転精せしオナニスト

 俺は思考力が欠如した虚ろな視線を、頭上でキラキラと光る水面に向けた。すでに風呂の水は体温と同じくらいまで冷めてしまっていて、それが妙に心地よく、俺の五感を奪っていた。


 これまでに思いつくかぎりの種々雑多なオナニーを手がけてきたが、こんな気持ちははじめてだ。シコることで、こんなにも満たされた気持ちになれるとは。例えるなら、学生の頃に『カラマーゾフの兄弟』を読破したときの感覚に似ている。疲労感や喪失感、そしてそれらに勝る達成感が、ドクドクと股間から分泌されているような気がする。


 ふぅ。もう少し余韻に浸りたいところではあるが、そろそろ息がもたない。


 俺は握りしめていたチンコから手を離し、浴槽に手をかけて身体を起こそうとする――が、身体が動かない。チンコにくっついてしまったかのように、手が離れない。足を伸ばそうにも、それも動かない。


 ん、どした?


 喉の奥から空気が吹き出した。ゴボゴボと音をたてて水泡が目の前を通過していく。


 えっ、ちょ、マジか。何だこれ。


 助けてくれ!!


 俺は叫んだ。が、その声が実際に発せられたのかどうか定かではない。俺の意識は次第に薄れていき、頭は風呂の底へと沈んでいく。


精二せいじ?」


 女の声が聞こえた。水面の向こうにぼやけて見えるその女は――。


 潤子じゅんこだ。


 お、おい! 潤子! 助けてくれ! ふざけてるわけじゃないんだ! 早く助けてくれ! 早く! 早く……!!



 潤子ぉぉぉ――!!!




 ――あぁ……。




 ――うーん……。



 ――ん?



 ――あれ?



 なんだ? 何も見えん。


「……精二?」


 女の声が聞こえた。


「……精二!」


 まてまて。そんなに体を揺らさんでくれ。頭が痛いんだ。やめてくれ。


「精二! 起きるのじゃ!!」


 ……だからやめろって!


皺袋しわぶくろ精二せいじ!」

「やめろ!!」


 その声とともに、俺は上半身を起こした。直後、ガツンとひときわ大きい頭痛が襲う。


「……つっ! 何だよ。いったい何が起こった」


 真っ黒だった視界のなかに、女の顔がぼんやりと浮かび上がってくる。少女のようにサラサラの長い黒髪に、底抜けの好奇心を秘めた大きな瞳。


 潤子だ。


 でも、あれ? よく日焼けしていたはずの肌が、白くなっているような気がする。


「ようやく目が覚めたか」


 そう言うと、鼻が触れるほどの至近距離で俺の顔をのぞきこんでいた潤子は、安堵した様子で身を引いた。その直後、俺は絶句した。潤子が、全裸の上に白衣という、ドスケベな格好をしているのだ。


「えっ、ちょっ、えぇ??」

「ん? どうしたのじゃ? ま、まさか、記憶に障害でもあるのか!? ほれ、自分の名前を言ってみるのじゃ!」


 俺は再び顔を近づけてきた潤子から身を引きつつ、

 

「え、えっと……その格好は……?」


 そう問うも、


「わしの質問に答えよ!」


 なぜか剣呑な様子だ。一方の俺は、状況が飲み込めず言葉に詰まっている。たしか俺は、潤子にオナニーを見てもらうために、風呂に入っていたはずだ。そのあと突然、身体が動かなくなって……ん? あれ? それからどうしたんだっけ?? いまいち思い出せない。いや待てよ。潤子は全裸だし、今更だが俺も全裸だ。状況から察して、もしかして俺たち――。


 ヤッた……のか……?


 そのとき、


 ドカッ!


 と潤子が腹の上に馬乗りになってきて、俺は「ゴフゥッ!」と息を吹き出した。さらに、


 パンッ!


 頬に平手打ちがはいる。


 ……え?? え?? ええぇっ!? な、何? いきなり何なの??


 俺は助けを求めるようにあたりを見渡した。薄暗い。どうやら四畳半くらいの汚い和室にいるようだ。記憶を探る限り、俺はこんな部屋には来たことがない。ラブホだとも思えない。ラブホに行ったことはないが、たぶん違う。


 俺がオロオロと視線を泳がせていると、


 パンッ!


 平手打ちが追加された。


「しっかりせい! わしの研究に狂いなどありえん! おまえは皺袋精二。そうじゃな?」


 俺は目に涙を浮かべつつ、潤子を見返した。


「は、はい。お、俺は、皺袋精二ですが……」

「それならそうとすぐに答えよ! 時間がないのじゃ!」


 時間がないって、もうチェックアウトの時間なのか? ってことは、やっぱりここはラブホ??


「では次に、わしの名を言え」


 ん? どゆこと? たしかに、今更だが潤子は変なじじい口調で喋っているし、まるで潤子に別の人格が乗り移ってしまったかのようで、そう聞かれると少し不安になってくる。


 俺は訝しげに潤子の目を見る。潤子もまた俺を見ている。彼女の視線は、かすかに震えているような気がした。


「……潤子…だろ?」


 その瞬間、潤子は目を見開き、身体をピタッと静止させた。さらに数秒後、ゆっくりと目をつむると、天井を仰いだ。


「ど、どうしたんだ? 俺、何か間違えたか?? おまえは、相模さがみスレスキン潤子だろ?」


 すると潤子は、上を向いたまま、


「ふふっ」


 ボソリと笑ったのだった。


 とそのとき、部屋の外から声が聞こえた。


(隕石が落ちたのはこのあたりのようです)


 その声を聞いて、潤子は急に表情を固くして、俺の口を手で塞いだ。


(隕石? えーと、今私の目に映っているのは、奇怪な形をした鉄の小屋ですが、あれが隕石だというのですか? あんなものが空から降ってきたと??)

(た、隊長! 鉄の小屋から何かを引きずり出した跡があります!)

(跡を追ってみましょう)


 聞き終わる前に、潤子は立ち上がった。そして何やら、神妙な面持ちで俺を見下ろした。


「皺袋精二。一度しか言わぬからよく聞け」


 俺はゴクリと唾を飲み込んだ。潤子の表情が険しいからではない。下から見上げる白衣と全裸を見て、よだれが吹き出したからだ。


大いなる金玉ホーホ・ホーデンを目指すのじゃ。そこで、この体とともに、わしはおまえを待つ」

「ホーホ……なんだって??」


 俺の声が聞こえているのかいないのか、潤子はおもむろに白衣のポケットから何かを取り出して、俺の腹の上に放り出した。手に取って見ると、それはマイクロSDカードのような何かだ。


「エクスカウパー、あとは任せたぞ。こいつを、守ってやるのじゃ」

「ちょ、待っ――」


 しかし潤子は、小さな声で「Tschüssチュース」と言うと、音もなく部屋の引き戸を開けて、さっさと外へ出ていってしまった。


 部屋のなかには、俺だけがぽつねんと取り残されている。


「何なんだこの状況は……あー、たぶんアレだな。潤子がリアル脱出ゲームでも勝手にはじめたんだろう。いささかイントロが適当だが、たぶんそうだ」


 まあいい。何を考えてるのか知らんが、とりあえずノリに合わせておくか。まずは部屋から出てみよう。今さらだが、ちょっと寒い。何か着るものはないのか。


 そう思い立つと、俺はよろよろと立ち上がった。今いる殺風景な和室には、タンスとかそういう類のものは何もない。窓もない土壁と、畳があるだけだ。


「さすがに服はすぐ見つかるようなシナリオになってんだろうな。全裸での攻略なんて、RTAだけにしてくれよ」


 そうつぶやくと、俺は裸足で土間に降り、引き戸に手をかける。そしてそれを開いて一歩を踏み出したとき、


 ドガッ!


 頭頂部に激しい衝撃を受けた。いや、激しいどころではない。これはたぶんアレだ。致命傷だ。


 俺は目をまわし、うつ伏せに倒れる。消えゆく意識のなか、数人の足音が俺を囲むのがわかった。


「た、隊長! 怪しげな全裸の男を捕らえました!」

「う、キモイですね。殺しましょう……というわけにはいきませんね……」

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