とはいえ、それでわたしの学校生活が劇的に変わったわけでもなかった。

休みがちだった退屈な学校に、楽しみが一つできただけ。

杏子とは、お昼休みの30分と、放課後の1時間、図書館で話したり、一緒に本を読んだりするだけだった。

それでも私にとっては穏やかで得難い、幸福の時間だった。

そんな生活が2年も続いて、私は何とか中学生になった。

義務教育なのだからよほどのことがなければ中学生にはなれるのだが、その時はもう私は一生中学には行けなくて、大人にはなれないのだと思っていた。子どもらしい勘違いだと、今では笑い話だけど。

私たちは少し成長して、杏子は一層かわいらしくなって、クラスのマドンナになっていた。私といえば背ばっかり高くなって、相変わらず癖毛が強いわ狐眼はもっと鋭くなるわで、クラスでは『のっぽ狐(なんじゃそりゃ安直)』なんて呼ばれる始末だった。


「ねえ、ぎんちゃん」


初めて出会ったころから、私たちは図書館で会うのが日課になっていた。


「なに、杏子」


わたしの膝に乗りながら漱石の「こころ」を読んでいた杏子が唐突に私の名前を呼ぶ。

身長の低い杏子は、ちょうど私が腕で包み込めるくらいで、それがかわいらしいのだった。

ころころと耳の中で心地よく転がるその声は、私の癒しだった。


「この先生はさ、どうして奥さんには隠し通したんだろうね」

「……なに?」


その時私は、私の胸にかかる彼女の黒髪に意識を割いていて半ば上の空だった。くすぐったさと妙に鼻をくすぐる香りに、全く落ち着くことができなかったから。


「だーかーらー! これ!」

「ああ、『こころ』ね……」

「読んだことあるの?」

「まあ、基本ひまだし。わたし」

「どうだった?」

「どうって……。そうだなあ、Kの気持ちは理解できそうでできないバランスだったかなあ。先生の苦悩も、それは奥さんに話してしまえばなんとかなるようなものだったんじゃないかって、私は思う。隠し通したのは……やっぱり奥さんに禍根を残したくなかったんじゃない?」

「ふーん」

「そういう杏子は? どう思ったの?」


杏子は、んーと口を尖らせる。

かわいい仕草に、私は少し照れ臭くなる。


「…………恋は罪悪で神聖だってことを先生が言ってたけど、なんかわかるなあって。奥さんに隠したのは、言いたくなかったからだと、私は思うな」

「? どういう意味?」

「奥さんのことを想ったんじゃなくて、自分が言いたくなかったんじゃないかってこと」


なんとなく、寂しそうな声だった。

わたしからは、彼女の後頭部しか見えない。どんな顔をしているのか気になったが、確認するのが怖かった。

その気持ちがどんなものかは、その時の私にはわかっていなかった。

聞いておけばと、今は思う。

少なくとも、その時杏子が抱えていたものを、私も背負うことができたかもしれなかったから。


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