癒しの手 3

 午後も半ば──

 イルギネスが文をしたためていると、リナが呼びに来た。

「アディーヌ様が戻られたわ。啼義ナギの様子はどう?」

 ベッドの中の啼義は、すやすやと眠っている。顔色は良さそうだ。リナはほっとした。

「熱は下がったみたいだが、まだこの調子でぐっすりだ。ひとまず、俺だけ下りるよ」

「うん」

 リナがなんとなく視線を向けた先の啼義の寝顔は、意外とあどけない。

<……子供みたい>

 和んだ気持ちになり、その顔をぼんやり眺めていると──

「リナ?」急にイルギネスに声をかけられ、彼女の心臓が小さく飛び跳ねた。

「うん。分かった」

 努めて平静を装って去った彼女の様子には気づかず、イルギネスは書きかけの文と筆を机の引き出しにしまった。

 彼の思いは、少し別のところにあった。窓の外を見て、小さく息をつく。ここまで戻って来たものの、事態は思いのほか複雑だ。文の送り先──恋人ディアの待つ故郷イリユスへ帰れるのは、いつになるだろう。


 イルギネスが居間に下りると、やわらかく波打つ鳶色の髪を高めに結い上げ、浅緑色のローブを纏った熟年の女性が待っていた。彼女はダイニングテーブルに着席し、質素な白い陶器のマグに淹れられた茶を飲んでいる。その焙じ茶の心地良い香りが、あたりにほんのりと漂っていた。彼がそのまま歩を進めると、彼女は顔を上げた。その右目は赤みのある茶褐色、左目は翡翠色の、特徴的な色違いの瞳。神秘的な佇まいのこの女性が、家の主であり、上級魔術師のアディーヌだ。

 イルギネスが軽くこうべを垂れ、穏やかに微笑んで迎えの挨拶をした。

「アディーヌ様、お帰りなさいませ」

 アディーヌは手にしたマグをテーブルに置き、イルギネスの方にゆったりと身体を向ける。

「戻りました。──あなたからはまだ、ここを発って以降の報告を受けてなかったわね」

 彼女が言うと、イルギネスの青い瞳が神妙な色を帯びた。彼は彼女の正面の椅子に腰掛け、姿勢を正し、おもむろに口を開く。

「今のうちに、お話したいことがあります」

 すると、彼女はまるで予想していたかのように「のことね?」と聞き返した。イルギネスは頷く。

「はい」

「なにか、混み入った事情がありそうね」

 窓際で剣を磨いていたしらかげも、ちらりと二人の方を見る。

「驃、あなたはもう、聞いているのかしら?」

「はい」

 彼は短く答えた。今から話される内容は、彼とイルギネスとの間で、今朝方まとめた話だ。

「聞きましょう。驃もこちらへ。リナ、皆にもお茶を淹れて差し上げて」

「はい」

 驃が剣を携えたまま、イルギネスの隣に座る。リナはお茶を振る舞ってから、少し気になりつつも、隣接する居間で夕飯の支度を始めた。どことなく不穏めいた空気は、気のせいだろうか。

 必要な野菜を台に並べ始めたその耳に、イルギネスの落ち着いた声が届いた。


「私が連れてきた、啼義という青年は──竜の加護の継承者、ディアード様のご子息です」


 時間が、一瞬止まったような気がした。

<──え?>

 リナの手も止まっていた。ゆっくりと振り返ると、張り詰めた沈黙が落ちている。

「まあ……どういうこと」

 アディーヌは驚きを隠せない一方で、リナの視線に気づいた。左右色違いの瞳が、リナの瞳に浮かぶ動揺を捉える。それを察して背を向けようとしたリナを、彼女が呼んだ。

「リナ。あなたもこちらに座って。ここにいる以上、関係者です」

「──はい」

 突然告げられた事実に、恐ろしいような予感が頭をもたげたが、断れる雰囲気ではない。リナは自分のお茶をカップに注いで、アディーヌの隣に座った。

「順序立ててお話しします」

 イルギネスがテーブルに乗せた手を組み直し、一同を見渡しながら、再び口を開いた。

「私が、彼──啼義を見つけたのは、山岳部への調査の後、ダムスまで戻る途中でした。その時の彼は瀕死の状態で、意識を喪失していたんです」

 瀕死という単語が、リナの中に重く響いた。だが、続いた話は、さらに重いものだった。

「彼は、故郷から逃れる途中で、襲撃を受けて倒れていました。そしておそらく、彼を襲撃した相手は生きていて、決着をつけない限り、神殿へは進めないものと思われます」

 イルギネスの表情は、すでに決めた覚悟を物語っている。彼はまるで自身の感情を切り離したように淡々と、今までの経緯を話し始めた。

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