アフリカより帰国せし女 ①

 俺の名は皺袋しわぶくろ精二せいじ、26歳。都内の底辺IT企業に勤めるサラリーマンだ。


 その日、俺は浅草にいた。仕事帰りに、いきつけの立ち飲み屋でモツ煮込みとホッピーを楽しんでいたのだ。


『……続いてのニュースです。ベルリン大学には今も報道陣が…………これまでの常識を覆しかねない……世界中の注目が集まっています。しかし一方で……ュペルマン博士は行方不明との情報も……』


 神棚みたいに高い位置に設置されたテレビでは、なにやら大変らしいニュースが流れている。俺と店長は、内容もわからないままにぼけーっとテレビを見上げていた。そんな愛すべき呆けた時間が流れているなか、おもむろに店の引き戸が開かれたのだった。


 引き戸を開けたのは、黒ギャルだった。


 小麦色の肌に、やたらと派手な民族衣装。顔の半分はでかいサングラスで覆われていて、目がチカチカするほどに真っ青のバンダナで髪を束ねている。


 俺と店長は身体を硬直させた。無理もない。生態系において我々よりもはるか上位に位置する存在との突然のエンカウントだ。接し方などわからないし、生理的な恐怖を感じる。


 黒ギャルは何やらフラフラとした不思議な足取りでカウンターへと近づいてきて、


「……ビール」


 震える声で言った。店長は慌ただしくビールと"お通し"を用意し、黒ギャルの前に置く。すると女は、ビールをサングラスごしにじっと睨みつつ、何やら神妙に深呼吸をした。かと思うと、意を決したようにそれを勢い良くあおった。勢いあまって、女のバンダナがほどけ落ちる。意外にも現れたサラサラのストレートヘアーが、彼女の肩まで伸びた。


「グビッ、グビッ、グビッ……」と喉を通る小気味良い音が店内に響く。


 黒ギャルはひといきにビールを飲み干すと、ドカッと勢い良くジョッキをカウンターに置いた。そして、


「おいし〜い」


 黒ギャルは頭をうなだらせ、頬をカウンターにくっつけている。口角は完全にゆるみきっており、ヨダレがこぼれ落ちている。


 黒ギャルはさらに、お通しの切り干し大根をパクパクと口へ放り込むと、


「これもおいし〜い」


 また幸せそうに言うのだった。


 えーと、何だこれ。何だこの気持ちは。いやいや、わざとだろ。あざとい野郎だ。俺らのような陰キャなんて、無防備な姿をちょこっと見せておけばチョロいとでも思ってんだろ。その手には乗らんぞ。オタクに優しいギャルは都市伝説だなんてこと、俺は知っているのだ。


 店長もまた、その愛らしい仕草にほだされてしまったのか「た、食べ物はどうするっす?」などと口調に油断が見えはじめている。


「……め、メニューは?」


 黒ギャルが言うと、店長は、店長の背後にある壁を指差した。品名が手書きで書かれたおふだのような紙が、ベタベタと壁に貼られている。


 黒ギャルはカウンターから身を乗り出してメニューを見る。しかし見にくかったのか、かけていた大きなサングラスを取った。


 そのときだった。


 俺たちの女に対する警戒心は完全にくだけるどころか、今までの敵意が一瞬にして180度転換した。


 先手をとったのは店長だった。柄にもなく顔を赤らめつつ、「しょ、しょうがねえなあ。俺が選んでやんよ」と突然のタメ口をきくと、店長自慢のおでんが女の前にこれでもかと並べられた。


「こいつは初回サービスだ。お代はいらねぇ。他の客には秘密だぜ」


 秘密の押し売りがはじまった。わかりやすいおっさんだ。しかし確かに、店長の気持ちもわかる。なんだよあれ。同じ人類か? 頭の大きさは店長の半分くらいなのに、目の大きさは店長の2倍くらいある。そして何より、あれは黒ギャルではない。サングラスの下には化粧などされていない。そして、さっきまで紫色だったはずの唇が、今は血色よく潤んでいる。


 そのとき、ふと、女が俺を見ていることに気がついた。


「……あ、あの……食べ切れそうにないから、おでん、嫌いじゃなかったら」


 女が声を震わせつつ言った3秒後、その言葉の意味を理解して、俺はホッピーを吹き出した。


「ゴ、ゴフッ、お、おおおお、お、おで、しゅき!!」


 おでんが好きだと言おうとしたところ、まるで「おで」が一人称のウスノロザコのようになってしまったが、女は気にしていない様子だ。安堵した様子を見せると、おでんが入った皿とジョッキを持ち、すぐ近くまで寄ってきた。一方の店長は、苦々しい表情で俺を一瞥して舌打ちをした。


 俺の隣に立つと、女はぎこちなくニコッと愛想笑いを浮かべた。しかしすぐにテレビへと視線を移すと、何やら熱心にニュースを見はじめた。あまりコミュニケーション能力が高くないのか、いまいち距離感がつかめない。


「こ、このへんで働いてるの? モデルさんか何かかな?」


 俺が声を絞り出すと、女は驚いたように身体をこわばらせると、俺を見た。そして「い、いえ、学生。大学院生」とやや意外な返答をした。


「へー、大学院とはすごいねえ。何を勉強しているの?」

「え、エソロジー、って言うんだけど……」


 聞き慣れない単語に対して「ぽかーん」という音を発していそうな俺の表情を見ると、女は慌てて続けた。


「つ、つまり、私は動物が好きで、動物の研究をしているの。それで、さっきセネガルから帰国したばかりで、お腹が空いてて」

「へー、セネガルとはすごいねえ」


 そう言いつつ、俺はさりげなくスマホで「セネガル」をググる。アフリカにあるらしい。なるほど、その日焼けはそういうことか。


「あ、この服、現地の人にもらったの。き、きれいでしょ?」


 場の沈黙に焦ったかのように、女は早口で言った。なるほど。そのやたらと派手な民族衣装は、そういうことか。セネガルの女性はオシャレが好きで、衣装はとてもカラフルだってGoogle先生も言ってる。


「でも、現地で食べたものが体に合わなくって、体調が限界を迎えたから日本に強制帰国させられたの……」


 なるほど。血色が悪かった唇はそのためか。そして最初の不思議なステップは単純に疲労ゆえで、ビールをあまりにも美味そうに飲んだのもそれゆえか。


 つまり、一見は黒ギャルに見えたが、彼女は大学院に通うインテリで、諸々の条件が重なった結果、黒ギャル化を遂げてしまったというわけだ。インテリはインテリで生態系的には上位だが、黒ギャルよりは幾分かマシだ。


「さっき、動物の研究をしてるって言ってたけどさ――」


 俺は切り出した。そのときの俺は、女の言う「動物が好き」というフレーズに対して「キリンさんが好きです」とか「ゾウさんのほうがもーっと好きです」とか、そういうファンシーなイメージしか想像できていなかった。


 だから、学が無いなりに、単純な好奇心から聞いただけなのだ。


「動物の研究って、具体的にはどういう研究?」


 すると彼女は、そのときばかりははっきりと、恥ずかしげもなく言ったのだった。


「セックスの研究」

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