その時の杏子の苦悩はもはや取り返しのつかないところまで来ていたのだろう。

だからやはり、私と共有したところで何の解決にもならなかったかもしれない。

そんな親友の境遇などはつゆ知らず、わたしは持病とどうにか折り合いをつけながら、一般的な生活を送れるようになっていた。

図書館でだべって、帰ってからも通話して、まただべって、ときどきお出かけして、はしゃいで、それでたまには喧嘩もして。体育祭を一緒にさぼって、修学旅行でこっそり二人で抜け出したり。

いろいろなことを、一緒にして。

ほとんどが杏子に引っ張られる形だったけど、わたしは迷惑なように振舞いながら、内心とてもうれしくもあった。

そんな風に過ごした中学の3年間はわたしにとってかけがいのない思い出で。

眼を閉じてみれば、過ごした景色が万華鏡のように脳裏に浮かぶ。

わたしの手を引いてひまわりのような笑顔を見せる彼女。

わたしの腕の中で無防備な寝顔を晒す彼女。

そんな顔の裏に、影があることを知ったのは、中学生も終わる3年の秋だった。

その年の秋は特別に寒く、図書館の窓から見えるイチョウも早々に散って、校庭をまだらに黄色に染めていたのを覚えている。

いつも通りに図書館の隅で彼女を待っていた。11月も終わり、鈍色の雲が波打つのを窓の内からぼんやりと眺めていた。

考えていたのは、進路のこと。地元のそれなりの高校に行こうか、隣の街の少し偏差値の高いほうにしようか、いっそ二つ受けてしまおうか、そんなことを考えていたように思う。

備え付けられた古時計が帰宅を促すように鐘を鳴らす。いつもはひょいと表れてわたしにかまう彼女がその日は居ない。

……その日だけではなく、昨日も、おとといも、その前の日も、彼女は来なかった。

スマホを取り出して、メッセージアプリを開いて、ログをたどる。口下手を理由にわたしから連絡を取ることをいままでしなかったことを少し後悔しながら、何か送ろうか、どう言おうか、葛藤が渦巻いてため息なって口から洩れる。

一抹の寂しさを感じながら、窓の外を見た。鼠色の空がうっすらと遠くの方が蜜柑色に染まっているのを視界の端に捉えながら、宮沢賢治の詩集を眺めていた。

指でページの端を丸めたり、同じページを何回も往ったり来たり。

毎日ここに来るとは限らないし、わたしだって来ないときはあるし、杏子の行動を縛る権利は私にはないし、そもそも図書室ここで会うことは約束してなかったし。

だから、別に、これは、何でもないことなんだ。

もやもやとした胸のつかえを振り払うように、わたしはぱたりと持っていた本を閉じて、それを棚に戻してドアへと向かう。

引手に手を掛けようとしたところで、向こう側からキンキンとした話声が聞こえた。


「——でさーなんか最近休んでるやついんじゃん?」

「あーあのなんか儚くぶってるやつ? えーと、高木?高橋だっけ?」

「えーしらん」

「おんなじクラスじゃん」

「おまえもだろ~!」


きゃらきゃらと笑う三人組が、廊下からつながるテラスに群がっていた。図書館につながっているのに、気づいていないのだろうか。

彼女たちの物言いに、少し曇りがかっていた胸中が深い曇天に変わる。

掛けた手が、そこだけ重力が何倍にもなってしまったのように動かない。

休んでたのか。

クラスも違うし、教室も離れているから昼間は全然合わないし、そもそも教室でどんな風に彼女が過ごしているのかを、私は知らなかった。何年も一緒にいて、私は彼女のことを何も知らないことをその日知った。


「全然しゃべったことないわ」「あたしも」「なんか近寄り難いよねー」「でも美人じゃない?」「まじそれ、ずるくねー」「それな」「てか教室でみたことあんまなくない?」「たしかに」「なんでだろ」「さあー」「あ、あれかも」「噂だよ?噂だけど」「なに」「きになる」「親、自殺してんだって」「まじ?やば」「なんか無理心中?しようとしたんだって、噂だけど」「なにそれ」「は、無理心中知らないの」「知らんし」


彼女たちのスナックをつまむような会話の先を私は聞くことができなかった。

親の自殺。

無理心中。

休みがち。

教室で見ない。

今日もここに来ない理由はそれ?

どうして言ってくれなかったの?

言えるわけないよね。

言えないよ。

いつから?

何となく寂しそうにした声が、聞こえた気がした。


わたしは、杏子あなたを何も、知らない。

言いようのない震えが私を襲う。

ドアを外さんばかりに勢い良く開けて、図書室から飛び出した。

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ギンコ・ビローバの約束 抹茶塩 @112651451

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