風の導き 6

 母の歌声のような優しい響きが、ダリュスカインの耳をくすぐった。


 しかし、知っている歌ではないし、よく聞くと母の声とも違う。

<一体、誰が>

 確かめようとして、しかし瞼は重く、押し上げるように目を開けた。一瞬、ぼんやりした世界に包まれたあと、だんだんと視界がはっきりしてくる。見上げているのは天井だと気づいた。

<ここは>

 そこに映る大きな梁には、見覚えがある。そして、歌声はまだ、彼の耳に届き続けていた。いささかの不自由を感じながら、彼はそちらへ目を向ける。

 

 そこには、結迦ユイカの姿があった。

 声は、結迦の口元から発せられている。座敷の上に姿勢よく正座して衣服を畳みながら、鈴の音のような声で、柔らかな旋律を奏でている。


<声を──>

 夢現ゆめうつつにその光景を見つめていると、結迦がふと顔を上げ──瞬間、息を飲んで深緋色混じりの紅い瞳を見開いた。

「あっ……!」

 彼女は肩で大きく息をつき、次にはまろぶように枕元へ駆け寄るとダリュスカインを覗きこんだ。ダリュスカインが確かに目を開けているのを見て、彼女の瞳が潤む。

「カイン」

 間違いなく、結迦の声が自分を呼んだ。別れのあの日、初めて耳にし、まだ自分の耳に残っている凛とした涼やかな声で。自分が幼き日に呼ばれていた、懐かしい呼び名を。

「……結迦」

 呼び返された結迦が、毛布の上に出ていたダリュスカインの左手を、華奢な指先で包む。伝わる体温はダリュスカインの心の奥まで届き、冷えた身体に徐々に熱が通い始めた。

「これは──夢か?」

 すると彼女は、激しく首を振る。

「夢なんかじゃありません。あなたはちゃんと、目を開けています」

 結迦の瞳から涙がこぼれ落ち、ダリュスカインの頬を打った。ぽたぽたと結迦の涙が頬を打つたびに、ダリュスカインの中に、命の実感が甦ってくる。


<俺は、生きているのか──>


「ごめんなさい」

 自分の涙に気づいて、慌てて顔を拭こうとした結迦の手を、ダリュスカインの左手がそっと掴んだ。

「いや」

 涙に濡れた結迦の顔を、じっと見つめる。結迦もまた、ダリュスカインの赤い──光を取り戻した瞳を見つめた。もう何を取り繕うことも忘れ、二人は互いの目を逸らすことなく視線を重ね合わせる。

「お帰りなさい」

 しっかりとした声で、結迦は言った。

 溢れる思いのままダリュスカインを抱くように回された腕に、彼は躊躇いがちに手を触れる。しかし触れてみれば、その手は本能的に結迦の肩に沿って艶やかな黒髪へと流れ、髪に纏うほのかな花の香がダリュスカインの鼻先をかすめた。


<ああ>


 柔らかな香りを確かめるように、目を閉じる。結迦の髪を撫で、その顔を自分のもとに引き寄せた。抵抗することなく、結迦の顔が、ダリュスカインの肩に収まった。

 頬と、頬が触れる──温かい。

<夢ではない>

 両手で抱き寄せられぬ悔しさを感じながらも、ダリュスカインの胸の内に果てしない安堵が広がった。熱い刺激が目の奥に突き上げてきて、きつく目を瞑る。

 ずっとずっと求めていた温もりが今、全ての苦衷くちゅうを溶かしていく。


<もう一度、生き直せるだろうか>

 残されたこの、一本の腕で。


 結迦の涙が、閉ざしていた心の深い場所に恵みの水となって流れ込む。

 

<──置いていくわけには行くまい>

 償う術など、分かりはしない。だが、生きながらえたからには、成すべきことがあるはずだ。


 ダリュスカインは、別れた時と同じように、ゆっくりと結迦の黒髪に左手を這わせる。もう二度と触れることはないと思っていた、けれど確かにここにある、愛おしい温もり。


「結迦」

 腕にできる限りの力をこめ、結迦をしっかりと抱きこむと、彼は心に強く誓った。


 この一本の腕の中にあるかけがえのない存在を、今度こそ命を懸けて守って行こうと。

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