癒しの手 4

 リナはそっと、啼義ナギが眠っている部屋の扉を開けた。まだ彼は目を覚ましていないようだ。足音を立てないように静かにベッドに近づくと、熟睡しているその横顔をしげしげと眺めた。

 イルギネスの話は、あまりに衝撃的だった。自分とそう歳の変わらない青年が、自分には想像も出来ないほど過酷な道をくぐり抜けてきた事実に、彼女の心は痛んだ。

<全然、知らなかった>

 昨晩出会った時、イルギネスたちとたまたま居合わせた旅人か何かかと思ったのだ。だから今朝、彼が自分の口ずさんでいた歌に救われたと言った時も、さして気には留めなかった。あれは遥か昔、淵黒えんこくの竜に踏みにじられた地で、哀しみに暮れる者たちを癒すために、吟遊詩人がいにしえの言葉で綴った歌と言われている。だから、謎めいた発音で伝承していて、それを知らなければ、何を歌っているか分かりようもない。

 だけどあの時──こんな自分でも、大きな傷を負っているであろう彼の心を、少しは癒せたのだろうか。

 ふいに啼義が寝返りを打ち、リナはびくりと身を引いた。

「……レキ

 彼の、わずかに開いた口から、声が漏れる。「嫌だ……行くな」搾り出すように続き、彼女は困惑した。辛い夢を見ているようだ。

<どうしよう>

 求めるように宙を彷徨う彼の手を、他に方法が思いつかずに、咄嗟とっさに掴んだ。すると、その手が強く握り返された。

「靂」

 握った手が、まだ微かに震えている。一瞬迷ったが、もう片方の手も添えて静かに包んでみた。そこまでして、ようやく震えは止まった。

<よかった……>

 しっかりと握った手の温もりに安堵する。包んだ手にそっと頬を寄せ、気づけば彼女は、今朝の歌を囁くように口ずさみ始めていた。


 闇に光る星が 道を示す

 雲間に覗く希望が

 あなたを導くでしょう

 だから泣かないで

 空を見上げて 導く光を探そう

 蒼き竜がきっと あなたを護ってくれる


「大丈夫」

 大丈夫だよ。

「行かないから、大丈夫」

 その時、啼義の瞼がゆっくりと開いた。もう一度、視界を確認するように瞬きをする。──と。

 視線がいきなり重なり、二人で硬直した。

「あ……」

 互いが握り合った手に気づくまで、そう時間はかからなかった。啼義が跳ね起き、壁に背を張り付けて自分の手とリナを見比べる。

「な、なに?」

 啼義の頭は混乱していた。俺は今、こいつの手を握っていなかったか?

「……え、俺──」

 狼狽うろたえている彼に、リナが謝った。

「ごめんなさい」

「えっ?」

「嫌な夢を見ているみたいだったから……つい」

「──夢?」

 啼義はなんと返していいのか分からず、ただ視線を彼女へ向けた。それからまた、自分の手を見返す。嫌な夢を、見ていた気はする。嫌というより、ひどく哀しい──そこで思い出した。

「……そっか」

 彼は独りごちた。

<靂に、この手を伸ばしたんだ>

 火の粉が舞う中に、靂が立っていた。しかし、啼義が呼びけると、彼はただ微笑んでゆっくりと踵を返し、炎の中へ向かいだした。だから止めようと、その背に必死に伸ばしたのだ。

 でもあれは、夢だったのだ。どんなに手を伸ばしても、届くはずがない。けれど──火の熱とは逆に、凍てつくほど冷たかった自分の指先は今、温かい。眠りから覚める直前、今朝と同じ優しい歌声に導かれた気がした。引き戻してくれたのは、リナだったのだ。

「謝ること、ねえよ」

 啼義は、申し訳なさそうに俯いている彼女に、自然に笑いかけていた。

「ありがとう」

 リナが顔を上げ、啼義を見た。彼の澄んだ黒い瞳は、柔らかな光を湛えて真っ直ぐに彼女に向いている。

「──うん」

 リナは意識して笑顔を作った。啼義の顔に、少しだけ寂しげな色が落ちていたからだ。二人はあらためて向き合った。

「もしかしてずっと、いてくれたのか?」ふと、思い出したように寝乱れた髪を撫でつけながら、啼義が聞く。

「あ、ううん。今来たところだったの。そしたら、うなされていたから……」リナは言葉を切り、心配そうに彼を見つめた。「大丈夫?」

 啼義が、見透かされたのを感じて、照れたように笑う。

「うん」

 リナがいて良かったと、彼は思った。あんな夢を見た後に一人で目覚めたなら、起きてもなお、辛く哀しい感情にさいなまれたに違いない。

 身体の調子は問題なさそうだ。熱の気配も引いている。啼義が自分の状態を確認していると、リナが言った。

「アディーヌ様がお帰りになられているの。大丈夫そうなら、居間に下りる?」

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