第三章

第20話

 半ば引きずるようにイルヴィスを屋敷から連れ出した私は、気づけばイルヴィスに馬車まで誘導されていた。実に鮮やかな手口である。


 そうして案内されたのは、公爵家の馬車だった。昨日の家紋入りの豪奢な馬車と比べたら見劣りするが、それでもかなり良質なものであると分かる。

 思えばイルヴィスの服装も簡素なものだ。目立たないようにするためのいわゆる“お忍びスタイル”だろう。まあ、忍べているかと聞かれたら悩むところだが、その気遣いはありがたかった。



「大丈夫ですか?」



 対面に座ったイルヴィスは馬車が走り出したのを確認すると、心配そうに問いかけてきた。



「ええ、まあ。数日前と比べたら天と地の差です」

「私からすれば今もおかしい状況ですけどね」



 大変でしたね、と頭を撫でられた。ヘアアレンジを崩さないような丁寧な手つきに、思わず笑みがこぼれた。



「ところで。今なら婚約破棄をしない理由を伺っても?」

「そうですね……先ほどもお話しましたが、婚約者は別に昔からああいう人じゃなかったんです。だから私も、ずっと本気で好きでいられたわけですから」

「彼の様子がおかしくなったのはいつですか?」

「おそらく二年前からだったと思います。でも、こんなに話が通じなくなったのは数か月前からです」

「なるほど。では、彼が変に束縛し始めたのも最近なんですね」

「なぜそれを……さてはイルヴィス様、結構早い段階で外にいましたね」



 道理でタイミング良く入ってきたわけだ。

 昨日、妹も盗み聞きをしていたので、私はもう少し気配に敏感になった方がいいかもしれない。



「婚約者の束縛は昔からでした。小さい頃は本気で信じていたのですが、社交界に出るようになっておかしいと気づいたんです」

「普通はむしろ、婚約者に綺麗になって欲しいと模索するものですから」



 イルヴィスは少し考え込むと、ハッとしたように急に私の顔をじっと見つめてきた。イルヴィスの眼は真剣そのものだが、男性の視線に晒されることに慣れていない私は変に緊張してしまう。



「まさか……あの女、似ていたな……でも、それなら……くそ、倫理観どうなってるんだ」

「あ、あの……?イルヴィス様?」



 イルヴィスは不愉快そうに顔をしかめると、再び私と目線を合わせた。その瞳の中には隠し切れていない怒りがくすぶっており、付き合いの浅い私でも彼がひどく怒っているのが分かった。

 同時にその怒りは、この場にいない婚約者に向けられているのだと彼の独り言から察せられた。


 出会って数日の女にここまで心を砕いてくれるとは思わなかった。いや、イルヴィスの行動にはどれも驚かされてばかりだが。神様がいるなど戯言だと思っていたが、もしこの人が神様だと言われたら私は信じるだろう。



「アマリア」

「は、はい!」



 突然声をかけられ、声が裏返ってしまった。しかし、イルヴィスはそれについて何か言うことはなかった。



「先ほど屋敷で警戒してくださればいいと言いましたが、どうやら冗談では済まされないかもしれません」

「婚約者がおかしなことをするかもしれない、とおっしゃっていましたが……」

「はい。確かにあの男は気が弱く、少し流されやすいところもあります。しかし、そういう人間は危ない場面に立ったことがないので、加減を知りません」



 確かに婚約者が何かを進んでやることはなかった。それに、何かあればすぐに他人のせいにして安全地帯で黙り込む人だった。



「心当たりがあるようですね。なら私の予想が外れることはないでしょう」

「婚約者がとんでもないことをする、ということですか」



 忘れていたはずの、婚約者の表情が抜け落ちた顔が頭を過った。

 あいつにそんなことはできないという甘えは、いい加減に現実を見ろという理性に殴り飛ばされる。



「あの男は自己完結するタイプですので、いきなり派手に行動するとは思えません。私の方でも監視をしますが、身の回りに気を付けつつ、必ず一人にならないようにしてください」

「……そうします」

「すみません、また怯えさせてしまいましたね」

「いえ、大切なことですので」



 知らずに何かあっては遅い。婚約を破棄できても、しばらく注意しておいた方がいいだろう。


 そんな重くなってしまった空気を変えるように、イルヴィスは朗らかに笑った。



「せっかくの初デートですし、嫌な話はこれくらいにしましょうか」



 すると、まるでその言葉に合わせたかのように馬車が静かに止まった。



「遅れてしまいましたが、そのドレス、貴女にとてもお似合いですよ。実は、貴女に見惚れてホールに入るタイミングを失ったんです」



 先に降りたイルヴィスは、そういうと甘やかな笑顔で私に手を差し伸べたのだった。


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