夜道で遭遇したクラスメイトに「月が綺麗ですね」と言ったらなぜか付き合うことになった

青水

夜道で遭遇したクラスメイトに「月が綺麗ですね」と言ったらなぜか付き合うことになった

 塾の帰り道、歩いているとクラスメイトの夏目さんに遭遇した。


「おや、夏目さんではありませんか」


 特に仲がいいわけではないけれど、無視するのも何なので、僕は話しかけてみた。


「も、森川くんっ!?」


 すると、夏目さんはひどく驚いた顔をして、持っていたジュースを落としそうになった。否、落としたのを僕が手を伸ばしてキャッチした。


「あ、ありがとう……」

「夏目さんも塾の帰りですか?」

「あ、うん。そうだよっ」

「ふうん、そうなんですか」


 仲がいいわけではないので――普段から喋るような間柄でもないので――うまく話が続かない。でも、さすがに話しかけておいて、これだけで話を終わらせて別れるのも何だったので、僕は夜空を見ながら話題をひねり出そうとした。今日は天気が良く、満月がとても綺麗に夜空に輝いていた。

 これだ、と僕は思った。


「今日は月が綺麗ですね」

「……えっ?」


 僕の言葉に対して、なぜか夏目さんは過剰なまでに反応した。

 目を大きく見開いて、顔を真っ赤にさせて、嬉しいような恥ずかしいような表情でもじもじしている。

 ……はて。何かおかしいことを言っただろうか?


「えっ、それって、あのその……」


 夏目さんは一人でぶつぶつと何事かを呟いている。


「とても綺麗ですね」

「綺麗って……私が?」


 いや、月がだよ。

 まあ、夏目さんも満月と同じくらいに綺麗だと思うけれど、そんなことは口には出さない。僕はそういうことをさらりと言えるようなキャラでもないし。


「も、森川くんってロマンチストなんだね」

「ロマンチスト? 僕が?」

「あ、ごめん。気に障った?」

「いや、ロマンチストなんて言われたの初めてだからさ」


 僕が、ロマンチスト? 月が綺麗だと言うのはロマンチストなのか? 一般的な人は月が綺麗なんて当たり前のこと口にはしないのか……?

 なんだか微妙に話が噛み合っていないようなむず痒さを感じたけれど、きっとそれは気のせいだろう。


「私も、その……月が綺麗だと思うよ。みーとぅー」

「うん?」

「えへ、えへへ……月が綺麗」


 今にも蕩けてしまいそうな夏目さんの表情に僕は疑問を抱いた。彼女が喜ぶようなことを言った覚えはないんだけれど。はて……?


「あ。私の名字が夏目だから、『月が綺麗ですね』なんだね?」

「……?」


 言っていることの意味がわからなかったので、僕は曖昧に微笑んでおいた。夏目さんは一人で勝手に納得したようだ。


「うふふ、嬉しいな。でも、夜道でいきなり言われるなんてびっくりだよ」


 ……びっくり?

 夜道で遭遇したときには、もっと他にふさわしい話題があるだろ。月が綺麗なんてしょうもない話をしだす君にびっくりだよ――のびっくりだろうか?


「森川くん――いや、亮くんって呼んでもいい?」

「別に……構わないですけど」


 構わないけど、どうして名前呼び? 夏目さんって男子のこと名前で呼ぶようなキャラクターだったかな……?


「亮くんも私のこと、優って呼んで」

「え? それはちょっと……」


 僕がやんわりと拒否すると、夏目さんは機嫌を損ねるわけでもなく「えへへ」と笑って、


「大胆なロマンチストかと思ったら、意外とシャイなのかな亮くんって。でも、そんなところも――」


 かわいい、と聞こえた気がしたがきっと気のせいだ。気のせいに違いない。


「ねえ、亮くん。連絡先交換しよっ?」

「うん? まあ、いいですけど……」


 なんだか、雲行きが怪しくなってきたというか……何かが致命的におかしい。違和感があるのだけれど、それが何なのか僕にはわからない。誰か教えてくれないか。

 連絡先を交換すると、


「これから末永くよろしくお願いします」


 夏目さんは丁寧に頭を下げ、


「私、こっちだから。じゃあね、また明日」


 と言って、幸せそうな顔で去っていった。


 狐につままれたような気分だ。頬をつねってみると痛いので夢ではない。僕の妄想が現実世界に干渉しだしたのではないか、と疑ってみたが、僕の妄想力はそこまで立派なものではない。よって、一連の出来事は間違いなく現実である。

 現実ではあるけれど、僕はそれを正確に把握・認識できていないような気がする。それはきっと気のせいではない。


「なんだったんだろう?」


 僕は首を傾げると、夏目さんが去っていった方をぼんやりと見つめるのだった。


 ◇


 次の日、学校に行くと、友達の友田が、動揺と狼狽を足して二で割らないような様子で僕のもとへとやってきた。


「おいおいおい、聞いたぜ」

「聞いた? 何を?」

「お前、夏目さんと付き合い始めたんだってな」

「…………は?」


 目が点になった。

 僕と夏目さんが付き合い始めた??? こいつは一体、何を言っているんだ? 

 まったく面白くない冗談を言っているのだと最初は思ったが、友田の真剣な表情は冗談を言っているようにはとても思えない。

 僕は肯定も否定もせず、とりあえず話の情報源を聞き出すことにした。


「それ、誰から聞いたんだい?」

「誰って……」


 すいっと友田の視線が動く。僕も友田の視線の先を見つめる。

 そこにいたのは――。


「おはよう、亮くん!」


 手を振りながら、太陽のごとき眩しい笑顔で駆け寄ってくる夏目さんの姿。

 ということは、つまり、夏目さん本人が『私、森川くんと付き合い始めたんだ』と友田に言ったのか。友田だけに? いや、まさか友田一人ってことはあるまい。

 とすると――クラス中に?


「夏目さん、ちょっと」


 僕は有無を言わさず、夏目さんを廊下へ引っ張っていった。クラスの男女が小声で僕たちの話をしているのが聞こえる。やっぱり、クラスの連中全員に向かって高らかに告げたのか!


「もう。亮くんったら、大胆」


 顔をほんのりと赤く染め、くねくねと揺れている夏目さんをスルーして、


「夏目さん。あなたは僕と付き合い始めたとクラスの人に告げたのですか?」

「うん、嬉しくってつい。ごめん、その……言わないほうがよかった?」


 上目遣いで寂しげに言われると、僕がとてつもなく悪いことを言っているみたいで罪悪感に苛まれる。


「いや、言う言わないではなくてですね――」

「ねえ、敬語はやめようよっ」

「ん?」

「私たち恋人同士なんだから、敬語じゃなくてもっとフレンドリーに――」

「ちょ、ちょっと待ってください!」


 僕はたまらず両手を突き出して話を一旦ストップさせた。

 廊下の窓から校庭を見て、空を見て、飛んでいる鳥を見て、雲を見て、もう一度校庭を見て、それからかわいらしい夏目さんへと戻ってくる。


「あの、恋人同士って……」

「うん、それが?」

「『それが?』って……僕たちいつ恋人になったんですか?」


 僕が尋ねると、夏目さんは一瞬きょとんとした後、おかしそうにくすくす笑って、


「いつって昨日、亮くんが告白してくれたんじゃない」

「告白? 僕が? いつ? どのように?」

「え、もしかして亮くん、帰りに頭強打しちゃった?」


 心配そうに僕の頭をぺたぺた触る夏目さん。傍から見たら、立派なバカップルだ。

 教室のドアをスライドさせて、そこから頭だけにょきっと突き出して様子を窺っていた友田と目が合った。彼はにやっと笑うと頭を亀のようにひっこめた。

 ……友田ぁ。


「強打はしていないけれど、ちょっと記憶があやふやなので、僕がどう告白したか詳しく教えてほしいですね」

「――『月が綺麗ですね』」

「……は?」

「『月が綺麗ですね』って言ってくれたじゃん」


 頭の中に無数の疑問符が浮かぶ。

 僕がおかしいのだろうか? 僕の理解力が乏しすぎるせいで、夏目さんの言っている言葉の意味が理解できないのだろうか?

 月が綺麗ですね。

 この言葉のどこに告白の要素があるのだろう? 月が綺麗というのは、それ以上もそれ以下もなく、そのままの意味合いしかないように思えるんだけど……。


「ごめん。もう少し、わかりやすく教えてくれませんか?」

「ええっ!? 本当に頭打っちゃったんじゃ……。ほ、保健室……いや、病院に――救急車呼ばなくちゃ!」

「待て待て、待ってくれ! 僕は頭を打ってなんていないから!」

「本当に?」

「本当に」

「それなら、いいんだけど……」


 夏目さんはほっと胸を撫で下ろしつつも、まだいささか心配そうな顔をしていた。


「で、その……『月が綺麗ですね』というのは?」

「夏目漱石だよ」

「夏目漱石?」


『吾輩は猫である』や『こゝろ』といった有名な文学作品を書いたあの文豪の名前が、どうしてここで出てくるんだ? 高度なメタファー的な何かだったりするのだろうか? 


「夏目漱石が『I love you』を『月が綺麗ですね』って訳したエピソードがあってね――って知らないの?」

「知らなかった」

「そっかー。知らなかったのかー。知らなかったって…………え」


 夏目さんは硬直した。赤かった顔が白くなり、最終的に青くなった。


 なるほど。僕は得心がいった。

 つまり、夏目さんは昨夜の『月が綺麗ですね』を『I love you』だと認識し、婉曲的なロマンチシズム的な告白だと受け取ってしまったということか。で、『みーとぅー(私も好きだよ)』と返答し、彼女の中では僕との交際関係がスタートしたことになった、というわけね。


 早とちりにもほどがあるよ、と言ってやりたいけれど、唐突に『月が綺麗ですね』なんて何の脈絡もなく言ってしまった僕にも多少の責任があるし、それに彼女の名字が『夏目』だというのも、早とちりの拍車をかけるファクターになってしまったのかもしれない。


 人間、誰しも言葉を自分にとって都合よく変換し受け取るものだ。自分の名字が『夏目』で、恋する相手から唐突に『月が綺麗ですね』なんて言われたら、それはもう告白以外の何物でもないと誤解してしまうのも無理はない、と擁護してみる。

 いや、早とちりしすぎでしょう。


「え、あ、そんな……それじゃあ、亮くんは私に告白したわけじゃなくて、単純に月が綺麗だから『月が綺麗ですね』って言っただけ……?」

「まあ、その……そうなりますね」

「う……」

「う?」

「うわああああああああんっ!」


 夏目さんは泣きながら廊下を走り去っていく。僕も放置するわけにはいかず、走って追いかける。


 廊下には、暇を持て余した教師が黄昏た様子で空を眺めていたが、彼は廊下を全力で駆け抜ける夏目さんを見つけて注意しようとして、彼女のただ事ではない様子に見てみぬふりをした。僕のことも見てみぬふりをして、「青春だなあ」と呟いた。


 夏目さんは階段を駆け上がって、屋上に繋がるドアを開けた。朝ということもあって、屋上には誰もいなかった。屋上の四方は落下防止のためのフェンスで囲われており、彼女はそこをよじ登った。


「うわああああああああんっ! 恥ずかしい! もう死んでやる!」

「やめなさい」


 僕は後ろから抱きつくようにして、夏目さんをフェンスから引きはがした。二人してコンクリートの地面を転がる。

 夏目さんは幽霊のように緩慢で不安定な動作で上体を起こすと、


「だって……だって……もう恥ずかしくて生きていけないよ……」

「人間、誰にだって失敗はあるから。恥ずかしがる必要はないですよ」

「……うん、ありがとう」


 夏目さんは泣きながら、どさくさに紛れて僕に抱きついてきた。さすがにこの状況で『おい、離れろよ』と拒絶することなどできなかったので、僕も彼女のことを抱きしめ、ついでに頭を優しく撫でてやった。

 まるで本当のカップルのようじゃないか。しかも、ただのカップルではなくバカップル。こんなところを誰か知り合いにでも見られたりしたら――。


「……」


 屋上のドアから頭だけにょきっと突き出して様子を窺っていた友田と目が合った。彼はにやっと笑うと頭を亀のようにひっこめた。

 ……友田ぁ。


 ごほん、と咳払いをすると、僕は言う。


「まあ、いろいろと誤解があったけれど、付き合っていると周囲に宣言してしまった以上、一日足らずで別れることになるのはあまりよくないからですからね」

「……え?」

「これから末永くよろしくお願いします」

「あ……うん、よろしくお願いします……」


 夏目さんの涙に満たされた顔に笑顔が戻る。彼女はやっぱり泣き顔より笑顔のほうがよく似合っている。

 夏目さんは目を瞑ると、うっすらとリップグロスを塗った唇を僕に突き出してきた。そんな彼女の顔に軽く手刀を叩きこむと、


「あ痛っ」

「調子に乗るんじゃない」

「キスしてくれてもいいのに。やっぱり亮くんってシャイなんだね」

「シャイとかシャイじゃないとか、そういう問題じゃないよ」


 腕時計で時刻を確認すると、僕は立ち上がる。それから、座ったままの優に向かって手を差し出して、


「もうすぐチャイムが鳴る。行こう、優」

「うんっ!」


 そして、僕たちはカップルらしく手を繋いで屋上を後にした。


――――――――――

※夏目漱石が『I love you』を『月が綺麗ですね』と訳したエピソードは真偽不明です。



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