短編集

@matsuonyaon

潮騒を求めて

西暦2348年、人類はすでに移動型スペースコロニー「ハネムーン号」を完成させていた。居住不可能となった地球を捨て、生態系の保持に必要な最小限の動植物、細菌類とともに、まだ見ぬ第二の地球への旅を始めたのはそれから間もなくだった。


僕はコロニーで生まれ育った世代の三代目で、地球のことは知識としてしか知らない。僕たちのような地球人の子孫、コロニー生まれのコロニー育ちは「サブラ」と呼ばれている。僕たち「サブラ」の使命は、ご先祖様たちの見果てぬ夢を実現すること、すなわち母なる海を取り戻すことだ。


僕は、厳しい選抜を勝ち抜き、宇宙探査隊の一員となった。まだ見ぬ第二の地球を探し求めて、宇宙の涯まで孤独な旅を続けるのが僕の仕事だ。歓呼の声に送られ、探査艇「バチェラー」でコロニーを出発してから、もう何日が経ったのかは気にしていない。僕にとって、帰るあてのない片道切符の任務を引き受けたときから、時間の観念は問題にならなくなったのだ。また、孤独を苦にしない処理を施された僕は、死への恐怖もあまり感じなくなっていた。


宇宙をさまよい続ける無機質な任務における唯一の楽しみは、食事だった。僕たち宇宙探査隊には、その過酷な任務に対する最大限の報酬として、神聖なる食べ物「シーフードヌードル」が供与されていた。ご先祖様達が泳いだ海の塩辛い水、そこに生きていた少し不気味な生物達の肉を、大地の恵みである小麦の麺とともに味わうこの食物には、地球に対する無限の郷愁が込められているのだ。僕たちは、この不思議な味わいの食物を口にするたびに、我々の双肩にかかる全人類の悲願を想起するよう言われたものだった。


もっとも、僕がいま探査艇の操縦席に腰掛けながら食べている「シーフード」は、本物の水中生物達ではない。彼らはコロニーの保管庫の中で放流される日を待っており、僕が食べているのは、植物由来のタンパク質から合成した「マジカル・シュリンプ」や「ミラクル・スクィッド」である。


僕がカップの三分の一ほどを食べ終わったとき、突如として警報装置がうなった。危険、急激な重力場の発生を検知。ブラックホールの赤ん坊が産声をあげた模様。外部監視用のペリスコープは、すでに磁気嵐にやられたらしく、ブラックホールの姿を見ることはできなかった。


僕はヌードルのカップを脇にどけると、姿勢制御用スラスターの出力を全開にし、ブラックホールからの回避に移行した。目視で位置を確認できなかったから、とにかく計器に指し示された重力ベクトルの反対方向へ逃げるほかはない。姿勢制御用スラスターのスロットルを徐々に絞り、針路を定めつつ、前進スラスターのスロットルを全開にする。本当に大変なのはここからだ。何しろ、ブラックホールから逃げるというのは、ブラックホールに吸い寄せられる幾千万の石やデブリに向かって行くことなのだ。もしペリスコープが生きていたら、その光景は、砂を掴んで投げつけられたように見えただろう。外が見えないというのは、むしろ幸運だったかもしれない。どっちみち避ける暇はなく、運を天に任せて、文字通り目をつぶって突っ走るしかないからだ。


僕が気休めにヘルメットを装着して酸素供給スイッチをオンにした途端、ガツンと船体に強力な振動があり、ハーネスをしていなかった僕は船外に吸い出された。当たっちまった。しばし視界が回転したあと、僕はブラックホールの姿を見ることができた。黒い穴に向かって周囲の物体が吸い寄せられて行く様子は、図鑑で見た「タコ」や「イソギンチャク」を思い出させた。


僕の姿勢は、ブラックホールの重力ベクトルにおおむね固定されたようだ。万事休す。あとはブラックホールに向かって一直線に吸い込まれて行くだけだ。僕の少し前方には、先に吸い出された食べかけの「シーフードヌードル」が飛んでいた。近づきも離れもせず、同じ重力のベクトルに乗って、ブラックホールに向かう僕たち。「事象の地平面」の果てに、僕たちは海を見ることができるだろうか。

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