手繰る真実 1

 予想はしていたものの、アディーヌは驚かざるを得なかった。

 姿を現した黒髪の青年の、纏う空気があまりに馴染み深いものだったからだ。どちらかと言えば細身ながら、均衡のとれた立ち姿。背丈こそ幾分低いが、まだ伸びるだろう。そして──吸い込むような漆黒の瞳も、覚えがある。近くで見れば、瞳孔の周囲の虹彩には、僅かに濃茶が混じっているはずだ。

<ディアード様>

 アディーヌが黙っていると、啼義が、おもむろに口を開いた。

「あの……」やや硬い表情で、軽く頭を下げる。

「初めまして。啼義ナギです」

 丁寧な言葉を使い慣れていないことが如実に分かる、少々ぎこちない口調──だがその声は、アディーヌの中に確信を生んだ。心根の真っ直ぐさを感じさせる、通りの良い澄んだ声。目を閉じれば、ディアードが喋っているかのようにすら聴こえそうだ。彼女は一度目を伏せ、懐古的な思いを振り払うと、立ち上がり一礼した。

「初めまして。私がアディーヌです。啼義様」

 自然と、言葉遣いも主君へ向けてのそれになる。長いこと神殿に仕えてきた身に染み込んだ、主従の意識だ。その態度に、啼義が驚いて瞬きをした。敬称付きで呼ばれるのは、ひどく懐かしい気がする。羅沙ラージャを出て、まだ半月も経たないのに。

「ええと、その……様はいらないって言うか──」戸惑っていると、アディーヌが口を開いた。

「イルギネスたちから聞きました。貴方様は、我々イリユスの神殿を率いる『竜の加護』の継承者です。私たちは、貴方様に敬意を払う必要があります」

「敬意……」

 彼女の後ろでは、イルギネスがどことなく複雑な顔をして、壁に背を預けて立っている。彼は啼義に対して、今のところそういった態度をとっていないが、やがては主従だと、旅の間に一度だけ口にしたことがあった。それは、こういうことなのだ。

 急に距離ができた気がして、啼義の顔になんとも言えぬ感情が浮かんだ。この気持ちを、どう告げたらいいのだろう。

「でも、まだ──せめて、神殿に行くまでは……俺はこのままでいたい」

 思わず口にしていた。慣れていたはずの敬称が、今はひどく重い。それにまだ自分は──いくらもこの現実を受け入れられていないことを、今さら痛感した。

 動揺を隠せずに奥の方に目をやると、何かが伝わったのか、リナが料理の盛り付けをしながら、ちらとこちらに視線を向けた。その隣で、しらかげも、大きな木製の盆を手にして、やはりこちらを見ている。

「丁寧な言葉遣いじゃなくたって、敬意を払ってないわけじゃないだろ?」

 自分で思っている以上に、切実な願いのように、それは聞こえた。

 イルギネスに助けられてから今日まで、過酷な自分の状況に目を向ければ心が折れそうになりながらも、初めて見る世界は新鮮で、時に辛い現実を忘れることもできた。それは、一人じゃなかったからだ。イルギネスだけではない。港で再会した朝矢ともやや、ここにいるしらかげ、そして──リナも。いつかは重くのしかかるであろう立場を、意識せずにいられるからこそ、ややもすれば悲鳴を上げて沈みそうな痛む心を、なんとかこらえて進めるのだ。今、彼らとの間に身分の差という溝が出来ることは、自分には耐え難かった。

「啼義様、どうかご心配なく。今すぐ彼らに態度を改めよとは、言っておりません。あくまで私たちの気持ちに、それがあるというだけのことですよ」

 アディーヌが彼の気持ちを汲み、その懸念を晴らそうと諭すように言うと、啼義の気の張った表情が、おそらく本人も気づかぬまま、ほっと緩まった。

「そっか……なら、いいんだ」

 ひとまず安堵し、ふうと息をつく。無意識に、肩に入っていた力が抜けた。自覚していなかった自身の心を、こんな形で確認することになるとは。

「驚かしてしまいましたね。申し訳ございません」

「いや」

 啼義は首を振った。彼の表情が和んだのを見て、アディーヌも安心したように頷き、「どうぞ、お掛け下さいな」と促した。啼義は従い、アディーヌの立つ正面の椅子に腰掛ける。しかし彼女の胸の内は、落ち着いた物腰とは裏腹に、とめどない思いに震えていた。

<本当に──懐かしい>

 粗野な部分もあるが、純粋で裏表のない性格であろうことは、今のやりとりで充分わかった。一緒に暮らした経験などなくとも、そんなところは、父親譲りの気質を引き継いでいるようだ。ディアードの失踪から二十年近くになり、もう諦めかけていたのに、こんな導きがあろうとは。

「啼義様。色々伺いたいこともありますが、ひとまずお食事にしましょう。お腹が空いていらっしゃるでしょう?」

「ああ……うん。まあ」

 啼義は不意に空腹を覚えた。よく眠って熱も下がり、体調が回復した証拠だろう。緊張が解けたせいもある。

「すぐお持ちしますから、少々お待ち下さいね」

 アディーヌが優しく微笑んだ。啼義は漠然と思った。母親というのは、こういう雰囲気なんだろうか。

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