シュペルマンの雫 ―もしも精子が資源だったら―
八田
プロローグ ―もしも精子が資源だったら―
精史の夜明け ―ドイツ・ベルリン―
その日、ベルリンの空は分厚い雨雲に覆われていた。
クリスマスに向けて賑わっていた
ひとけのない大学の、とある研究室。デスクに置かれたモニターのスリープ画面だけが、室内をぼんやりと照らしていた。モニターの前にはおびただしい量の書類が雑多に敷き詰められ、その上には小さな聖母子像とワイングラスが置かれている。
「神よ!」
デスクの椅子に座る男が声を荒げた。刹那、雷が轟き、男の顔を照らした。禿げ上がった額の下にある双眸は、平時の理知的な輝きを失っている。涙に濡れた虚ろな視線が、眼前にある聖母子像へと注がれていた。
「あなたは、なぜ私にこれほどの仕打ちをなさるのですか。私が犯した罪の代償が彼女を永遠に失うことなのであれば、それはあまりにも不釣り合いです。彼女は、私のすべてだったのですから……」
男は書類のなかから一枚の写真を手に取った。そこには、微笑む三人の人物が写っている。幼い少女と、彼女を囲むようにして立つ壮年の男女だ。女のほうは東洋人で、その女と少女は、ひとめ見て親子だとわかるほどによく似ている。背の高い西洋人の男は、ふたりの肩に手を添え、ふたりを誇るかのような笑顔をこちらへ披露している。
男は在りし日を思い出し、微笑んだ。しかしその直後、哀愁は怒りへと変わった。デスクに転がっていた万年筆を手に取り振り上げると、写真に映る男の顔に勢いよく突き刺した。
「スレスキンめ! あいつなどに任せるのではなかった! やはり私がこの手で彼女を守るべきだった。そうだ、そうしなかったことが私の罪なのだ。そうに違いない……」
何かに憑かれたような激昂を見せた男だったが、写真に映る女の微笑みを見て、ふたたびその表情から生気が抜け落ちた。瞳からは止めどなく涙がこぼれ、喉からはうめき声が漏れ出る。
やがて男は、力なく頭をうなだらせ、机の上につっぷした。
そのとき、衝撃でワイングラスが倒れた。
男ははっとして顔をあげるも、グラスを手に取ることはなかった。無感情な視線で、書類が赤黒く染まっていく様子をながめていた。
しかし――。
ポタッ
机の上を這ったワインが男の股間にしたたり落ちたとき、男の表情は一変した。股間に広がっていく赤い染みを見て、ある欲情が湧き上がってきたのだ。その事実に自分自身で驚き、愕然とした。
それは、長く自身に禁じていたことだった。敬虔なカトリック教徒だった彼は、愛する人の健やかな生活のために、その快楽を断つことをもって神への供物としていたのだ。しかし、彼女は死んでしまった。その快楽を断つ理由は、もうどこにもないのだ。
男は床に置いてあったワインボトルを口へ運んで一気に飲み干すと、おもむろに立ち上がった。
それからベルトをゆるめ、ズボンを下ろす。
左手に写真を持ち、右手は――。
「はふぅ……おふぅ……おおぉ……おおぉ……お、おおおおぉぉぉぉぉぉ!!!」
ピッ
ことが終わると、男は肩で息をしながら、しばしのあいだ立ち尽くしていた。やがて糸が切れたようにドサッと腰を下ろし、天井を見上げる。
「ふ……ふふふ……ふははははははははは!」
男は両手で自分の顔を覆いながら、高笑いを続けた。そうすることで、自分の救いようのない行為と直接対峙することを避けたのだ。そうでもしなければ、自分はもう、生きる尊厳も、それを保とうとする気力も、すべて失ってしまいそうだった。
やがて男は高笑いを止め、虚ろな表情で机の上を見た。そこには、小さな聖母子像がある。慈愛に満ちた視線を幼子キリストへと注ぐ聖母マリアの表情が、写真の女と重ね合わされた。
男は何かに導かれるように、無意識にそれを掴み上げ、その
男に天からの啓示が下ったのは、このときだった。
瞬時にして、類いまれな男の頭脳を、様々な数式がかけめぐる。
男は聖母子像を書類の上に放り出すと、追い立てられるように立ち上がり、壁一面に並ぶ書籍へと向かった。それから血走った目でそれらを舐めるように見ると、数冊の本を乱暴に抜き出した。
デスクへ戻った男は、書籍を参照しつつ、ノートに走り書きをはじめる。
「日本にある
男は瞳孔を細かく震わせながら、思考に没頭していた。12歳で物理学の博士号を取得して以降、成人するまでにさらにふたつの博士号を取得したその天才的頭脳で、今まさに、人類の未来を変える仮定が生まれようとしていた。
「もしも――」
窓の外でまばゆい閃光が起こり、男の引きつった笑顔を照らした。
「もしも、精子が資源だったら」
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