魔の刻石 5
アディーヌは荒く息をつき、倒れ込むように床に手をついた。その左手に、何かを握っている。
「アディーヌ様っ」
リナがその背に手を添え声をかけると、アディーヌは苦しげに言った。
「私は大丈夫です。あなたは
リナは立ち上がり、啼義を見た。完全に意識を失った彼の右肩は血にまみれ、正視するには一見おぞましい状態だが、傷はそこまで大きくはなさそうだ。
代わってイルギネスがアディーヌの元に片膝をつき、「アディーヌ様、こちらでお休み下さい」と、彼女をしっかり支えて、椅子に導く。
「ありがとう」アディーヌはやっとの思いで椅子に腰掛けた。予想以上に根深い呪念に、かなりの魔力を消耗してしまった。
彼女はまだ震える左手を、そっと開いてみた。そこにあったのは、石のような黒い塊──魔術師の間ではこれを、魔の刻石と呼んでいる。血で汚れて不気味さを際立たせているそれは、乗せた手のひらに微かにチリチリと刺激を与えてくる。長く魔術師として色々な症例を見てきた彼女でも、これほどの呪念には、数えるほどしか出会ったことがない。アディーヌはその執念深さに、危機感が募るのを感じた。
<よくもこんな……ダリュスカイン、どんな魔術師だというの>
けれど、これがあれば、相手の居場所を探れるかも知れない。アディーヌは慎重に、魔の刻石を両手で包み込んだ。
リナは、手早く啼義の右肩の傷口を確認した。まだ出血が止まっておらず、触れると指先に血が付く。しかし伝わってくる波動から判断するに、幸い、啼義の生命源は充分なようだ。これなら制限をかけずに、治癒をかけても大丈夫だろう。
治癒術は万能ではない。術師の魔力はもちろんだが、施される側の、生命源という目に見えぬ要素が効果を左右するのだ。これを見極められないと、場合によっては双方に危機が及ぶ。
リナは意識を集中した。掌から白い光が生まれ、少しの間そこに留まる。傷の奥まで浸透したのを感じると、今一度、集中の度合いを上げた。啼義の生命源の核の反応を探し当て、意識をそこへ繋ぐ。光は一瞬、ふわっと膨張すると、静かに右肩に吸い込まれた。
効果を後押しするようにしばらく集中を保ってから手をどかすと、傷口は薄い跡だけ残して、綺麗に閉じていた。リナは安堵の息をつく。「良かった」
「さすがだ」
振り返ると、イルギネスとアディーヌも、同じようにほっとした表情でこちらを見ている。
「もう大丈夫だと思う」リナは微笑んだ。と同時に、彼女は自分の心情が変化しているのを感じた。
ついこないだまで、こんなことしか出来ないと卑下する気持ちが、どうしても拭えなかった。でも今は少し違っている。
『あんたきっと、誰かを救ったり癒したり、そういうの向いてるんだよ』
目の前で眠っている青年の言葉は、いつの間にか、自分の劣等感を薄めてくれていたようだ。
リナは、啼義を見つめた。辛い思いをしてここまで来て、またこんな痛い目に遭って。だが不安の種は、ひとつ取り除くことが出来た。
<早く目を覚ましますように>
そうして緊張が解けたところで、リナはふと思い出した。
「
イルギネスが「あ」と扉の向こうに目をやる。先ほど階下へ向かった友は、戻ってくる気配がない。
「下に行ったままだ。薬か何かの客だったのかな──あいつ、そういうの分かるのか?」
するとリナが、なんとなく申し訳なさそうに言った。
「イルギネスを待っている間、よくお店を手伝ってくれてて。ひと通りのことは大丈夫なはずだけど、警護隊の準副長に店番なんて、なんだかごめんなさい」
それを聞いて、イルギネスの表情が緩んだ。驃は神殿内において、イルギネスより一級上の肩書き持ちなのだ。
「なるほど。それなら気にするな。あいつ、何か役割がある方が落ち着くんだよ」
「でも、任せきりではいけないわね。私が行きましょう」アディーヌが立ち上がったので、イルギネスとリナが慌てた。「アディーヌ様、もう少しお休みください」
しかし彼女は「もう大丈夫です」と微笑んだ。確かに顔色は戻ってきているが。
「リナ。あなたは啼義様のお世話を」言われて、リナは引き下がった。傷口が塞がったとは言え、右肩はまだ血に汚れたままだ。そのままにはしておけない。
イルギネスに支えられてアディーヌが部屋をあとにすると、リナは啼義のベッドの横の小さなテーブルに置いた洗面器の水で布巾を濡らして絞り、丁寧に右肩の血を拭き取ってやった。続けて痛みで汗が浮いた額を拭っていると、啼義が目を開けた。
「大丈夫?」
思いのほか早い目覚めに驚いたものの、リナは務めて穏やかに尋ねる。啼義の黒い瞳が彼女を捉えた。彼はふぅと息を吐くと、「うん」と答えて数度瞬きをし、顔ごと彼女の方を向いて、弱々しく笑った。
「だいぶ痛かったけどな」
「うん」
「……俺、ぶっ倒れてばっかりだ」
情けねえな、と小さく呟く啼義に、リナが優しく微笑む。
「頑張ったじゃない」
まるで子供に言うみたいだな、と啼義は思った。でも少し嬉しくなって、自然と口元がほころぶ。
「俺は寝てただけだよ。それに──」
言葉を切った啼義に、リナが不思議そうに首を傾げた。「それに?」
「またあんたに、世話になっちまった」
啼義は、その目に困ったような色を浮かべて彼女の方を見る。
「いいのよ。それが私の役目だから」そう言った彼女の表情は、心なしか誇らしげだ。
「呪術が成功してよかった。これでもう、右肩は心配ないわ」
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