魔の刻石 4

 アディーヌがリナと共に、啼義ナギと一緒に彼らの寝泊まりしている二階の部屋にやって来ると、あっという間に準備が整えられ、緊迫した空気が部屋を満たしていた。

 リナが、不安を隠せない面持ちで、アディーヌの後ろに立っている。イルギネスとしらかげは扉の前に待機していた。任せるとは言ったが、物々しい雰囲気に、啼義の心の内には不安が渦巻く一方だ。

「啼義様、この念を取り出すには、痛みと出血を伴います。解術が終わったら、リナに治癒をかけてもらうので、どうかそこまで辛抱ください」

 彼は渋面になった。一体、どんな苦痛を伴うのだろう。痛いのは勘弁したい。しかし、リナも見ている前で、それを口にするのははばかられた。剥き出しの上半身──右肩に目をやるが、やはり表面上は何ともない。この中に、一体何が埋め込まれていると言うのだろう。

「わかった」

 平静を装って答えたものの、自分は戦い慣れた剣士のような、鍛えられた精神の持ち主ではない。身体の奥底から湧き上がる恐怖の感情を忘れようと、一度、ぐっと目を閉じた。どうせなら、早く終わらせてもらった方がいい。

「では、始めます。横になって」

「うん」

 啼義はベッドに身を横たえると、覚悟を決めて深く呼吸をし、気持ちを落ち着けようと努力した。

 その時──「すいませーん!」という女性の声と、階下の扉のベルを鳴らす音が響き、啼義は驚いてビクッと肩を振るわせた。

「俺が行きます」と、驃が速やかに去ると、啼義はもう一度、深く息をついた。自分でも嫌になるくらい、待ち受ける施術に恐れをなしている。だけど、ここで止めるわけにもいかない。放っておけば、もっと恐ろしいことになるのだろうから。

 アディーヌが啼義の右肩のあたりに、先ほどと同じように掌をかざす。そして何か──「呪念開放リ・コスタナ」と聞こえた気がした。

呪念コスタナ>啼義はその言葉の意味を思うと、またも体が冷えるのを感じた。こんな形で呪いの念を仕込まれるほど、自分は恨まれていたのか。それとも単に、ダリュスカインの淵黒えんこくの竜への強い想いが形になっただけなのか──そっちの方がまだマシだ。

 そんなことを思いながら目を瞑っても、最初は何も起きなかった。が、そのうち徐々に引っ張るような感覚が肩の奥から起こり始めた。

「い……たっ」

 ほどなくして、啼義の身体の中に留まろうとする力と、取り出そうとする力でのせめぎ合いが起こって、それは肉を裂くかのような激痛に発展した。見ると右肩から、薄く、黒い煙のような気体が立ち上がっている。

「ああっ!」

 本当に引き裂かれるんじゃないかと思うような痛みに言葉を発することもできず、せめて息をつこうとするも、呼吸がうまく取れない。とてもじゃないが、じっと寝ていられる状態ではなかった。

「イルギネス、お願いっ」リナの切迫した声が、遠くで聞こえる。

 強烈な痛みから逃れようと無意識にばたつかせた啼義の手足を、駆け付けたイルギネスが押さえる。だが、あまりに耐えがたい苦痛は、熱を伴って啼義の右肩をもぎ取ろうとするかのように軋んだ。

<助け……>

 灼けるような熱さに喘いだ啼義の右手首を、イルギネスが掴む。彼はもう片方の手で起き上がりかけた啼義の左肩を押し戻し、耳元に顔を寄せた。「大丈夫だ。もうじき終わる」その力は少しの抵抗も許さないほど強いのに、届いた声は優しかった。

「う……ん」

 それでいくらか落ち着いたものの、痛みが引くわけではない。と──


<え?>


 目を開けると、そこは懐かしい場所だった。

 眼下に見えるのは、忘れもしない、羅沙ラージャやしろの奥の間だ。どうやら自分は、空を飛ぶ鳥のように、この場所を見下ろしている。ということは、これは夢か。

<あれは──>

 雪が微かに舞う中、縁側に腰掛け、うなだれて足をぶらぶらとさせているのは、幼い日の自分だ。十歳くらいだろうか。

『啼義様』

 後ろに現れのは、豊かな金の髪をふわりと肩に下ろしたダリュスカインだった。まだ、二十歳前くらいに見える。その光景には覚えがあった。これは夢ではない、記憶だ。

『そんなところにいらっしゃると、風邪をひきますよ』

『俺が風邪をひいたって、別に誰も困んないよ。親がいるわけでもないし』

 不貞腐れた言葉を放った啼義の隣に、ダリュスカインが黙って座る。彼は静かに言った。

『私も、独りです』

 啼義は顔を上げた。ダリュスカインは綺麗な横顔を雪の舞う庭に向けたまま続ける。

『でも貴方には、レキ様がいます。靂様はいつだって、啼義様のことをちゃんと、大事に思っておられますよ』

 啼義は驚いた。靂の態度のどこを見て、そんなふうに思うのだろう。今だって、自分が泣きそうなほど寂しいのに、そばに来ないじゃないか。

『何言ってんだ。いつも冷たいし。それに……本当の親じゃねえもん』

 ダリュスカインはそれには何も返さず、ただ、小さく息を吐いた。息は白く色づいて、すぐに空気に溶け込んでしまう。

『そうですね』

 しかし彼は去ろうとはせず、そのまま啼義の横で、しばらく一緒にしんしんと降り始めた雪を眺めていた。

<ダリュスカイン……>

 あの時、結局ダリュスカインが傍にいてくれたことで、幼い自分の心がなぜだか救われたのを覚えている。でも今思えば──自分は、彼の気持ちなど全く理解していなかったんじゃないだろうか。

 そう気づいた時、啼義は今まで見えていなかった何かを掴んだ気がした。

<違う気がする>

 ダリュスカインは自分に対し、どんな思いを抱いていたのだろう。

<靂の仇として討ち取れば、それでいいのか?>

 その思いは疑問となって、啼義の頭の中を回り始めた。その先の思考を突き詰めようとしたところで、突然目の前の"記憶"が揺らぐ。そこで彼の意識は深く、再び闇の中へ落ちていった。

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