第35話 鬼神

 あの河原に引き摺り込まれたように、深く深く、僕という存在そのものがが沈んでいくようだった。


 僕へと伸ばされた手。あの言葉も……。


 本当は誰の言葉であったのか、判別がつかなくなった。

 目に映ったその姿も、耳に届いたその声の色も。引き寄せられた時にふわりと舞ったその匂いも。

 この身を包む……その手の感触も。


 ……本当は誰のものであったのか……分からない。

 記憶が塗り替えられていくようだった。



 神司の手が僕に絡む。その胸に埋める僕の顔は、もう……。

 他の何かを見る事も許されない……そんな束縛だった。


「やめろっ……! 依を離せっ……!」

 蓮の声が遠くに響いていた。

「境界によって区切られたこの領域は、他の誰も入る事が出来ません。依……」

 耳元で聞こえる声だけが近いまま、離れる事はなかった。

 神司の手が僕の頬に触れる。

「あなたは……私だけを見ていればいいんです。あの事を彼が知ったら……どう思うのでしょうね……? もう一度……試してみましょうか……?」

 指先で僕の頬に流れ落ちる涙を拭うと、真っ直ぐに僕の目を捉えた。

 間近に感じる神司の息遣い。顔が視点を捉えられないくらいに近づいた。


「依……!! やめろーっ……!!」



『依……お前だけは……俺の側にいてくれるよな……』


 ……蓮……。



 僕は、諦めたのか、神司の意に従わされているのか、目を閉じた。

 神司の唇が、首筋から頬へと温度を伝える。

 この束縛から逃れようとする気力が湧かなかった。

 僕の中にポッカリと穴が開いたみたいに、抜け落ちてしまったようだった。

 失うものの大きさが、失わせようとするその大きさが、大き過ぎるからなのだろう。

 まるで……あの時、依代が突き刺さったように……僕の体に穴が開く。


 僕へと伝えられるその感触と温度が、頬から先へと進む事はなく、温度も感じられなくなった。

 神司の動きが……止まった……?

 そう気づいた瞬間だった。


 バリッと破れるような音が耳に流れた。

 地面から光がパッと弾けて、円を重ねた模様が地に浮かんだ。

 空間が裂かれると、声が走る。


「そこまでだ」


 ……この声……。


 僕は、声のする方を振り向いた。


「空間領域も地に足を置けば、下界の領域と結びつく。私が立ち入るには容易な事だ」


「父上……!」

「総代……!」


 当主様……。


 月明かりが眩しくその姿を照らし、長い髪がそっと風に揺れていた。

「柊」

 当主様の呼び声に、式神がその姿を現した。

「はい。流様。わたくしにお任せ下さいませ」

 当主様と同じくらいの長い髪が、ふわりと舞うように揺れる。穏やかな女性の姿を持った、その式神の動きはしなやかで。

 だが、その速度は認識が間に合わない程に速いものだった。


「依……!」

「蓮……蓮……! すみません……隙を見せたのは僕です。だから……」

「依……自分を責めるな……守りきれない俺が悪い」

「蓮……そんな事は……」

 僕は、蓮の腕に包まれた。

 当主様の式神が、僕を神司の元から蓮のところに連れ戻してくれたんだ……。


「紫条 流……直々にお越しになるとは意外でした。それは……ご協力頂けるという事でしょうか。ふふ……まあ……違いますよね」

 神司の手が動くと、口を開いたままの神木の幹から、無数の目が見えた。


 当主様の式神が、当主様を守るように前に出た。

 柊と呼ばれるその式神は、楽しそうにも笑みを見せて言った。


「そのお相手……わたくしが致しましょう。わたくしも同じ……鬼神ですから」

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