アフリカより帰国せし女 ②

「あっ……」


 女は、「言っちゃった」とでも言いたげな様子で硬直した。それから俺の目から視線をそらし、遠い目をする。


「……セックスの研究だなんて、やっぱり変よね」

「い、いやいやいやいやいや、いいじゃないの、セックス。大いにけっこう。セックスがないと俺らもいないわけで、猫も、モツ煮も、おでんも、この世はセックスでできていると言っても過言ではあるめえ」


 我ながら何を言っているのかわからない。アホがアホを隠そうとしてアホなことを言うという、これ以上ないアホな対応だ。


 しかし――。


「え、あなたもそう思う!?」


 女は表情を輝かせて言った。うーん、そうきたか。もしやこの女、俗に言うところの、「変な女」なのかもしれない。


「せ、セックス(の研究)で、どうしてセネガルに?」

「チンパンジーを見に行ってたの」

「そ、そう、チンパンジーね! チンパンジーって、人間みたいで見てて面白いよね!」


 俺は胸を撫で下ろした。セックスと聞いて面食らったが、要するに動物の繁殖がテーマということだろう。きっと絶滅危惧種の動物を救う方法とか、そういう世のため人のためになる素晴らしい研究を――。


「チンパンジーが、チンパンジーの子供を食べる様子を観察してきたの」


 俺は、思わず手にしていた箸を落とした。


「チンパンジーは、群れのボスが入れ替わったとき、その群れにいたチンパンジーの子供を食べてしまう場合があるの。罪のない子供を引き裂いて、むしゃむしゃと」


 憐れむような口調とは裏腹に、女はおでんの牛すじをぱくりと口に放り込んだ。くちゃくちゃと咀嚼音が聞こえる。


「ねえ、あなたは、どうしてチンパンジーは子供を食べたんだと思う? 私には、わからなくって」


 知るかよ、と俺は思った。そんな、「私、転職したほうがいいのかな?」みたいなノリでおぞましい質問を投げかけるんじゃない。そして、期待に溢れた目で俺を見るんじゃない。難易度高すぎやろ。やめろ。見るな。見ないでくれ。その大きな瞳で見つめられると、目が回ってくる。


「……セックス」


 俺はぼそりと言った。我ながら、自分のアホさを呪いたくなる。何も言葉が思いつかず、出てきた言葉が、さきほどから頭のなかにこだまし続けている言葉――セックス。ほら、やはり彼女も目を丸くして――いる。いるのだが、その表情には、呆れというよりも、感嘆が見えているような気がする。


「……私、こんなことばっかり考えてるから、なかなか友達ができなくて……。でも今夜ここで、あなたみたいな人に出会えて、嬉しい」


 女は瞳をうるませながら言った。どうやら俺は、彼女にとっての正解を引き当ててしまったらしい。


「そう、セックスのためであることは間違いないわ。多くの哺乳類では、子育て中のメスは発情をしない。逆に言えば、子供がいなくなりさえすれば、発情をする。つまり、メスを発情させてセックスがしたいから、子供を殺してしまうのね」


 あまり酒に強くないのか、彼女はすでに頬を上気させ、饒舌に続ける。

 

「それはべつに珍しい行動ではないわ。ライオンも、ハーレムのボスの座を奪ったら、同じ理由でその群れにいる子供を全員殺すわ。でもわからないのが、チンパンジーが殺した子供を食べる理由よ。私はまず自分の目でそれを確かめたくて、セネガルに行ってたの」


 そこまで言うと、女は「はぁ」とため息をついて、ビールをあおった。それからぶつぶつと何やらつぶやいていたが、やがて俺の存在を思い出したのか、はっとした様子で俺の顔を見た。


「チンパンジーはもっとも人間に近いDNAをもっている動物の一種よ。それなのに人間は、チンパンジーほどには子供を殺さないわ。それがなぜか、あなたの考えを聞かせて?」


 俺を見上げる彼女の瞳には、回答への期待が在々と伺える。しかし、そうマグレが続くわけがない。だから俺は、「うーん」と大げさに首をかしげながら、投げやりに言っただけなのだ。


「セックス?」


 すると女は、さらに目を輝かせた。


「私もそう思うわ!」


 嬉々として言うと、女は俺への距離をぐっと詰めてきた。


「ヒトのメスは、育児中でも比較的早い段階から発情することができる。つまり、子供を他のオスに殺させないために、子供を守るための手段として、産後間もなくから発情できるように進化したと考えられるわ。ねえ、そう考えると、ヒトのメスって、とっても素敵な進化を遂げたと思わない?」


 俺は「そ、そうだね。君は素敵だ」と空返事をしつつ、はちきれそうな心臓をなんとか抑えていた。店の客はふたりしかいないにもかかわらず、女は肩が触れ合う距離にいる。すげえいい匂いがする。ちくしょう。なんなんだこの女。いかに変な女だとはいえ、童貞がそんな表情見せられたら、好きになっちまうだろうが。


「あなた、名前はなんていうの?」

「し、皺袋しわぶくろ精二せいじです」

「精二ね。私の名前は、相模さがみスレスキン潤子じゅんこ。みんなはスレスキンと呼ぶけれど、それはドイツ人の父親の名前だから、本当はイヤ。精二には、潤子って呼んで欲しいわ」


 黒ギャルあらため潤子は上機嫌に喋っているが、俺はすでにまともに思考ができる状況ではなかった。さきほどのチンパンジーの話以降、なんだか喉の奥がムカムカしているが、同時に身体は上玉のメスに興奮しまくっている。


 そんなわけわからんテンションに俺が陥っているなか、彼女は言った。


「ねえ、精二のセックスを聞かせて?」

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