終章

〜エピローグ〜

 風は、澄んだ空気の中に、ほんのり秋の気配を乗せて軽やかに走り抜けていく。


「山の上はぼちぼち雪景色になっていそうだが、この辺はまだ紅葉が始まったばかりだし、ミルファはまだ緑が優勢だろうな」

 イルギネスが手をかざして、遠くに連なる山々を眺めている。

 彼の言う通り、遥か北にそびえるドラガーナ山脈竜の背はだいぶ色付き、標高がある山の天辺てっぺんには、いくらか白い色が乗っているのが確認できる。

「そういや、山の中はすっかり紅葉してたもんな。食い物がうまい季節だ」しらかげが、背負ったザックを肩を動かして軽く調整しながら、にんまりと笑顔になった。

「酒も、って言うんだろ?」啼義ナギの先回りに、イルギネスと驃が「もちろんだ」と同時に答える。啼義はわざとらしく顔をしかめて、「あんたら一年中じゃねえか」と突っ込んでやった。

 言われた二人は、ケラケラと笑う。「間違いない」

「ったく。しょうがねえな」啼義が振り返ると、嬉々として三人を眺めるリナと目が合った。啼義の眼差しが、そうとは意識せずに柔らかくなる。彼はリナの方に歩み寄った。

「ミルファに着いたら、アディーヌにもきちんと話そう」

「うん」

 自分を少し見上げて微笑むリナは可愛い。啼義はそれだけで嬉しくなって、「あとさ、一緒に港に行ってみよう。海を見ながら散歩したりさ」と早くも二人で出掛ける計画を口にした。

「うん」リナはちょっと照れたように、伏し目がちになって頷く。

 その時、妙な静けさを感じた啼義が自分の肩越しに首を捻ると、イルギネスが気持ちの悪い笑顔を浮かべて立っていた。

「わあぁっ!」

「啼義様。護衛に内緒で抜け出すのはおやめ下さいね」

 イルギネスは芝居がかった口調で啼義に諭した。驃までもが、「立場をわきまえたお付き合いをなされますよう」などと、やんわりと口元を上げて釘を刺す。

 啼義は、途端に居心地が悪くなった。この二人、明らかに面白がっている。

「先が思いやられる……」

 頭を抱えた未来の主人に、両側から朗らかな笑い声が降り注いだ。

桂城かつらぎ殿に倣ったまでさ。俺たちも今のうちに、そういう態度の練習をしとかないとな」言葉とは真逆に、イルギネスが遠慮なく啼義の肩に腕を回す。「デートのおすすめコースなら、俺に任せろ」彼は青い瞳に悪戯っぽい光を浮かべると、腕に軽く力をこめた。「幸せそうで何よりだ」

「うげっ」啼義が呻く。

 解放されるや否や「全然出来てねえじゃねえか!」と非難の声を上げると、イルギネスは「いやあ、敬意が行きすぎてだな」とうそぶいた。

「愛されて何よりじゃないか」

 驃が笑いながら、啼義の肩を叩く。啼義は抗議した。「敬意にしろ愛にしろ、雑すぎるだろうが」

 二人の自分への扱いは、主人へのそれというより、年の離れた弟か何かのようにしか思えない。とは言え、こんな気の置けないやり取りの中にいるのが、すっかり心地良くなってしまっているのも事実だった。だが、その感情に素直に屈するのは何だか悔しくて、どうしても眉間に皺を寄せて辟易とした顔を作ってしまう。


<待てよ? もしかして>

 啼義は、眉間の皺をほぐしながらふと思った。そういう顔を、レキもよくしていたような……

<靂も、俺のこと──ちょっとこんなふうに思っていたのかな>

 子犬のようにまとわりつく幼い自分に冷ややかな眼差しを向けながらも、追い払わずに好きにさせてくれていた靂の心理が、今少し見えた気がした。

 同時に思い出すのは、いつも密かな憧れを抱いて追っていた、濃紫の羽織の裾を揺らして悠然と歩を進める靂の、威厳に満ちた姿。


<俺も、なれるだろうか>

 頭領として、最後まで全てを背負って立った靂のように。


<やるしかない>

 イリユスの神殿での"竜の加護の継承者"という自分の立場とて、二十年近くも空いていた場に外から来た者が簡単に治まれるほど、現実は簡単ではないだろう。それでも──


「行くか」

 イルギネスが、凪いだ海のような青い瞳で啼義を見つめている。啼義はその穏やかな眼差しを受け止めると、力強く頷いた。

「ああ」


 新たな物語はまだ、これから。

 行く先に何が待ち受けていようとも──ここにいるかけがえのない仲間と共に、自分なりのやり方で向き合い、乗り越えていこう。


 啼義は一同を見渡すと、今やすっかり逞しくなった笑顔で、声高らかに告げた。

「さあ。イリユスの神殿に向けて出発だ」




(了)

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