。
「おいおい……無駄に残弾数を数えてたのが無駄になったじゃねぇか。 また振り出しかよ」
自動式拳銃と違い、回転式拳銃は装弾数が大体決まっている。 しかも、前者のそれとは違い、装填数も多くなく、再装填にも時間がかかる。 クイックローダーなどのリボルバー用装填器を使用する場合はその限りではないが、那須がそんなものを持っているとは考えにくい。
「……ん?」
離れた位置から見る那須は体を季人のいる方に向けている。 どうやら、弾込めと一緒に消音装置も装着しているようだった。
そして、その腕をゆっくりと持ち上げ、銃口をこちらに向けるまでがスムーズ過ぎて、一瞬反応することも忘れて目で追ってしまった。
「いっ!?」
顔を引っ込めるのと、弾丸がその近くを通り過ぎるのは殆ど同タイミングだった。
心臓が物理的に飛び出しそうになるのを、そんなはずがないのに左手で押さえつける。
「はぁ、はぁ……っ。 あっぶねぇ……っ」
居場所を把握されていた。 どこかで少しでも身を物陰から出してしまっていたのか。
このままここに居ても、出待ちされる。 他の場所を探さないといけない。
「くそ、時間がないってのに」
警報が鳴り続ける中、軽くボヤきながら他のポイントへと再び身を潜ませながら進む。
時間的な余裕の無さと、圧倒的な形勢不利は、徐々にではあるが、季人の精神を逆に落ち着かせていく。
音楽ホールの時と同じように、自分の意識一つで、精神に余裕を持たせるだけの空間を造る。
それによって、追い詰められれば、それだけ季人は状況を客観的に、自分自身を含めて俯瞰で見ることにより、冷静さを保つことができる。
非現実性の中でのみ発揮される自分の非常識な一面。
そんな、唯一ともいえる季人の潜在的なスキルに、季人自身が縋り付いていた。
「那須は……」
再び物陰から那須の位置を把握しようかと思った季人の鼻先を、那須が放った銃弾が掠めていった。
しかし、今度の季人は驚きはしたものの、先ほどの様に慌てるという事はなかった。
確信に近いレベルで、少なからず予想はしていたからだ。
「何で俺の位置が分かるんだ……?」
季人は影となっている機材に背中を預けながら、独り言のようにつぶやく。
今の銃撃は、自分の姿を晒す前に放たれた。 向こうは間違いなく、何らかの手段でこちらの位置を把握していると言う事だ。
しかし、聞こえていないはずのその呟きに対して、返答は直ぐに帰ってきた。
「聴覚異常と言ったがね。 何も聴力が下がったわけではない。 むしろその逆だ。 だから――」
「……っぐ!?」
那須が話している間にポイントを変更していた季人のもとへ、再び銃弾が放たれた。 射線は季人の位置からはズレており、やはり銃の扱いは苦手なようだが、それでも脅威であることには依然変わりはない。
「君が動けばそこに音が生まれる。 警報の煩い音さえも聞き分けて、君の居場所は工場内にいる限り私の手の中だ」
そう話す那須は左手で両耳に嵌められていた補聴器をコロコロと転がしていた。
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