集金人
午前十時過ぎ、僕はブザーの音で目を覚ました。はーい、いま出ます、と答え、あわててズボンを履き、眼鏡をかけてマスクをつけ、ドアを開いた。
そこに立っていたのは運送屋でも宗教の勧誘でもなかった。そこに立っていたのは、僕だった。夢の続きを見ているのだろうか。呆然とする僕を前にして、彼は笑っていた。
「驚いたか? 今日はあんまり時間がないんだが、ここじゃお互い気まずいだろうから、とりあえず上がらせてもらうぜ」
彼は僕を押しのけるように部屋に入ってきた。僕は何が起こっているのか理解できず、彼の行為を見ていただけだった。彼は僕の家を知りつくしているらしく、コップをキッチンの棚から二つ取り出すと、冷凍庫の氷を入れ、ちゃぶ台の上に置いた。彼は床に置いてあったウイスキーを注ぎ、飲みかけの炭酸水でハイボールを作った。
「まあ、これでも飲んで落ち着けよ」
僕は彼に差し出されたハイボールを飲み干して、ようやく口をきくことができた。
「あんたは誰なんです?」
彼はにやりと笑いながら言った。
「俺は俺だよ」
彼はいつも僕が座っている場所にあぐらをかきながら、うまそうにハイボールを飲み、まあ座って話そうやと言った。僕は来客用の座布団を敷き、彼の対面に腰掛けた。
「今日は借金を返してもらいに来た」
彼は、僕のハイボールのお代わりを作りながら、相変わらず薄ら笑いを浮かべていた。借金? 僕は人から金を借りた記憶はない。それに第一、あんたは誰なんだ。あまりにも僕にそっくりではないか。
「俺はお前のせいで朋子ちゃんと結婚できなかった中学生の時のお前だ」
僕は朋子ちゃんという言葉に愕然とした。苦い記憶の世界に生きるヒロイン、あの時たしかに僕たちは両想いだったはずだ。
「それをお前がぶちこわした」
僕はろくでもない同級生に好きな女の子のことを打ち明け、同級生たちは心から喜んで僕たちの仲を台なしにした。それも、僕がうっかり彼らの友情などというものを信じたのがいけなかったのだ。
「俺は人生をやり直すために地獄から来た」
彼曰く、現象界に住む人間には知り得ない摂理というものがあり、自分自身に裏切られた自分は、一度死んで牢獄に落ちてくるのだという。彼は、時折落ちてくる他の自分たちとともに、解放の時を待っていた。ある時、悪魔が現れてこうささやいた。ここから出してやる、ただし一人だけだ、と。
「俺は戦い、勝ってここに来た」
待ってくれ。僕には妻がいるし、僕は今の生活に満足している。あれは不幸な出来事だったが、あれがあったから今の人生がある。どうか僕の平穏を乱さないでくれ。それに、彼女も結婚したし、子供だっているかもしれない。いまさら僕が行って何になる?
「だまれ! 俺の人生を返せ!」
彼は猛然と僕に殴りかかってきた。彼と僕はまったく互角だった。当然ながら、僕は僕自身と殴り合うなんて体験をしたことはなかった。殴られても思ったより痛くない。僕は自分が思うより喧嘩が弱いのかもしれない。僕はウイスキーの瓶を取り、彼の顔面をぶん殴った。瓶が粉々に砕け、彼の眼鏡は弾け飛び、動きが鈍った。僕は僕の生活を守らなきゃいけないんだ。僕は妻を愛してるし、仕事でも頼りにされている。ここで君に人生を奪われるわけにはいかないんだ。僕は、彼の顔面に蹴りを入れた。うずくまった彼の首に後ろから腕を絡め、締め上げた。彼の胴体を両脚で挟み込み、身動きをとれなくする。やがて彼は動かなくなった。
僕は顔を洗い、水を飲み、ため息をついた。部屋の真ん中には僕が転がっている。僕は、無性に妻に会いたくなった。そうだ、シャワーを浴びて服を着替え、妻に会いに行こう。この部屋に帰ってくる頃には、もうひとりの僕は跡形もなく消えているだろう。
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